第18話 星空のキャンプ場
焚き火を見ていると、時間が溶ける。
炎が揺れる。
燃えた木が崩れる。
火の粉が舞い上がって、暗い空に消えていく。
それを見ているだけで、頭の中にあったものが、少しずつ静かになっていく。
言葉も、記憶も、後悔も、全部が炎の中に吸い込まれていくような気がする。
剛は、それが目的でキャンプを続けていた。
静かになるために。
溶けるために。
弟のあきらのことを、考えずにいられる時間を、一晩だけでも作るために。
剛、三十八歳。
建設会社の設計部に勤めている。
独身で、都内のマンションに一人で住んでいる。
一人でいることが、好きだった。
正確には、一人でいることに慣れていた。
慣れていることと好きなことは、違うかもしれないが、剛には今は区別がつかなかった。
一人でキャンプを始めたのは、三十を過ぎてからだった。
最初は月に一度のつもりだった。
でも気づいたら毎月行っていて、今は月に二度行くこともある。
道具も増えた。
テント、シュラフ、クッカー、焚き火台。
少しずつ揃えていくうちに、揃えることそのものが楽しくなった。
でも道具を揃えるより、焚き火を見ることが、剛には一番大切だった。
焚き火の前に座っていると、あきらのことを、思い出すから。
思い出して、考えて、少しだけ楽になってから眠れるから。
弟のあきらは、剛が十八歳の時に逝った。
あきらは十六歳だった。
白血病だった。
中学三年の秋に診断されて、二年間治療を続けた。
剛が大学一年の春に、逝った。
二年間の治療の間、剛は週に一度は病院に行った。
大学に入って、アルバイトも始めていたが、週に一度は行った。
あきらは病室にいた。
治療の副作用で、体が辛そうな日もあった。
でも剛が来ると、顔を上げた。
「兄ちゃん、また来た」と言った。
「来てやったぞ」と剛は言った。
それだけで、二人の会話が始まった。
たいしたことは話さなかった。
学校の話、友人の話、好きな音楽の話。
剛が大学でどんな授業を受けているか、どんなバイトをしているか。
あきらはいつも「へえ」と言いながら聞いていた。
外の世界の話を、嬉しそうに聞いていた。
剛はその顔が、好きだった。
外に出られないあきらが、剛の話を聞きながら、外にいる時の顔をした。
その顔が、見たくて、毎週行った。
ある夜のことを、剛は今も覚えている。
病室が消灯した後の時間だった。
剛は廊下のソファで待機していて、夜中にあきらの部屋に入った。
あきらは眠れずにいた。
治療の副作用で、夜中に体が辛くなることがあった。
病室の窓から、夜空が見えた。
街の明かりで、星はあまり見えなかった。
でも時々、強い星が一つか二つ、光っていた。
「兄ちゃん」とあきらは言った。
「何だ」
「火の粉って、星になるの?」と聞いた。
どこかで読んだのか、誰かから聞いたのか、剛にはわからなかった。
でも問いかけの声が、真剣だった。
剛は少し考えてから「なるぞ」と言った。
「本当に?」
「火の粉が舞い上がって、空に上がって・・そのまま星になるんだ」と剛は言った。
「あきらも星になれる」
でたらめだった。
でたらめだったが、剛は言った。
あきらは少し笑った。
「じゃあ星になったら、ここから見える?」
「見える」と剛は言った。
「一番明るいやつが、あきらだ」
あきらはまた笑った。
笑って、少し目を細めた。
「兄ちゃん、嘘つきだな」と言った。
「嘘じゃない」と剛は言った。
「嘘だけど」とあきらは言った。
「でも、ありがとう」
それが剛の覚えている、あきらとの夜の会話だった。
あきらが逝ったのは、その三ヶ月後だった。
今夜のキャンプ場は、山の中にあった。
標高が高くて、空気が薄くて、夜になると急激に冷えた。
でも星がきれいだった。
街から離れているから、空が暗くて、星が多く出た。
剛はテントを設営して、焚き火台に薪をくべた。
火が起きた。
最初は小さかった炎が、少しずつ大きくなった。
薪が赤くなって、炎が橙色に揺れた。
剛はチェアに座って、焚き火を見た。
缶ビールを一本開けた。
一口飲んだ。
冷えた空気と、炎の熱が、同時にある。
その対比が、剛は好きだった。
火の粉が、たまに舞い上がった。
炎の先から、小さな光が離れて、上へ上へと昇っていって、消えた。
剛はいつもそれを見ていた。
毎回見ていた。
あきら、見えるか。
声に出さずに、問いかけていた。
毎回、答えはなかった。
でも毎回、問いかけた。
隣のテントに、家族が来たのは、夕方の六時頃だった。
父親と、母親と、小さな男の子だった。
男の子は五歳か六歳に見えた。
キャンプは慣れているのか、テントの設営を父親の隣で手伝っていた。
邪魔になっているだけかもしれなかったが、一生懸命手伝っていた。
夕食の後、家族は焚き火を囲んでいた。
父親が薪をくべて、母親が何かを話して、男の子がそれを聞いていた。
剛は自分のチェアで、少し距離を置いて、焚き火を見ていた。
家族の焚き火の声が、夜の山に流れていた。
剛はその声を聞きながら、自分の焚き火を見ていた。
八時を過ぎた頃、男の子が一人でこちらに来た。
父親に「遠くに行くな」と言われているのか、剛のテントとの境目くらいで止まった。
剛の焚き火を、少し離れたところから見ていた。
剛は男の子を見た。
男の子は剛を見た。
「見てもいい?」と男の子は言った。
「いいよ」と剛は言った。
男の子は近づいてきた。
剛のチェアの横に、地面に直接座った。
膝を抱えて、焚き火を見た。
じっと見ていた。
子どもにしては、静かな見方だった。
動かずに、黙って、炎を見ていた。
剛も黙って、炎を見た。
二人で、しばらく黙って焚き火を見た。
火の粉が、舞い上がった。
炎の先から離れて、上へ向かって、夜空に消えた。
男の子が「あ」と言った。
「火の粉だ」と剛は言った。
「うん」と男の子は言った。
しばらくして、男の子が言った。
「火の粉が星になるんだよ」
剛の体が、固まった。
「知ってる?」と男の子は言った。
剛は答えられなかった。
「火の粉が上に行って、そのまま星になるんだよ」と男の子は続けた。
「だから夜になると星が増えるんだ」
剛の手が、缶ビールを持ったまま、止まった。
二十年前の夜が、戻ってきた。
病室の窓。
夜空。
あきらの顔。
「火の粉が舞い上がって、空に上がって・・そのまま星になるんだ」
剛が、あきらに言った言葉だった。
でたらめだった。
でも言った。
あきらに笑ってほしくて、言った。
今、この男の子が、同じことを言っていた。
「誰かに教えてもらったの」と剛は聞いた。
声が、少し震えた。
震えていることに、自分で気づいた。
「ちがう」と男の子は言った。
「しってた」
「最初から?」と剛は聞いた。
男の子は少し考えてから「うん」と言った。
「ずっとしってた」
剛は焚き火を見た。
炎が揺れていた。
また火の粉が舞い上がった。
今度は大きかった。
炎の先から離れて、上へ、上へと昇っていった。
剛はその火の粉を目で追った。
夜空に、消えた。
あの火の粉は、星になったか。
二十年前にあきらに言ったでたらめが、今夜、男の子の口から返ってきた。
剛には、何が起きているのか、言葉にできなかった。
言葉にしようとすると、逃げていく気がした。
だから言葉にしなかった。
ただ、感じた。
「兄弟、いるの?」と男の子は言った。
剛は男の子を見た。
「いた」と剛は言った。
「いた?」
「弟がいた。もういない」
男の子はしばらく黙った。
焚き火を見ていた。
「星になったの?」と男の子は言った。
剛は目を閉じた。
目を閉じると、涙が一筋、頬を伝った。
「そうかもしれない」と剛は言った。
「じゃあ、見えるよ」と男の子は言った。
「上から、見えてるよ」
剛は目を開けた。
空を見上げた。
星が、多かった。
街から遠いから、星が多かった。
どれが明るくて、どれが暗いか、見分けられないくらい、たくさんあった。
あきらは、どれだ。
二十年前に聞いた言葉を、今夜、剛は自分に問いかけた。
一番明るいやつが、あきらだ。
自分に向かって、答えた。
男の子の父親が「こら、そっちに行くな」と呼んだ。
男の子は立ち上がった。
「ごめんなさい」と剛に言った。
「邪魔した?」
「邪魔じゃなかった」と剛は言った。
男の子は笑った。
にっと笑った。
子どもらしい、屈託のない笑い方だった。
その笑い方に、剛は一瞬、息が止まりそうになった。
あきらが、そういう笑い方をした。
治療が辛い日でも、剛が来ると、にっと笑った。
屈託がなかった。
苦しいのに、屈託がなかった。
その笑い方を、剛はずっと覚えていた。
男の子は自分のテントの方へ走っていった。
「ありがとうございました」と父親が遠くから言った。
「こちらこそ」と剛は言った。
声が、またかすれた。
一人になった。
焚き火が、揺れていた。
剛はチェアに深く座って、空を見上げた。
星が多かった。
どれが、あきらか。
探しながら、探すことをやめながら、剛は空を見ていた。
二十年間、あきらのことを考えてきた。
なぜ逝ったのか、もっとできることがなかったのか、もっと会いに行けばよかったのか、最後にもっと何かを言えばよかったのか。
考えても、答えは出なかった。
出ないとわかっていても、考えた。
それが剛の二十年だった。
でも今夜、男の子が言った。
「じゃあ、見えるよ。上から、見えてるよ」
見えているかどうか、わからない。
でも二十年間、剛が考えてきたことを、あきらが見ていたとしたら。
毎月キャンプに来て、焚き火を見て、火の粉を追いかけて、「あきら、見えるか」と問いかけてきた二十年を、あきらが見ていたとしたら。
知っていたとしたら。
剛の目から、また涙が出た。
今度は拭かなかった。
焚き火の前で、一人で、ただ泣いた。
声を上げなかった。
音を立てなかった。
ただ涙が出て、頬を伝って、顎から落ちた。
炎が揺れていた。
火の粉が舞い上がった。
剛はそれを見ていた。
泣きながら、見ていた。
どのくらい経ったか。
炎が小さくなっていた。
薪が燃え尽きて、赤い熾火になっていた。
剛は立ち上がって、薪を一本くべた。
炎が戻ってきた。
チェアに座り直した。
缶ビールはとっくにぬるくなっていたが、飲んだ。
静かだった。
隣のテントは消灯していた。家族は眠っているようだった。
剛は星空を見た。
あきら、と声に出して呼んだ。
今夜は声に出した。
二十年間、声に出したことはなかった。
心の中でだけ呼んでいた。
でも今夜は、声に出した。
「あきら」
夜の山に、声が吸われていった。
返事はなかった。
でも剛には、聞こえた気がした。
「兄ちゃん、また来た」という声が。
あの病室の、明るい声が。
翌朝、剛は早く目が覚めた。
テントを開けると、夜明けの空だった。
まだ暗かったが、東の空の端が、少しだけ明るくなっていた。
星が、少しずつ消えていく時間だった。
剛は熾火の残った焚き火台の前にしゃがんだ。
灰の中に、まだ赤みが残っていた。
剛は細い薪を一本くべた。
しばらくして、小さな炎が起きた。
火の粉が、一つ舞い上がった。
夜明けの空に、消えていった。
剛はそれを目で追った。
消えた場所に、一つだけ、まだ星が残っていた。
夜明けに残る、最後の一つの星だった。
剛はその星を見た。
しばらく見た。
「また来る」と、声に出して言った。
毎回、言わなかった言葉だった。
でも今朝は、言えた。
言えた、ということが、自分でも少し不思議だった。
星は、空が明るくなるにつれて、少しずつ薄くなっていった。
でも消える直前まで、そこにあった。
剛はその星が完全に消えるまで、見ていた。
撤収を始めた。
テントを畳んで、道具を片付けて、焚き火台の灰を処理した。
隣のテントが動いた。
家族が起き出していた。
子どもが出てきて、剛を見た。
「おはよう」と剛は言った。
「おはよう」と男の子は言った。
それだけだった。
男の子は、剛の目を見て、にっと笑った。
昨夜と同じ笑い方だった。
屈託のない、あきらの笑い方だった。
剛は笑い返した。
うまく笑えたかどうかわからなかったが、笑った。
男の子は父親の方に走っていった。
剛は荷物を車に積んだ。
最後にもう一度、焚き火台を見た。
灰だった。
でも昨夜の炎がそこにあった気がした。
あきらの名前を呼んだ夜の炎が、灰の下にまだある気がした。
車を走らせた。
山を下りる道は、くねくねとしていた。
カーブを曲がるたびに、景色が変わった。
木々が続いていた。
剛は運転しながら、昨夜のことを考えた。
男の子が言った言葉を。
「火の粉が星になるんだよ」
剛がでたらめとして言った言葉を、男の子は「ずっと知ってた」と言った。
最初から知っていた。
教わったのではなく、知っていた。
それが何を意味するのか、剛はわからない。
今朝、「また来る」と言えた。
二十年間言えなかった言葉が、今朝言えた。
それだけが、今日の剛に確かなことだった。
山を下りきって、平地に出た。
空が広くなった。
秋の朝の空が、青くて、高かった。
剛はしばらくその空を見てから、前を向いた。
アクセルを踏んだ。
今日、家に帰ったら、何かを食べようと思った。
最近、ちゃんと食べていなかった。
ちゃんと食べようと思った。
それだけのことだったが、そう思えたことが、今日は少し嬉しかった。
あきら、見えてるか。
心の中で、問いかけた。
今度は、答えが来る気がした。
来るかどうか、わからない。
でも来る気がした。
それだけで、剛には充分だった。




