第14話 屋上のスケッチブック
描けなくなった、というのは、描きたくなくなったこととは、違う。
彩はそれを、自分でよくわかっていた。
描きたいという気持ちは、ある。
頭の中に、描きたいものはある。
色もある。
構図も、ぼんやりとだが浮かぶ。
でも筆を持つと、止まった。
紙の前に座ると、手が動かなかった。
描きたいのに、描けない。
その隙間に、三ヶ月分の時間が溜まっていた。
橘彩、十七歳。
高校二年生だった。
美術部に所属していて、一年生の時には全国高校美術展で入選したこともある。
先生からは「大学も美術系に進めばいい」と言われていた。
自分でもそのつもりだった。
絵を描くことが、物心ついた頃からの自分だったから。
父親の悟が死んだのは、彩が中学三年の時だった。
脳卒中だった。
突然だった。
朝、起きてこないので見に行ったら、倒れていた。
救急車を呼んで、病院に運ばれて、三日後に逝った。
四十八歳だった。
悟は画家だった。
売れっ子ではなかった。
画廊でグループ展を開いたり、個展を時々開いたりして、あとはデザイン会社でアルバイトをして生計を立てていた。
家は裕福ではなかったが、父が絵を描いているところを、彩は子どもの頃からずっと見ていた。
絵を描くのが好きになったのは、父がそこにいたからだった。
台所でご飯を食べて、隣の部屋で父が絵を描いている。
その気配が、彩には当たり前だった。
絵の具の匂いがする家が、当たり前だった。
その当たり前が、中学三年の朝に、突然なくなった。
スランプが始まったのは、高校二年の春だった。
きっかけは、はっきりしない。
部活で大きなコンクールに向けて制作を始めた頃から、少しずつ手が止まるようになった。
最初は「今日は調子が悪い」と思った。
次の日も、その次の日も、調子が悪かった。
一週間経って、二週間経って、やがて「調子が悪い」ではなくなった。
ただ、描けなかった。
部活には行っていた。
キャンバスの前に座っていた。
でも何も描けないまま、時間が過ぎた。
顧問の先生が声をかけてくれた。「焦らなくていい」と言ってくれた。
でも焦っていないのに、描けなかった。
三ヶ月が経った。
部活のキャンバスは、白いままだった。
屋上に来るようになったのは、部活に行けなくなってからだった。
描けないのに部室にいることが、だんだん辛くなった。
みんなが描いている中で、自分だけ白いキャンバスの前に座っている。
それが、重かった。
だから部活の時間になると、屋上に来た。
屋上は使われていなかった。
立入禁止でもなかったが、来る生徒もほとんどいなかった。
フェンスに囲まれた、コンクリートの平らな場所だった。
空調の室外機が並んでいて、その音がいつも低く唸っていた。
空が広かった。
校舎の中では見えない空が、ここでは全部見えた。
彩は室外機の陰にスケッチブックを持って来ていた。
でも開かなかった。
ただ座って、空を見ていた。
それだけだった。
スケッチブックを開かないまま、三ヶ月が経った。
蒼が屋上に来たのは、五月の終わりの夕方だった。
彩はいつもの場所に座っていた。
室外機の陰で、膝を抱えていた。
空が橙色になっていた。
夕焼けの時間だった。
引き戸が開く音がした。
彩は顔を上げた。
男子生徒だった。
一年生だった。
彩は顔を知らなかった。
背が低くて、細くて、髪が少し長かった。
大きな鞄を背負っていた。
鞄からスケッチブックと、筆箱と、水彩の絵の具セットが見えていた。
男子生徒は屋上に出て、少し周囲を見回した。
彩に気づいた。
少し驚いた顔をした。
「すみません、邪魔でしたか」と言った。
「別に」と彩は言った。
「私も勝手に来てるだけだから」
男子生徒は少し迷った後、彩から少し離れた場所に荷物を下ろした。
スケッチブックを取り出して、地面に座った。
「何か描くの?」と彩は聞いた。
「夕日を」と男子生徒は答えた。
「ここ、空が広いから来てみました」
「美術部?」
「いいえ」と男子生徒は言った。
「ただ描くのが好きで」
それだけ言って、スケッチブックを開いた。
彩はその後、男子生徒が描くのを、遠くから見ていた。
見るつもりはなかった。
でも目が向いた。
男子生徒は絵の具を広げていた。
水彩の絵の具だった。
パレットに色を出して、筆を持った。
その筆の持ち方を見た瞬間、彩の体が固まった。
薬指を立てて、小指で支える。
普通の持ち方ではなかった。
一般的には人差し指と中指と親指の三本で持つ。
でもその男子生徒は、薬指を立てて、小指で軸を支えるように持っていた。
父が、そうだった。
悟の筆の持ち方が、そうだった。
彩は子どもの頃から何度も見ていた。
「変な持ち方ね」と母が言ったことがある。
「こうじゃないと描けない」と父は言った。
「手首の角度が、これでないと」と言って、また描いた。
誰かに習ったわけではなく、自然にそうなったと言っていた。
あの持ち方を、今ここで見た。
彩は立ち上がった。
近づきたくなかった。
でも足が動いた。
男子生徒の後ろに立った。
男子生徒は気づかなかった。
夕陽に向かって、筆を動かしていた。
彩はパレットを見た。
息が止まりそうになった。
絵の具の並べ方が、左から右へ、暖色から冷色の順だった。
赤、橙、黄、黄緑、緑、青緑、青、紫。
父が、そうだった。
悟はいつも絵の具をその順番で並べた。
「虹の順番」と呼んでいた。
「この順番じゃないと混乱する」と言って、必ずそうした。
彩が美術部に入って絵の具を出した時、先輩に「変わった並べ方ね」と言われた。
父と同じ並べ方をしていたことに、その時初めて気づいた。
「変わった並べ方ね」と彩は言った。
声が、少し震えた。
男子生徒がようやく気づいて、振り向いた。
「あ、びっくりした」と言ってから「絵の具ですか? 好きな順番で並べると混乱しないので」と答えた。
「どこで覚えたの」と彩は聞いた。
「覚えた、というか」と男子生徒は少し考えた。
「気づいたらこうしてました。なんかこれじゃないとしっくりこなくて」
彩は男子生徒を見た。
「筆の持ち方も」と彩は言った。
「それ、どこで覚えたの」
男子生徒は自分の手を見た。
薬指を立てた、小指で支える持ち方を見た。
「これも気づいたらこうで」と言った。
「変ですか?」
彩は首を横に振った。
「変じゃない」と言った。
「知ってる人が、同じ持ち方だっただけ」
男子生徒は少し首を傾げた。
「先輩ですか?」
「父」と彩は言った。
男子生徒は「そうですか」と言って、また夕陽の方を向いた。
彩はその横で、立ったまましばらく見ていた。
男子生徒が描くのを、彩は見続けた。
夕陽が水平線に近づいていくのを、男子生徒は描いていた。
水彩の、にじむような描き方だった。
輪郭をはっきりさせない。
空の色が溶けていく感じを、水の量で調整していた。
悟も、そういう描き方が好きだった。
油絵が専門だったが、水彩も描いた。
輪郭をぼかして、色が溶けていく感じを大事にした。
「境界が曖昧なものが好きだ」と言っていた。
「どこで空が終わってどこで海が始まるか、わからない瞬間が好きだ」と言っていた。
彩はその言葉を、父が死んだ後も覚えていた。
境界が曖昧なものが好きだ。
今、目の前の男子生徒が描いているのは、その感じだった。
夕陽と空の境界が、溶けている絵だった。
「名前、聞いてもいい?」と彩は言った。
「一年の、鈴木蒼です」と男子生徒は言った。
「蒼、か」と彩は言った。
「橘彩先輩ですよね」と蒼は言った。
「美術展で入選した」
「知ってるの」
「美術部の先輩が話してたので」と蒼は言った。
「最近、部活に来てないって」
彩は何も言わなかった。
「描けないんですか」と蒼は聞いた。
遠慮のない聞き方だった。
でも責める感じはなかった。
ただ確かめているような、静かな聞き方だった。
「三ヶ月、描けてない」と彩は言った。
「そうですか」と蒼は言った。
それだけ言って、また筆を動かした。
彩は蒼の隣に座った。
「なんで描けないと思う?」と蒼は聞いた。
筆を動かしながら聞いた。
「わからない」と彩は言った。
「描きたいのに、手が動かない」
「描きたいのに動かないのは」と蒼は言った。
「描いた後が怖いのかもしれない」
「描いた後?」
「描き終わった時に、誰かに見せたいと思える人がいない、とか」と蒼は言った。
「違いますか?」
彩は黙った。
違うかもしれなかった。
でも、完全に違うとも言えなかった。
父に見せたかった。
描くたびに、父に見せていた。
「ここはこうした方がいい」と父は言った。
「でもここはいい」とも言った。
批評を言う父が、嫌いだった時もあった。
でも今は、その批評が聞きたかった。
聞けない人に見せたくて、だから手が止まるのかもしれなかった。
夕陽が、沈んでいった。
蒼の絵の中で、橙色が濃くなった。
空の端に、紫が混じり始めた。
蒼は筆を止めずに動かし続けた。
彩はその隣で、自分のスケッチブックを膝の上に置いていた。
三ヶ月、開かなかったスケッチブックだった。
彩は表紙を見た。
開く、という動作が、今日はそれほど遠くなかった。
さっきより、近かった。
なぜかはわからない。
蒼の筆の持ち方を見たから。
パレットの並べ方を見たから。
父と同じ描き方をする人が、隣にいるから。
彩はスケッチブックを開いた。
白いページが、夕陽の光を受けていた。
橙色に染まった白いページを、しばらく見た。
鉛筆を取り出した。
何を描くか、決めていなかった。
でも鉛筆を持った。
薬指を立てて、小指で支えた。
気づいたら、父と同じ持ち方になっていた。
彩は少しだけ笑った。
声を出さない笑いだったが、笑った。
ページに、線を一本引いた。
水平線だった。
まっすぐな線ではなかった。
少し歪んだ、ゆっくりとした線だった。
でも引けた。
三ヶ月ぶりに、ページに線が引けた。
彩はその線を見た。
下手だった。
力加減が、三ヶ月のブランクで狂っていた。
でも引けた。
もう一本、引いた。
今度は空の輪郭だった。
また引いた。
夕陽を描こうとした。
今、目の前にある夕陽を。
うまくいかなかった。
消して、また引いた。
消して、また引いた。
隣で、蒼の筆が動く音がした。
水を含んだ筆が、紙の上を滑る音だった。
彩は自分の鉛筆を動かした。
二人の音が、屋上に重なった。
夕陽が沈んだ。
空が紫になった。
蒼が筆を止めた。
「できました」と言って、スケッチブックを眺めた。
彩も手を止めた。
ページを見た。
鉛筆で描きかけの夕陽が、そこにあった。
完成していなかった。
ほとんど線だけで、色もなかった。
でも夕陽の形が、そこにあった。
三ヶ月ぶりに、ページに何かがあった。
彩はページを見ながら、目が熱くなった。
泣くつもりはなかった。
でも目が熱くなった。
白いだけだったページに、何かが引けたことが、こんなにも嬉しいとは思っていなかった。
「先輩」と蒼が言った。
彩は顔を上げた。
「見ていいですか」と蒼は言った。
彩はスケッチブックを差し出した。
蒼は受け取って、描きかけの夕陽を見た。
しばらく見た。
「いいと思います」と蒼は言った。
「完成してないけど」と彩は言った。
「でも、ここ」と蒼は線の一本を指した。
「この水平線の引き方、好きです。まっすぐじゃないところが」
彩はその線を見た。
少し歪んだ線だった。
消そうとして、消しきれなかった線だった。
でも蒼は「好きです」と言った。
父も、そういうことを言った。
消しきれなかった線を「これが一番いい」と言った。
計算して引いた線ではなく、手が勝手に動いた線を「これがお前の線だ」と言った。
彩は蒼を見た。
蒼は彩のスケッチブックを返しながら、また自分の絵を眺めていた。
何か考えているような顔をしていた。
「一個聞いていい?」と彩は言った。
「はい」
「その筆の持ち方と、絵の具の並べ方、本当に誰かに習ったわけじゃないの?」
蒼は少し考えた。
「誰かに習った記憶はないです」と言った。
「でも・・なんか、こうでないといけない気がするんですよね。最初からそう思ってました」
彩はその言葉を、しばらく胸の中に置いた。
最初からそう思っていた。
気づいたら、そうだった。
父が、そうだった。
誰かに習ったわけではなく、自然にそうなっていた。
薬指を立てて、小指で支える持ち方が。
暖色から冷色への並べ方が。
彩には、何も言えなかった。
言える言葉が、見つからなかった。
でも今日、スケッチブックに線が引けた。
それだけが、今夜の彩には、充分すぎるほど充分だった。
二人で屋上を出た。
階段を下りながら、蒼が言った。
「また来てもいいですか、屋上」
「誰でも来ていいと思うけど」と彩は言った。
「先輩もいますか?」と蒼は聞いた。
「たぶん」と彩は言った。
「来ると思う」
蒼は頷いた。
それだけだった。
廊下の分かれ道で、二人は別れた。
彩は自分の下駄箱に向かいながら、スケッチブックを抱えていた。
描きかけの夕陽が、中にあった。
家に帰ったら、続きを描こうと思った。
色をつけようと思った。
どんな色を使うか、頭の中で考えた。
暖色から入って、夕陽の橙を出して、空の端に紫を混ぜる。
父と同じ並べ方で出した絵の具で、描こうと思った。
家に帰って、彩は台所を通り抜けた。
母が夕食の準備をしていた。
「おかえり」と言った。
「ただいま」と彩は言った。
「部活?」と母は聞いた。
「うん」と彩は言った。
嘘ではなかった。
部活には行けなかったが、屋上でスケッチブックを開いた。
それは、部活ではないかもしれないが、絵を描き始めたことだった。
彩は自分の部屋に入った。
机の引き出しから、絵の具セットを出した。
蓋を開けた。
絵の具の匂いがした。
この匂いを嗅ぐと、父のアトリエの匂いを思い出す。
絵の具と、油と、少しの埃の匂い。
父が絵を描いていた部屋の匂いだった。
彩はその匂いを、深く吸い込んだ。
それから、絵の具を並べた。
左から右へ。赤、橙、黄、黄緑、緑、青緑、青、紫。
暖色から冷色へ。
父の順番で、並べた。
筆を持った。
薬指を立てて、小指で支えた。
スケッチブックを開いた。
描きかけの夕陽が、待っていた。
彩は橙色の絵の具に筆をつけた。
水を含ませた。
ページに、色をのせた。
広がった。
夕陽の橙が、ページに広がった。
彩の目が、また熱くなった。
でも今度は、止めなかった。
泣きながら、描いた。
橙が広がって、端の方に紫を混ぜた。
境界を曖昧にした。
どこで橙が終わってどこで紫が始まるか、わからない場所を作った。
父が好きだと言っていた、境界が曖昧な場所を作った。
筆が止まらなかった。
三ヶ月止まっていた手が、今夜は止まらなかった。
どのくらい経ったか。
気づいたら、夜になっていた。
スケッチブックに、夕陽の絵が完成していた。
下手だった。
三ヶ月のブランクは、すぐには取り戻せない。
でも色があった。
橙と紫が溶け合う、夕陽の絵が、そこにあった。
彩はその絵を、机の上に置いて眺めた。
「お父さん」と声に出して呼んだ。
部屋に、誰もいなかった。
でも彩には、ここにいる気がした。
薬指を立てた持ち方をする蒼の後ろに、誰かがいた気がした。
暖色から冷色に並べたパレットの向こうに、誰かがいた気がした。
確かめる方法はない。
でも彩には、感じられた。
「見て」と彩は言った。
絵に向かって言った。
「また描けた」と言った。
部屋は静かだった。
絵の具の匂いがした。
父のアトリエの匂いがした。
翌日から、彩は部活に戻った。
顧問の先生が「久しぶりだね」と言った。
「はい」と彩は言った。
「描けそう?」と先生は聞いた。
「描けます」と彩は言った。
キャンバスの前に座った。
白いキャンバスだった。
三ヶ月、白いままだったキャンバスだった。
筆を持った。
薬指を立てて、小指で支えた。
絵の具を出した。
左から右へ、暖色から冷色へ。
最初の一筆を、キャンバスに置いた。
橙色が広がった。
彩は続けた。




