第13話 庭先の白百合
母が「おかえり」と言うようになったのは、去年の秋からだった。
最初は、千鶴が帰宅した時だった。
玄関を開けると、母が廊下に立っていて、「おかえり」と言った。
それだけなら、普通のことだった。
でも母の目が、千鶴を見ていなかった。
千鶴の後ろを、見ていた。
千鶴の後ろには、誰もいなかった。
「ただいま」と千鶴は言った。
母はしばらく廊下に立っていて、それから「あら、千鶴だったの」と言って、台所に戻った。
その夜、千鶴は担当の医師に電話した。
認知症の進行によるもの、と医師は言った。
誰かを待っていて、別の人が来た時に「おかえり」と言ってしまう。
珍しいことではない、と。
千鶴は電話を切って、しばらく台所に立っていた。
誰を待っているのか、と思った。
でも聞けなかった。
聞いて、答えが返ってくるかどうか、わからなかった。
それよりも、答えが返ってきた時のことが、怖かった。
津田千鶴、五十三歳。
小学校の教員をしている。
今年で三十年目になる。
夫とは十五年前に離婚して、一人娘は今年から東京の大学に通っている。
母と二人暮らしになって、一年が経った。
母の澄枝は、八十一歳だった。
足腰はまだ動く。
食欲もある。
昔からよく食べる人で、今も三食ちゃんと食べた。
でも記憶が、少しずつ抜けていった。
最初は鍵の置き場所、次に約束、それから人の名前。
ゆっくりと、しかし確実に、抜けていった。
千鶴が心配しているのは、記憶が抜けることではなかった。
抜けていく過程で、母が何かを待ち続けていることだった。
誰かを、待っていた。
それが誰なのか、千鶴には長い間、わからなかった。
父の一郎は、千鶴が生まれる前に死んだ。
戦死だった。
太平洋戦争の末期に戦地へ赴いて、昭和二十年に逝った。
二十四歳だった。
澄枝は二十二歳で、一郎との間に子どもはまだいなかった。
千鶴は父の顔を知らない。
写真が一枚だけある。
白黒の写真で、軍服を着た若い男が写っている。
目が細くて、頬骨が高くて、顎がしっかりしている。
笑っていない写真だったが、目が笑っているように見えた。
千鶴は子どもの頃、その写真に向かって「おとうさん」と呼んだことがある。
返事はなかった。
当たり前だった。
でも子どもだったから、返事が来るかもしれないと思っていた。
来なかった。
それから千鶴は、写真に向かって話しかけることをやめた。
母は父の話をほとんどしなかった。
聞いても、「優しい人だったよ」と言うだけだった。
それ以上は話さなかった。
千鶴も深く聞かなかった。
聞けない空気が、母の周りにあった。
でも今、母は誰かを待っている。
廊下に立って、玄関の方を向いて、「おかえり」と言う。
千鶴には、その「誰か」が、父だと思えてならなかった。
白百合を届けに来たのは、六月の晴れた朝だった。
千鶴は仕事で外出していた。
母が一人で家にいた。
帰宅した千鶴が玄関を開けると、廊下に白百合の花束が置いてあった。
花屋の包装紙に包まれていた。
誰かが置いていったものだった。
「お母さん、これ誰が持ってきたの」と千鶴は聞いた。
母は縁側に座っていた。
庭の方を向いていた。
千鶴の声に気づいて、振り向いた。
「花屋さんが来たよ」と母は言った。
「誰かが送ってくれたの?」
「違う」と母は言った。
「届けに来た人が、くれたんだよ」
千鶴は首を傾げた。
「どういうこと? 誰かへの配達じゃなくて?」
「うちへの配達だったけど」と母は言った。
「その人が、おまけに持ってきてくれたんだよ。白百合、好きだって知ってたから」
「誰がそれを知ってるの」
母はしばらく黙った。
それから「さあ」と言って、また庭の方を向いた。
千鶴は白百合を手に取った。
包装紙に、花屋の名前が入っていた。
「みなと花店」とあった。
この近くの花屋だった。
千鶴は見知っていた。
でも白百合をうちに届ける理由が、思い当たらなかった。
翌日、千鶴は「みなと花店」に立ち寄った。
昨日、白百合を届けた配達員のことを聞くためだった。
花屋の主人は、少し首を傾げた。
「昨日、ご注文をいただいた配達は何件かあったんですが、白百合は、確かにお届けしました。でもおまけを渡すのは、うちではしていないんですよ」
「おまけ、ではないんですか」と千鶴は言った。
「うちの配達員に確認しますが、ちょっと待ってください」
主人が奥に引っ込んで、しばらくして戻ってきた。
「昨日の配達を担当した若いのに聞いたんですが、お宅に伺った時に、お母さまが縁側にいらっしゃって、白百合が好きだとおっしゃったから、残っていた一束を差し上げたと言っていました」
「母が、白百合が好きだと言ったんですか」
「そうらしいです。お母さまが、『一郎さんがいつも持ってきてくれたから好きなんだ』とおっしゃったとかで・・その子が、居ても立ってもいられなくなって、渡したらしいんです。すみません、余計なことをしてしまって」
「いいえ」と千鶴は言った。
「ありがとうございます」
一郎さん、という名前が、千鶴の胸の中で転がった。
その配達員に会いたい、と思った。
主人に頼むと、「今ちょうど戻っているので」と言って、奥から呼んでくれた。
出てきたのは、若い男だった。
二十代の半ばか、それより少し若いか。
日焼けした顔で、手が大きかった。
腕が日焼けしていて、血管が浮いていた。
花屋の作業着を着て、エプロンをしていた。
「昨日、母にお花を届けてくださった方ですか」と千鶴は言った。
「はい」と男は言った。
「余計なことをしてしまいましたか」
「いいえ」と千鶴は言った。
「お礼を言いたくて。母が喜んでいました」
男は少し安堵した顔をした。
「よかった。なんか、そうしないといけない気がして。変ですよね」
「変じゃないです」と千鶴は言った。
「あの、少し聞いてもいいですか。母が何か言いましたか。その時に」
男は少し考えた。
「お母さん、縁側に座ってらっしゃって。庭を見てたんですが、配達の確認で声をかけたら、こっちを向いて。その時、『おかえり』って言ったんですよ」
千鶴は息をのんだ。
「それで、なんか、こっちも戸惑ってしまって」と男は続けた。
「でもお母さんが、白百合を見て、すごく嬉しそうな顔をされて。『一郎さんがいつも持ってきてくれた』って言うから・・残っていた分を渡したくなったんです」
「おかえり、と言ったんですね」と千鶴は言った。
「はい」と男は言った。
「何度も」
千鶴はその夜、アルバムを出した。
古いアルバムだった。
母が管理していたもので、千鶴は子どもの頃に一度見たことがあるだけだった。
父の写真が、何枚かあった。
軍服の写真だけではなかった。
私服の写真もあった。
夏の日に、川のそばで撮ったらしい写真。
工場の前で同僚たちと並んだ写真。
そして一枚、母と並んで写っている写真。
二人とも若かった。
父は二十代前半だろうか。
日焼けした顔で、腕が太くて、血管が浮いていた。
笑っていた。
今まで見た写真とは違う、笑っている写真だった。
千鶴はその写真を見た。
日焼けした顔。
太い腕。
浮いた血管。
今日の花屋の配達員の顔が、重なった。
顔立ちは違う。
声も、体格も、細かいところは違う。
でも日焼けした腕の様子が、血管の浮き方が、似ていた。
母が「おかえり」と言った。
何度も、言った。
千鶴は写真を持って、縁側に出た。
母がまだそこにいた。
夜になっても、縁側が好きだった。
庭の暗がりを見ていた。
「お母さん」と千鶴は呼んだ。
母が振り向いた。
「これ、お父さん?」と千鶴は写真を見せた。
母は写真を見た。
しばらく見た。
「そうよ」と言った。
「一郎さん。若い頃ね」
「笑ってる」と千鶴は言った。
「よく笑う人だったよ」と母は言った。
「照れ屋で、でもよく笑った」
千鶴は母の隣に座った。
二人で庭を見た。
「昨日来た花屋さんに、おかえりって言ったんだって」と千鶴は言った。
母は少し黙った。
「そう言った気がする」と言った。
「なんかね、似てたから」
「誰に」
「一郎さんに」と母は言った。
あっさりと言った。
「腕とか、笑い皺とか。一瞬だけ、そう思った」
千鶴は母の横顔を見た。
八十一歳の、皺の深い横顔だった。
認知症が進んで、今日の午前のことは覚えていないこともある。
でもこの瞬間の母の目は、澄んでいた。
どこか遠くを見ていたが、その目は確かに、何かを見ていた。
「会いたかった?」と千鶴は聞いた。
聞いてしまった。
聞けないと思っていた言葉が、出た。
母はしばらく庭を見ていた。
「会いたかった」と言った。
「ずっと、会いたかったよ」
それだけ言った。
それ以上は言わなかった。
千鶴も、それ以上は聞かなかった。
しばらく、二人で庭を見ていた。
夜の庭は暗かった。
白百合が、縁側の近くに飾られていた。
昨日から水に挿してある花だった。
暗がりの中で、白い花びらだけが浮いて見えた。
「白百合、一郎さんがよく持ってきてくれたの?」と千鶴は聞いた。
「そう」と母は言った。
「白百合が好きだって言ったら、来るたびに持ってきてくれた。たいしてお金もなかったはずなのに、毎回持ってきて」
「毎回?」
「うちに来るたびに、必ず」と母は言った。
「不器用な人だったから、言葉でうまく言えない代わりに、そうしてたんじゃないかと思う」
千鶴は白百合を見た。
暗がりの中で、白く光っていた。
父が、来るたびに持ってきた。
言葉の代わりに。
今日、白百合が届いた。
誰かが、持ってきてくれた。
翌朝、千鶴が起きると、母がすでに縁側にいた。
庭の方を向いて、座っていた。
白百合が、朝の光を受けていた。
昨日より少し開いていた。
香りが、縁側に漂っていた。
「おはよう」と千鶴は言った。
母が振り向いた。
今日は、千鶴を見た。
ちゃんと、千鶴を見た。
「おはよう、千鶴」と母は言った。
名前を呼ばれた。
最近、名前を呼ばれないことも増えていた。
だから今朝、名前を呼ばれたことが、千鶴には少し嬉しかった。
「今日はいい天気ね」と千鶴は言った。
「そうね」と母は言った。
「花がきれいだよ」
白百合のことだった。
千鶴は縁側に座った。
母の隣に座って、一緒に白百合を見た。
朝の光の中で、白い花びらが輝いていた。
何も言わなかった。
言わなくても、二人でそこにいた。
その日の午後、千鶴は「みなと花店」に行った。
昨日のお礼を改めて言うためと、もう一つ、用事があった。
「白百合を、毎月届けてもらえますか」と千鶴は主人に頼んだ。
「もちろんです」と主人は言った。
「定期でお届けします」
「母が好きな花なので」と千鶴は言った。
それだけ言った。
それ以上の説明は、しなかった。
その夜、千鶴はアルバムをもう一度開いた。
父と母が並んで写っている写真を、もう一度見た。
父が笑っていた。
日焼けした顔で、照れたように笑っていた。
千鶴は子どもの頃、この父に「おとうさん」と呼びかけて、返事がなくてやめた。
今夜は、呼びかけなかった。
ただ、写真を見た。
父の腕を見た。血管が浮いた、日焼けした腕を。
昨日の配達員の腕と、重ねた。
証明する方法はない。
あの若い男が父だなどと、誰も言えない。
千鶴にも言えない。
でも母は「おかえり」と言った。
何度も言った。
母が誰かを見て「おかえり」と言う時、その目は澄んでいる。
認知症が進んで、多くのことが混濁している母が、その瞬間だけ、澄んだ目をする。
千鶴には、その澄んだ目が、何かを見ていると思えてならなかった。
確かめられないことは、たくさんある。
でも確かめなくても、感じることはできる。
千鶴はアルバムを閉じた。
机の上に、白百合の花びらが一枚、落ちていた。
千鶴はそれを、指先で拾った。
柔らかかった。
薄くて、白くて、柔らかかった。
しばらく持っていた。
それから、アルバムの表紙の上に、そっと置いた。
翌週の土曜日。
千鶴が台所で昼食を作っていると、母が廊下を歩いてくる音がした。
台所の入り口に立って、母が言った。
「千鶴、一郎さんが来たらご飯出してあげてね」
千鶴は手を止めた。
振り返ると、母が廊下に立っていた。
どこかを見ていた。
千鶴の後ろを見ていた。
千鶴の後ろには、何もなかった。
「わかった」と千鶴は言った。
「ちゃんと食べてもらって」と母は言った。
「あの人、食べるの忘れるから」
「わかった」と千鶴はもう一度言った。
母は頷いて、縁側の方へ歩いていった。
千鶴は前を向いた。
鍋の中の味噌汁が、小さく沸いていた。
千鶴は椀を、一つ多く出した。
誰のためかは、言わなかった。
ただ、出した。
縁側から、独特なベルの音が聞こえた。
自転車のベルだった。
二度押し。
続けて、また二度押し。
千鶴が縁側の方を見ると、母が立ち上がっていた。
白百合の方を向いて、立っていた。
ベルの音は遠ざかっていった。
母が、小さく手を振った。
誰もいない庭に向かって、手を振った。
千鶴は、その背中を見た。
八十一歳の、丸くなった背中だった。
でも今この瞬間、その背中はどこか真っ直ぐに見えた。
長い年月を越えて、何かに向かって、真っ直ぐに立っていた。
千鶴は何も言わなかった。
台所に戻って、椀をもう一度見た。
一つ多く出した椀が、並んでいた。
千鶴は味噌汁をよそった。
全部の椀に、よそった。




