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めぐる光のあしあと ・・愛犬の仕草、祖父の口笛、逝った子の手のひら。大切なあの人は、もうそこにいる  作者: かーすけ


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16/21

第16話 金魚すくいの夜

 夏祭りの匂いは、特別だ。

 焼きそばと、たこ焼きと、線香の煙が混ざった匂い。

 それにかき氷のシロップの甘い匂いが乗ってくる。

 真奈はその匂いが大好きだった。

 この匂いを嗅ぐと、体の中で何かが弾む。

 大人になっても、きっとこの匂いを嗅いだら夏祭りのことを思い出すんだろう、と八歳の真奈は思った。


 八歳にしては、少し大人びた考え方かもしれない。

 でも真奈はそういう子どもだった。

 感じたことを、言葉にしようとする子どもだった。

 言葉にしきれないことも多かったが、言葉にしようとすること自体が、真奈の癖だった。

 だから大人から「ませてる」と言われることもあった。

 真奈はそれが少し嫌だったが、やめられなかった。


 お祭りは、神社の境内で開かれていた。

 夜の七時を過ぎた頃で、境内はもう人でいっぱいだった。

 提灯が並んでいて、屋台が並んでいて、浴衣を着た人たちが行き来していた。

 真奈も浴衣を着ていた。

 紺地に白い朝顔の柄だった。

 去年のお祭りで、祖父の勇が買ってくれた浴衣だった。


 母と一緒に来ていた。

 母は隣で、知り合いと立ち話をしていた。

「真奈、そこにいてね」と言っていたが、真奈の目は金魚すくいの屋台に釘付けになっていた。

 屋台の前に、水槽が置いてある。

 透明な水の中に、金魚が泳いでいる。

 赤いの、白いの、黒いの。

 ひらひらと尾っぽを揺らして、ゆっくりと泳いでいる。

 真奈は金魚が好きだった。


 祖父の勇が、金魚が好きだった。

 縁側に大きな水槽を置いて、いつも金魚を飼っていた。

 真奈が遊びに行くたびに、一緒に金魚に餌をやった。

「ほら、この子はひれが長いだろう」と勇は言った。

「この子は食いしん坊で、あの子はおっとりしてる」と言って、一匹一匹に性格があるみたいに話した。

 真奈はそれが好きだった。

 金魚の性格を説明する祖父の声が、好きだった。


 勇が逝ったのは、真奈が六歳の時だった。

 心臓の病気で、冬の朝に急に逝った。

 前の日まで元気だった。

 前の日、真奈は電話で「また遊びに行くね」と言っていた。

 勇は「待ってるよ」と言った。

 それが最後だった。

 待ってるよ、という言葉が、真奈の胸の中にずっとあった。

 行けなかった。

 遊びに行くと言って、行けなかった。

 二年が経った今も、真奈はそのことを、時々思い出した。


 母の話が終わらなかった。

 真奈は金魚すくいの屋台の前に来ていた。

 母から少し離れていたが、見える範囲にいた。


 屋台のおじさんが、真奈に気づいた。

「やってく?」と聞いた。

 真奈は少し迷ってから「うん」と言った。

 百円玉を一枚、財布から出した。

 おじさんがポイを渡してくれた。

 薄い紙が張られた、丸い輪っかだった。

 真奈はそれを受け取って、水槽の前にしゃがんだ。

 水の中に、金魚たちがいた。

 近くで見ると、もっときれいだった。


 うろこが光を反射して、キラキラしていた。

 尾っぽがふわふわと揺れていた。

 真奈は目当ての金魚を決めた。

 赤くて、尾っぽが少し長い金魚だった。

 ひれが長い子は、祖父が好きだと言っていたから。

 ポイを水に入れた。

 そっと、金魚に近づけた。

 金魚がすっと逃げた。

 追いかけた。

 ポイが破れた。

「あ」と真奈は言った。

 おじさんが「はい、もう一枚」と言って、新しいポイを渡してくれた。


 また百円玉を出した。

 二枚目も、破れた。

 三枚目も、破れた。

 真奈はしゃがんだまま、水槽を見ていた。

 金魚たちは相変わらずゆっくり泳いでいた。

 真奈が何度失敗しても、関係なさそうだった。

 どうすればいいのかわからなかった。


 そっとやってもだめで、素早くやってもだめで、上からでもだめだった。

 ポイはいつもどこかで破れた。

 水に入れるだけで、なぜかすぐ破れた。

 真奈は少し、むきになっていた。

 むきになっているのを、自分でわかっていた。

 でもやめられなかった。

 あの赤くてひれの長い金魚を、すくいたかった。


 四枚目のポイを受け取った時、隣に誰かが来た。

 男の子だった。

 真奈と同じくらいの年か、少し上か。

 浴衣ではなく、白いTシャツに短パンを着ていた。

 髪が少し長くて、目が丸くて、日焼けしていた。

 真奈の隣にしゃがんで、水槽を覗いた。


「金魚、好き?」と男の子は言った。

「うん」と真奈は言った。

「すくえてないね」と男の子は言った。

 事実を言っただけで、からかっている感じではなかった。

 ただ確認している声だった。

「うん」と真奈はまた言った。

「ポイがすぐ破れる」

「破れるのは、水の中に入れすぎてるからだよ」と男の子は言った。

「入れすぎ?」

「ポイは紙だから、水に長くいると弱くなる。表面だけ使えばいい」

 真奈は男の子を見た。

「教えてあげようか」と男の子は言った。

 男の子がポイを受け取った。

 水槽の前にしゃがんで、ポイを構えた。

「見てて」と言った。


 ポイを水面ギリギリに持っていった。

 水の中に深く入れない。

 表面だけをなぞるように、薄く薄く入れた。

「こうして」と男の子は言いながら、ゆっくり動かした。

「急がないで、金魚が来るのを待つ」

 金魚が近づいてきた。

 男の子は待った。

 金魚がポイの上に来た瞬間、手首をゆっくり返した。

 下から上へ、ゆっくりと。

 急がずに、丁寧に。

 金魚がポイに乗った。

 そのまま、手前に引いた。

 ビニール袋に、金魚が入った。

「こうするといい」と男の子は真奈を見た。

「手首をゆっくり返す。急ぐと破れる」

 真奈は男の子の手首を見た。

 ゆっくりと、下から上へ返す動き。

 その動きを、真奈はどこかで見たことがあった。


 祖父の勇が、よくやっていた動きだった。

 魚のさばき方を教えてくれた時の動き。

 勇は料理が好きで、魚を自分でさばいた。

 台所で真奈に見せながら、「こうやって、ゆっくり返す」と言った。

 包丁を持つ手首が、下から上へ、ゆっくりと動いた。

 急がないで、丁寧に。

 勇がいつも言っていた言葉だった。

「急ぐと失敗する。ゆっくりやれば、大抵うまくいく」と勇は言っていた。

 台所で、縁側で、庭で。

 何かをするたびに、勇はそう言っていた。

 今、この男の子の手首が、同じ動きをしていた。


「やってみて」と男の子は真奈に言った。

 真奈は四枚目のポイを持った。

 水槽の前にしゃがんだ。

 水面ギリギリに、ポイを持っていった。

 表面だけ。

 深く入れない。

 あの赤くてひれの長い金魚を探した。

 いた。

 水槽の端の方を、ゆっくり泳いでいた。

 真奈は待った。

 急がないで、待った。

 金魚が近づいてきた。

 ポイの前まで来た。

 真奈はゆっくり手首を返した。

 下から上へ。

 急がずに。

 ゆっくりと。

 金魚がポイに乗った。

 そのまま、引いた。

 ビニール袋に、金魚が入った。


 真奈は動きを止めた。

 ビニール袋の中で、金魚が泳いでいた。

 赤くて、ひれが長い金魚が、袋の中で泳いでいた。

「すくえた」と真奈は言った。

 声が、少し震えた。

 袋を両手で持って、中の金魚を見た。

 小さかった。

 手のひらより小さかった。

 でも確かに、そこにいた。


 隣の男の子を見た。

 男の子は笑っていた。

 目が細くなる笑い方だった。

 嬉しそうに、でも得意そうではなく、ただ笑っていた。

 その笑い方を、真奈はどこかで知っていた。

 勇が、よくそういう笑い方をした。

 真奈が何かできた時、勇はそういう笑い方をした。

 得意そうにではなく、ただ嬉しそうに、目が細くなるまで笑った。

「できたね」と勇はいつも言った。

「ありがとう」と真奈は言った。

 男の子は笑ったまま、何も言わなかった。


 立ち上がった。

「じゃあね」と言った。

 それだけ言って、人込みの方へ歩いていった。

 真奈は立ち上がって、男の子の後ろ姿を目で追った。

 浴衣を着た人たちの間に、白いTシャツが見えた。

 それからすぐに、見えなくなった。

 人込みの中に、消えた。

 真奈は人込みをしばらく見ていた。

 男の子は戻ってこなかった。


「真奈、すくえたの!」

 母の声がした。

 いつの間にか、母が後ろに来ていた。

「すくえた」と真奈は言った。

 袋を見せた。

「よかったね。どうやって?」

「教えてもらった」と真奈は言った。

「さっきの男の子に」

「男の子?」と母は周りを見た。

「どこ?」

「行っちゃった」と真奈は言った。

 母は「そう」と言って、袋の金魚を覗いた。

「かわいいね」

「うん」と真奈は言った。


 袋の中の金魚を見た。

 ひれが長い、赤い金魚を見た。

 じいちゃんが好きだと言っていた、ひれが長い子だった。

 帰り道、真奈は母の隣を歩いた。

 袋を両手で持って、揺らさないように歩いた。

 中で金魚が泳いでいるのが感じられた。

 生きているものの重さが、手のひらに伝わってきた。


「じいちゃんって、金魚好きだったね」と真奈は言った。

「好きだったね」と母は言った。

「縁側に水槽置いてたもんね」

「ひれが長い子が好きだって言ってた」

「そうだったかしら」と母は言った。

「よく覚えてるね」


 真奈はよく覚えていた。

 勇が言ったことは、よく覚えていた。

 六歳までの記憶しかないが、勇が言ったことは不思議なくらいよく覚えていた。

 縁側で一緒に水槽を見た時のこと。

 台所で魚をさばくのを教えてもらった時のこと。

「急がないで、ゆっくりやれ」と言っていたこと。

 手首の動き。

 ゆっくりと、下から上へ。

 さっきの男の子と、重なった。


「ね、お母さん」と真奈は言った。

「何?」

「さっきの男の子、じいちゃんに少し似てた」

 母は少し間を置いた。

「じいちゃんに?」

「うん。笑い方と、手首の使い方が」と真奈は言った。

「なんか、似てた」

 母はしばらく黙っていた。

「そう」と言った。

 それだけだった。

 でもその「そう」の声が、いつもの母の声より少し柔らかかった。


 真奈は母の顔を見た。

 母は前を向いていた。

 でも目が少し、潤んでいる気がした。

 真奈は何も言わなかった。

 袋の中の金魚を見た。

 ゆっくり泳いでいた。


 家に帰って、真奈は金魚を水槽に入れた。

 小さな水槽だった。

 学校の夏休みの工作で使った、プラスチックの水槽だった。

 袋の口を開けて、金魚を移した。

 金魚が水槽に入った。

 少し戸惑ったように、くるくると泳いだ。

 それから落ち着いて、ゆっくり泳ぎ始めた。


 真奈は水槽を見た。

「ゆうじいちゃん」と真奈は言った。

 声に出して、言った。

 金魚に向かって、言った。

「ゆうじいちゃん」というのは、真奈が勇を呼んでいた呼び方だった。

「じいちゃん」だけでは何人もいるから、勇の「ゆう」をつけて、「ゆうじいちゃん」と呼んでいた。


 金魚は泳いでいた。

 真奈の呼びかけを聞いたかどうか、わからなかった。

 でも泳いでいた。

 ゆっくりと、ひれを揺らして、泳いでいた。

「その名前にするの?」と母が後ろから言った。

「うん」と真奈は言った。

「ゆうじいちゃんか」と母は言った。

「だめ?」

「だめじゃないよ」と母は言った。

「じいちゃんも喜ぶんじゃないかな」

 真奈は水槽を見た。

「喜ぶかな」と真奈は言った。

「喜ぶよ」と母は言った。

「真奈がすくってくれたんだから」


 真奈は少し考えた。

「私じゃなくて、男の子が教えてくれたから」と真奈は言った。

「だからすくえた」

「でも最後に手首を返したのは真奈でしょ」と母は言った。

 真奈はその言葉を、少し胸の中に置いた。

 最後に手首を返したのは、真奈だった。

 教えてもらって、やってみて、できた。

 そうか、と真奈は思った。

 教えてもらうことと、自分でやることは、別のことだった。

 どちらも、必要だった。


 眠る前に、真奈は水槽のそばに座った。

 電気を消した部屋で、水槽の中の金魚を見た。

 暗い中でも、金魚が動いているのがわかった。

 ゆっくりと、泳いでいた。

「ゆうじいちゃん」と真奈は小さく言った。

「今日ね、お祭りに行ったよ」と言った。

 金魚は泳いでいた。

「男の子が教えてくれた。手首の返し方。じいちゃんと同じだった」と言った。

 金魚は泳いでいた。

「あの子、じいちゃんだったのかな」と真奈は言った。

 自分で言って、自分で少し考えた。

 わからなかった。

 わかる方法も、ない。

 でも手首の動きは同じだったし、笑い方も同じだったし、なんとなく、似ていた。

 それだけだった。

 それだけのことだったが、真奈には、それで充分だった。

「おやすみ、ゆうじいちゃん」と真奈は言った。

 金魚が、ひれをひらりと動かした。

 返事かどうかは、わからない。

 でも真奈は「うん」と言った。


 布団に入った。

 目を閉じた。

 手のひらに、さっきのポイの感触が残っていた。

 薄い紙の感触が。

 そして手首を返した時の、あの感覚が。

 急がないで、ゆっくりと。

 下から上へ。

 真奈は眠りながら、その動きをもう一度、頭の中でやってみた。

 うまくいった。

 今度は、破れなかった。

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