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めぐる光のあしあと ・・愛犬の仕草、祖父の口笛、逝った子の手のひら。大切なあの人は、もうそこにいる  作者: かーすけ


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17/21

第17話 路地裏のパン屋

 味の記憶は、言葉より先に来る。

 梢はそれを、今日初めて知った。

 いや、正確には、知っていたはずなのに、忘れていた。

 忘れていたものが、今日、一口で戻ってきた。

 喉がつまった。

 声が出なかった。

 手の中の小さなラスクを見て、梢はしばらく、動けなかった。


 田村梢、三十二歳。

 都内の出版社で、雑誌の編集を担当している。

 仕事は好きだった。

 忙しいが、面白かった。

 締め切りに追われる日々が、嫌いではなかった。

 ただ、最近、少し疲れていた。


 忙しさの種類が変わってきた、と感じていた。

 入社した頃の忙しさは、前のめりだった。

 やりたいことが多くて、時間が足りない忙しさだった。

 でも最近は、こなさなければならないことが多くて、時間が足りない忙しさになっていた。

 同じ「忙しい」でも、向きが違う。


 母のことを、久しぶりに思った。

 といっても、母が死んだのはもう七年前のことだった。

 梢が二十五歳の時だった。

 癌だった。

 一年かけて、逝った。

 七年が経つと、毎日は思わない。

 でも時々、思い出す日がある。

 今日みたいに、疲れていて、少し立ち止まりたい日に。


 海辺の街に来たのは、取材のためだった。

 小さな手仕事の特集で、この街に住む陶芸家に話を聞くために来た。

 午前中に取材を終えて、午後の電車まで時間ができた。

 街を少し歩いた。

 時計塔のある街並みだった。

 潮の匂いがした。

 石畳の路地が続いていた。

 観光地というほどではないが、古い建物が残っていて、歩いていて気持ちよかった。


 梢はカメラを持って、路地を歩いた。

 取材用のカメラだったが、今は仕事ではなく、ただ歩きたくて歩いていた。

 路地の曲がり角に、小さな看板が出ていた。

「こむぎや」

 木の板に、墨で書いたような文字だった。

 矢印が路地の奥を指している。

 パン屋だった。

 梢は立ち止まった。

 昼は取材先でいただいたので、腹は減っていない。

 でも、路地の奥に何かある、という感覚が、足を動かした。


 路地の奥に、小さな店があった。

 ガラス張りのショーケースに、パンが並んでいる。

 食パン、コッペパン、クリームパン。

 種類は多くなかったが、どれもきれいに並んでいた。


 扉を開けると、鈴が鳴った。

 パンの匂いがした。

 焼きたてではなかった。

 でも焼き上がったばかりの温もりが、まだ店の中に残っていた。

 小麦と、バターと、少しの砂糖の匂いが混ざっていた。


 カウンターの奥に、店主がいた。

 三十代か、四十前か。

 背が低くて、少し丸みのある体型で、エプロンをしていた。

 短い髪で、眼鏡をかけていた。

 梢に気づいて「いらっしゃいませ」と言った。

 声が柔らかかった。

「見ていいですか」と梢は言った。

「どうぞ」と店主は言った。


 梢はショーケースを覗いた。

 どれも素朴なパンだった。

 派手な惣菜パンや、凝ったデニッシュはなかった。

 シンプルな形の、シンプルな味のパンが、きれいに並んでいた。


「どれがおすすめですか」と梢は聞いた。

「食パンですかね」と店主は言った。

「ほかのは今日はもう終わりかけで・・あ、でも」と言って、少し考えた顔をした。

「何ですか」と梢は聞いた。

「おまけ、渡してもいいですか」と店主は言った。

 おまけ、という言葉が、少し意外だった。

「おまけ?」と梢は聞いた。

「パンの耳を揚げて、砂糖をまぶしたやつです」と店主は言った。

「毎日作るんですけど、今日のは少し多めに作ってしまって。よかったら」

「いただいていいんですか」と梢は言った。

「どうぞ」と店主は言った。

「捨てるのももったいないので」


 梢は食パンを一斤買って、店主が小さな袋に入れておまけを渡してくれた。

「ありがとうございます」と梢は言った。

「お口に合えばいいですが」と店主は笑った。

 梢は店を出た。


 路地を少し歩いたところに、小さなベンチがあった。

 石造りのベンチで、路地の隅に置かれていた。

 誰かが置いたのか、もともとあったのか、わからなかった。

 でも丁度いい場所にあった。


 梢は座って、袋を開けた。

 中に、小さなラスクが入っていた。

 パンの耳を揚げて、砂糖をまぶしたものだった。

 きつね色で、細長くて、砂糖が表面に白くついていた。

 梢は一本取り出した。

 少し重みがあった。

 揚げてあるから、外側がかりっとしていた。


 口に入れた。

 喉がつまった。

 一口噛んだ瞬間、喉がつまった。

 外側のかりっとした食感。

 砂糖の甘さ。

 揚げた油の香り。

 パンの耳の、少しだけ残る小麦の苦み。

 それが全部、一度に来た。


 梢は動けなかった。

 咀嚼する動きが止まった。

 頭の中で、何かが動いた。

 動いた、というより、開いた。

 閉じていた扉が、一口で開いた。


 貧しかった頃のことを、梢はあまり人に話さない。

 父親は梢が小学校に上がる前にいなくなった。

 どこへ行ったのか、今もわからない。

 母の佳代は、工場のパートと、居酒屋のアルバイトを掛け持ちして、梢を育てた。

 お金がなかった。

 毎日ではないが、よくお金がなかった。

 冷蔵庫が寂しい時があった。

 おかずが一品の日があった。

 でも佳代は、梢にそれを気づかせないようにしていた。

 気づかせないようにしていたから、梢は子どもの頃、貧しいとあまり思っていなかった。


 ただ、母の台所仕事には、工夫があった。

 余った食材を、違う料理にした。

 捨てるはずのものを、別のものに変えた。

 パンの耳も、そうだった。


 食パンを買うと、耳が残った。

 耳は硬くて、梢は好きではなかった。

 でも佳代は耳を捨てなかった。

 油で揚げて、砂糖をまぶした。

 それが朝ごはんになった。


 朝、起きると、キッチンにラスクができていた。

「はい」と佳代は言って、皿に乗せて出した。

 それだけだった。「捨てるのももったいないから」と言った。

 でも梢は、それが好きだった。


 外側がかりっとしていて、砂糖が白くついていて、少しだけ小麦の苦みがある。

 同じ味だった。

 今、口の中にある味と、あの朝の味が、同じだった。


 梢の目から、涙が出た。

 路地のベンチで、一人で、涙が出た。

 止めようとしたが、止まらなかった。

 止めなくていい、と思った。

 路地は人が少なかった。

 ここで泣いても、誰も見ていなかった。

 ラスクを持ったまま、泣いた。


 佳代のことを思った。

 工場から帰って、居酒屋に行く前に、台所に立っていた母を。

 疲れているはずなのに、台所に立っていた母を。

 パンの耳を揚げながら、鼻歌を歌っていた母を。


 梢は子どもの頃、その鼻歌の曲名を知らなかった。

 大人になってから、昭和の歌謡曲だとわかった。

 佳代が若い頃に好きだった歌だった。

 台所から流れてくる鼻歌と、油の音と、砂糖の匂い。

 それが朝の記憶だった。


 梢には、その記憶が、好きだったのか嫌いだったのか、長い間わからなかった。

 貧しかった頃の記憶だから、できれば忘れたかった時期もあった。

 でも今、一口で戻ってきたのは、その記憶だった。

 戻ってきて、喉がつまった。

 泣いた。

 でも、悲しくはなかった。

 懐かしかった。

 温かかった。

 あの台所が、温かかった。


 しばらくして、梢は涙を拭いた。

 ラスクを、もう一本食べた。

 同じ味がした。

 今度は喉がつまらなかった。

 ちゃんと、食べられた。

 砂糖の甘さが舌に広がって、油の香りが鼻に抜けて、パンの耳の苦みが最後に来た。

 美味かった。

 美味い、という言葉が、体の中から来た。

 頭で考えた美味さではなく、体が先に「美味い」と言った。


 梢はもう一本食べた。

 食べながら、空を見た。

 路地の上の空は、細かった。

 建物に挟まれた、細い空だった。

 でも青かった。

 秋の、澄んだ青だった。


 ラスクを食べ終えた後、梢はパン屋に戻った。

 扉を開けると、鈴が鳴った。

 店主が顔を上げた。

「すみません、また来てしまって」と梢は言った。

「どうぞ」と店主は言った。

「おまけをいただいたラスク」と梢は言った。

「すごく美味しかったです」

「よかった」と店主は言った。

「あの味、どうやって作るんですか」と梢は聞いた。

「特別なことはしていないんですよ」と店主は言った。

「パンの耳を揚げて、砂糖をまぶすだけで」

「砂糖の量とか、揚げ加減とか、レシピがあるんですか」

「一応ありますけど」と店主は少し考えた。

「なんか、この量じゃないとしっくりこなくて。自然にこうなった感じで」


 梢はその言葉を聞いた。

 自然にこうなった。

 店主は続けた。「毎日作るんですが、最初から量が決まってた感じがするんですよね。これ以上でもなく、これ以下でもなく」

 梢は店主を見た。

 短い髪。

 眼鏡。

 柔らかい声。


 佳代とは顔が違った。

 体型も違った。

 でも台所に立つ時の、何かを作ることへの、迷いのなさが・・似ていた。


 捨てるものを、捨てない。

 余ったものを、別のものにする。

 その発想の自然さが、佳代に似ていた。

「お母さんが作ってくれた味と同じだったんです」と梢は言った。

 言ってから、見知らぬ店主にこんなことを言うのはおかしいかもしれない、と思った。

 でも言ってしまっていた。

 店主は少し驚いた顔をした。

「そうですか」と言った。

「子どもの頃、貧しくて。でも母がパンの耳を揚げてくれて。朝ごはんに出してくれたんです。同じ味がして」と梢は言った。

「びっくりしてしまって」

 店主はしばらく黙っていた。


「そういうことって、あるんですね」と言った。

「はい」と梢は言った。

「その分量が、お母さんと同じだったんですね」と店主は言った。

 少し不思議そうな顔をしながら言った。

「なんか、自然にこうなったんですけどね」

「うちの母も、そう言っていました」と梢は言った。

「捨てるのももったいないから、って」

 店主が少し目を細めた。

「うちでもそう言ってます」と言った。

 静かな声だった。

「毎日、同じことを思いながら作ってます」


 梢は店主を見た。

 店主は梢を見た。

 何かを言いたかったが、言葉が見つからなかった。

「ありがとうございます」と梢は言った。

「こちらこそ」と店主は言った。

「来てくださって」

「また来ます」と梢は言った。

「お待ちしています」と店主は言った。

 梢は扉を開けた。

 鈴が鳴った。

 外に出た。


 路地の石畳を歩いた。

 手の中に、食パンの袋があった。

 一斤の食パンが、重かった。

 梢は歩きながら、母の台所を思い出した。

 鼻歌が聞こえる気がした。

 昭和の歌謡曲の、あのメロディが。


 梢は口を動かした。

 曲名は知っていたが、歌詞が途中でわからなくなった。

 でもメロディだけは、体が覚えていた。

 口ずさみながら、石畳を歩いた。

 電車の時間まで、まだ少しあった。

 梢は時計塔の近くのベンチに座った。

 食パンを膝に乗せて、空を見た。

 澄んだ秋の空だった。


 七年前、佳代が逝った時、梢はちゃんと泣けなかった。

 忙しかった。葬儀の手配をして、母の荷物を片付けて、仕事に戻った。

 泣く時間がなかったわけではなかったが、泣くタイミングを逃した。

 それからずっと、逃したままだった。

 今日、路地のベンチで泣いた。

 ラスクを一口食べて、泣いた。

 七年越しの涙だったかもしれない、と梢は思った。

 タイミングを逃したものが、今日、この街の路地で戻ってきた。

 ラスクの形をして。

 砂糖をまぶしたパンの耳の形をして。


 梢には、それが何であるかを説明する言葉がなかった。

 母の魂、と言えば大げさかもしれない。

 偶然の一致、と言えば、あの一口の感覚に失礼な気がした。

 ただ、今日、あの味に出会えた。

 それだけのことが、今日の梢には、充分すぎた。


 電車に乗った。

 座席に座って、窓の外を見た。

 海辺の街が、遠ざかっていった。

 時計塔が小さくなった。

 路地の屋根が見えた。

 どこかに、小さなパン屋があった。


 梢は食パンの袋を膝に持っていた。

 家に帰ったら、何を作ろうかと思った。

 パンの耳が残ったら、揚げようと思った。

 砂糖をまぶして、朝ごはんにしようと思った。

 分量は、わからない。

 レシピも、ない。

 でも作ってみようと思った。

 自然にこうなる、という分量が、あるかもしれない。

 あるいは、うまくできないかもしれない。

 でも、作ってみようと思った。


 電車が走った。

 窓の外に、秋の田んぼが広がった。

 梢は目を閉じた。

 台所の匂いが、まだ鼻の奥にあった。

 油と、砂糖と、小麦の匂いが。

 佳代の台所の匂いが。


 翌朝、梢はキッチンに立った。

 昨日買った食パンを出した。

 一枚切って、トーストにした。

 残った耳を、フライパンに油を敷いて揚げた。

 きつね色になった。

 砂糖をまぶした。

 量は勘だった。

 皿に乗せた。


 お茶を入れた。

 テーブルに座って、ラスクを一本取った。

 口に入れた。

 かりっとした。

 砂糖が甘かった。

 昨日の味とは、少し違った。

 でも、近かった。

 佳代の味とも、少し違った。

 でも、近かった。


 梢は「うん」と言った。

 誰もいないキッチンで、一人で「うん」と言った。

 合格、という意味ではなかった。

 ただ、続けよう、という意味だった。

 また作ろう。

 毎朝、作ろう。

 そのうち、もっと近づくかもしれない。

 あるいは、梢の分量が、梢の味になるかもしれない。

 どちらでもよかった。

 作り続けることが、大事だった。


 お茶を飲みながら、梢はキッチンを見た。

 狭いキッチンだった。

 一人暮らしの、小さなキッチンだった。

 でも今朝は、このキッチンが少し広く見えた。

 誰かがいたような気がした。

 いたような気がするだけで、確かめる方法はない。

 でも、いたような気がした。

 それだけのことが、今朝は、充分だった。

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