第15話 雨のタクシー
雨の夜に、人は孤独になる。
博はそう思っていた。
若い頃はそう思わなかった。
雨の夜は部屋で本を読んで、音楽を聴いて、それで充分だった。
でも七十五歳になった今は、雨の夜に一人でいると、孤独が少し音を立てた。
音がするわけではない。
でも確かに、何かが鳴っていた。
外は土砂降りだった。
博は駅前のコンビニの軒先に立って、タクシーを待っていた。
傘は持っていたが、風が強くて、横から雨が吹きつけていた。
体が冷えていた。
夜の九時を過ぎていた。
今日は月に一度の病院の日だった。
検査と、診察と、薬の受け取り。
それだけのことに、一日かかった。
帰りに夕食を食べようと思っていたが、雨が強くなって、コンビニで弁当を買ってすませた。
タクシーが来た。
車内は、静かだった。
暖かかった。
外の雨の音が、少し遠くなった。
ドアが閉まって、雨の世界と、この小さな空間が、切り離された。
「どちらまで」と運転手が言った。
若い声だった。
博は住所を告げた。
「かしこまりました」と運転手は言って、車を出した。
博は窓の外を見た。
雨の街が流れた。
街灯が滲んで、水たまりに光が映っていた。
人影が少なかった。
みんな、どこかの屋根の下にいる夜だった。
体が温まってきた。
シートに背中を預けた。
今日一日の疲れが、ここへ来てやっと体に出てきた。
病院での待ち時間、診察、薬局。
あちこち動き回って、立ち続けた。
七十五歳の体には、それなりに重かった。
目を閉じた。
博、七十五歳。
元は製薬会社の営業職だった。
三十年勤めて、定年で退いた。
妻は十二年前に逝った。
息子が二人いるが、二人とも遠方に住んでいた。
盆と正月に顔を見せる。
それ以外は、電話が月に一度あるかどうかだった。
孫が三人いる。
孫の名前は覚えているが、最後に会ったのがいつか、すぐには思い出せなかった。
一人だった。
孤独ではない、と思っていた。
慣れているから。
でも雨の夜に、こうして一人でいると、慣れているはずのものが、少しだけ顔を出す。
出てくるのは、父のことだった。
父の正次は、博が四十二歳の時に逝った。
七十八歳だった。
博は仕事が忙しくて、父が逝く前の数年間、ほとんど会えていなかった。
会いに行くつもりがあっても、仕事が入った。
電話しようと思っても、時間がなかった。
最後に会ったのは、父が逝く二年前だった。
二年間、会えないまま、逝かせた。
その後悔が、博には今もある。
三十年以上経っても、ある。
雨の夜に、静かに出てくる。
タクシーが走っていた。
博は目を閉じたまま、雨の音を聞いていた。
フロントガラスに当たる雨の音。
ワイパーが動く音。
タイヤが濡れた路面を走る音。
それぞれが、重なっていた。
運転手が、何かを動かす音がした。
ラジオの、チャンネルを替える音だった。
博は目を開けなかった。
音楽が流れ始めた。
最初の数秒は、何かわからなかった。
でも四小節目に入った瞬間、博の体が固まった。
知っている、と思った。
知っているどころではなかった。
この曲を、博は三十年間聴いていなかった。
でも一瞬で、わかった。
体が、先に反応した。
深夜ラジオ番組のオープニング曲だった。
番組の名前は「夜の窓辺から」といった。
昭和の終わり頃に放送されていた、深夜のラジオ番組だった。
博が二十代の頃、父と一緒に毎週聴いていた番組だった。
父の正次は、ラジオが好きだった。
テレビよりラジオが好きで、家にいる時はいつもどこかでラジオが流れていた。
「夜の窓辺から」は土曜日の深夜に放送していた。
博が実家に帰った週末には、父と一緒に台所でお茶を飲みながら聴いた。
特別な番組ではなかった。
パーソナリティが話して、リスナーの手紙を読んで、音楽をかける。
それだけの番組だった。
でも父はその番組が好きで、毎週聴いていた。
博も、父と一緒に聴くうちに好きになった。
番組は、三十年ほど前に終わった。
パーソナリティが病気で降板して、そのまま打ち切りになった。
惜しむ声もあったが、静かに終わった。
博は最終回を聴いた記憶がある。
父と一緒に、台所で。
それ以来、この曲を聴いたことはなかった。
曲自体は、世に出ている。
CDもあるし、配信もされているらしい。
でも博は一度も聴かなかった。
聴く機会がなかったというより、聴こうとしなかった。
父と一緒に聴いた曲を、一人で聴くことが、できなかった。
博は目を開けた。
タクシーの中だった。
ラジオから、あの曲が流れていた。
「あの」と博は言った。
「はい」と運転手が言った。
「そのラジオ、何の曲ですか」
運転手が少し間を置いた。
「昔のラジオ番組のオープニング曲らしいです」と言った。
「詳しくは・・なんで流したんですかね、自分でも」
「自分でも?」と博は聞いた。
「なんか、お客さんの時にこの曲をかけなきゃいけない気がして」と運転手は言った。
少し戸惑ったような声だった。
「変ですよね。すみません、消しますか?」
「消さないで」と博は言った。
声が出た。
強く言うつもりはなかったが、強く出た。
「このまま、流しておいてくれ」と博は言った。
「わかりました」と運転手は言った。
曲が続いた。
博は窓の外を見た。
雨の街が流れていた。
濡れた路面に、光が映っている。
信号が変わって、タクシーが止まった。
ワイパーが動いた。
あの土曜日の深夜のことを、博は思い出した。
実家の台所は、狭かった。
テーブルが一つと、椅子が二脚。
父がお茶を入れて、博がそこに座った。
ラジオが台の上にあって、スピーカーから音が出ていた。
父は無口だった。
仕事の話も、家族の話も、あまりしなかった。
博が実家に帰っても、「おう」と言って、それだけだった。
聞けば答えるが、から自分から話すことが少なかった。
でもラジオを聴いている時は、隣にいた。
それだけだったが、隣にいた。
台所の狭いテーブルで、お茶を飲みながら、ラジオを聴いていた。
パーソナリティが話すことに、時々「ほう」と言った。
リスナーの手紙を読む場面で、時々「そういうもんだな」と言った。
それだけだった。
でも博には、その時間が好きだった。
父と話したわけではない。
でも父の隣にいた。
それだけのことが、今になって、とても大きく思えた。
タクシーが走り続けた。
曲が終わった。
別の曲が始まった。
でも博の頭の中では、まだあの曲が鳴っていた。
「そのラジオ番組」と博は言った。
「父と一緒に聴いてたんです」
「そうですか」と運転手は言った。
「三十年前に終わった番組で。もう聴けないと思っていたが」
「さっきの曲が、それですか」
「そう」と博は言った。
「毎週、父と台所で聴いていた」
運転手はしばらく黙っていた。
「いいですね」と言った。
「そういう時間」
博は窓の外を見た。
いいですね、と言った若い運転手の声が、どこか懐かしかった。
懐かしい、というのは変かもしれない。
今日初めて乗ったタクシーの、初めて会った運転手だった。
懐かしいはずがない。
でも声の質が、何かに似ていた。
父の正次も、こういう声をしていた。
低くて、落ち着いていて、急いでいない声だった。
何かを急かさない声だった。
信号で止まった。
赤信号だった。
雨が、フロントガラスを叩いていた。
ワイパーが動いた。
「父親とは、仲が良かったですか」と運転手が聞いた。
唐突な質問だった。
でも博には、不思議と答える気になった。
「仲が悪くはなかったが」と博は言った。
「最後の二年間、会えなかった。仕事が忙しくて。その後悔が、今も残っている」
「会いに行けば良かった、ということですか」
「そう」と博は言った。
「会いに行けば良かった。電話でも良かった。でも忙しいと思っていると、そのまま時間が経つ」
運転手はしばらく黙っていた。
「でも」と運転手は言った。
「一緒にラジオを聴いていた時間は、あったんですよね」
博は少し止まった。
「あった」と言った。
「それは、父親も覚えていたと思いますよ」と運転手は言った。
「会えなかった二年間より、一緒にいた時間の方を」
博は何も言えなかった。
信号が青になった。
タクシーが動き出した。
博の目が、熱くなった。
七十五歳の男が、タクシーの後部座席で、目が熱くなった。
拭こうとして、やめた。
暗かったから、見えないと思った。
ラジオがまた、別の曲を流し始めた。
静かな曲だった。
ピアノの音だった。
博はその音を聞きながら、父のことを思った。
最後に会った時のことを、思い出そうとした。
七十六歳の父の顔を。
台所で向き合った時の顔を。
思い出せた。
二年後に逝く顔には見えなかった。
まだ元気そうだった。
少し痩せていたが、目がしっかりしていた。
「また来い」とは言わなかった。
でも博が帰る時、「気をつけて」と言った。
「気をつけて」というのが、父の別れの言葉だった。
いつも「気をつけて」と言った。
それ以上は言わなかった。
その「気をつけて」が、最後の言葉になった。
悪い言葉ではなかった、と博は今は思う。
「気をつけて」と言えた。
それだけあれば、充分だったかもしれない。
タクシーが、博の家の近くに来た。
「次を右に曲がって、突き当たりです」と博は言った。
「はい」と運転手は言った。
タクシーが止まった。
博は料金を払った。
財布を出して、渡して、お釣りを受け取った。
「ありがとうございました」と運転手は言った。
博はドアを開けかけて、止まった。
「あの」と博は言った。
「はい」
「さっきの曲を、なぜかけようと思ったのか、本当にわからないんですか」
運転手は少し間を置いた。
「わからないです」と言った。
「でも・・かけた方がいい気がしました。このお客さんに、この曲を聴かせてあげなきゃいけない気がした」
博は運転手の顔を見た。
バックミラー越しに、目が合った。
若い目だった。
二十代か、三十前か。
父の正次の目とは、年齢も違う。
顔立ちも違う。
でも、何かが似ていた。
何が似ているか、うまく言えなかった。
目の、落ち着き方かもしれなかった。
何かを急かさない、急いでいない目の落ち着き方が。
「ありがとう」と博は言った。
「いえ」と運転手は言った。
「父に、会えた気がした」と博は言った。
言ってから、恥ずかしくなった。
七十五歳の男が、若い運転手にそんなことを言うのは、おかしいかもしれなかった。
でも言った。
運転手はしばらく黙って、それから「そうですか」と言った。
ただそれだけ言った。
「よかったです」とも、「どういたしまして」とも言わなかった。
「そうですか」だけだった。
その言い方が、父に似ていた。
余分なことを言わない、あの言い方が。
外に出た。
雨はまだ降っていた。
傘を開いた。
タクシーが走り去るのを、博は見送った。
赤いテールランプが、雨の中に消えていった。
博は歩いた。
家まで、あと少しだった。
歩きながら、さっきの曲を頭の中で鳴らした。
「夜の窓辺から」のオープニング曲が、頭の中で流れた。
父と台所で聴いていた、あの曲が。
博は少し、口を動かした。
曲に合わせて、口を動かした。
声は出さなかった。でも唇が動いた。
それだけで、父が隣にいる気がした。
台所の椅子に座って、お茶を飲みながら、ラジオを聴いている父が。
「ほう」とか、「そういうもんだな」とか、時々言いながら、隣にいる父が。
家に帰った。
鍵を開けて、中に入った。
電気をつけた。
台所に行って、お湯を沸かした。
お茶を入れながら、ラジオをつけた。
今時、ラジオを持っている家は少ないかもしれなかった。
でも博はずっとラジオを持っていた。
処分しなかった。
理由を聞かれたことはなかったが、もし聞かれたら「父がラジオが好きだったから」と答えただろう。
ラジオから音が流れた。
夜の番組が流れていた。
「夜の窓辺から」ではなかった。
でも深夜のラジオの、落ち着いた声が流れていた。
博はお茶を持って、台所の椅子に座った。
一人だった。
でも今夜は、孤独が音を立てなかった。
父が隣にいる気がした。
気がするだけで、確かめる方法はない。
あのタクシーの運転手が父だったかどうか、確かめる方法もない。
でも今夜、あの曲が流れた。
三十年間聴けなかった曲が、土砂降りの夜のタクシーで流れた。
それだけのことが、博には充分だった。
お茶を飲みながら、博はラジオを聴いた。
特別な番組ではなかった。
パーソナリティが話して、音楽をかける。
それだけの番組だった。
博は聴きながら、時々「ほう」と言った。
誰も聞いていなかった。
でも言った。
父がいつも言っていたように、「ほう」と言った。
ラジオが、夜の台所に流れた。
雨が、窓を叩いていた。
博は目を閉じた。
父の隣で、台所に座っている気がした。
狭い台所で、お茶を飲みながら、ラジオを聴いていた、あの土曜日の夜に、今夜だけ、帰ってきた気がした。
翌朝、博は息子に電話した。
長男だった。
遠方に住んでいる。
月に一度電話が来るが、博から電話することは少なかった。
呼び出し音が四回鳴って、繋がった。
「父さん? どうした、珍しい」と息子の声がした。
「別に用はない」と博は言った。
「声が聞きたかっただけだ」
息子が少し間を置いた。
「そう」と言った。
「元気?」
「元気だ」と博は言った。
「お前は?」
「まあまあ」と息子は言った。
「まあまあなら充分だ」と博は言った。
言ってから、誰かに言われた言葉のような気がした。
誰だったか、すぐには思い出せなかった。
でも、どこかで聞いた言葉だった気がした。
息子と、しばらく話した。
大した話ではなかった。
天気の話、体の話、孫の話。
でも話した。
電話を切った後、博は台所に立った。
お茶を入れた。
ラジオをつけた。
朝の番組が流れた。
博は椅子に座って、お茶を飲んだ。
窓の外は、雨が上がっていた。
空が明るくなっていた。
博はその空を見ながら、お茶を一口飲んだ。
温かかった。
それだけのことが、今朝は、ちゃんと温かかった。




