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めぐる光のあしあと ・・愛犬の仕草、祖父の口笛、逝った子の手のひら。大切なあの人は、もうそこにいる  作者: かーすけ


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19/21

第19話 真夜中の電話ボックス

 社会から公衆電話が消えていく。

 清はそれを、誰かに言われたわけではなく、ある日ふと気づいた。

 気づいたのは、町を歩いていて、昔あったはずの場所に電話ボックスがなくなっていたからだった。

 いつなくなったのか、わからなかった。

 なくなるまで、存在に気づいていなかった。

 あって当たり前だったものが、ある日消えている。

 そういうことが、人生には多い。

 清は歩きながら、そう思った。

 思って、それ以上は考えなかった。

 考えると、違うところへ行きそうだったから。


 田所清、四十一歳。

 中学校の理科教師をしている。

 今年で十四年目になる。

 生徒に慕われているかどうかは、自分ではわからない。

 でも仕事は好きだった。

 理科の実験で生徒の顔が変わる瞬間が好きだった。

 わかった、という顔になる瞬間が。


 独身だった。

 一人暮らしだった。

 一人でいることが、辛いわけではなかった。

 でも時々、夜の静けさの中に座っていると、何かが足りない気がした。

 何が足りないのか、うまく言えなかった。

 育ての親のことを思い出す夜が、ある。

 光子さんのことを。


 清は施設で育った。

 生みの親のことは知らない。

 物心ついた頃から施設にいた。

 施設の子どもたちの中で育って、中学を出て、高校に入った。

 光子さんに出会ったのは、清が小学校五年生の時だった。


 施設の調理員として働いていた女性だった。

 六十歳を過ぎていた。

 小柄で、少し丸くて、眼鏡をかけていた。

 無口ではなかったが、声を荒げない人だった。


 施設の食堂で、清はいつも光子さんの近くにいた。

 理由はない。

 なんとなく、近くにいると落ち着いた。

 光子さんも清を遠ざけなかった。

 掃除の手伝いをすると「ありがとね」と言った。

 余った食材でおやつを作ってくれた。


 学校で嫌なことがあった日、清の顔を見て「今日は何かあった?」と聞いた。

「なんでわかるんですか」と清は聞いた。

「顔に出てるから」と光子さんは言った。

「話したくなったら、聞くよ」

 話したくなったら、と言って、待ってくれた。

 急かさなかった。

 清はその「待ってくれる」ということが、とても嬉しかった。

 施設では、待ってもらえることが少なかった。

 みんな忙しくて、子どもの話を待つ余裕がなかった。

 光子さんだけが、待った。

 清は少しずつ、話すようになった。


 光子さんは施設の調理員だったが、清にとっては母に近い人だった。

 母、と呼んだことはなかった。

 呼べなかった、というより、呼ぶタイミングを逃し続けた。

 中学を出て、高校に入ってからも、施設に行くと光子さんがいた。

「大きくなったね」と言った。

「ちゃんと食べてる?」と言った。

「ちゃんとご飯食べてる?」が、光子さんの口癖だった。

 会うたびに聞いた。

 会わない時は手紙に書いた。


 大学に入って、就職して、教師になった。

 施設に行く回数が減った。

 でも光子さんとは、電話で話した。

 月に一度くらい。それでも話した。

「ちゃんとご飯食べてる?」と光子さんは毎回聞いた。

「食べてます」と清は毎回答えた。

「本当に?」と光子さんは毎回聞いた。

「本当に」と清は毎回答えた。

 そのやり取りが、清には好きだった。

 心配されていることが、わかるから。


 光子さんが逝ったのは、五年前だった。

 八十一歳だった。

 施設の調理員を退いてからも、元気でいた。

 でも冬に肺炎を患って、そのまま入院して、三週間で逝った。

 清は病院に駆けつけたが、間に合わなかった。

 施設の人から連絡が来て、急いで向かったが、着いた時にはもう逝っていた。

「間に合いませんでした」と施設の人が言った。

 清は病室に入って、光子さんの顔を見た。

 穏やかな顔だった。

 苦しんだ顔ではなかった。

 眠っているような顔だった。


「光子さん」と清は呼んだ。

 返事はなかった。

 清はそのまま、病室の椅子に座って、しばらく動けなかった。

 泣かなかった。

 泣けなかった、というより、何かが固まって、涙の場所まで届かなかった。

 泣けないまま、病室を出た。

 泣けないまま、葬儀に出た。

 泣けないまま、それから五年が経った。


 今日、清が歩いていたのは、遅い帰り道だった。

 学校の仕事が長引いて、夜の十時を過ぎていた。

 バスを一本乗り過ごして、歩いて帰ることにした。

 寒かった。

 十一月の夜で、息が白くなった。


 商店街を抜けて、細い路地に入った。

 街灯が一つ、ぼんやりと光っていた。

 その光の中に、電話ボックスがあった。


 古い電話ボックスだった。

 緑色の、昭和の頃の電話ボックスだった。

 ガラスが曇っていて、内側に蛍光灯がついていた。

 受話器が見えた。

 清は立ち止まった。

 こんな場所に、まだ電話ボックスがあったのか、と思った。

 よく見ると、扉に紙が貼ってあった。

「明日、撤去します」と書いてあった。

 明日、撤去。

 今夜が最後の夜だった。


 清はしばらく電話ボックスを見ていた。

 撤去、という言葉が、何かを引いた。

 あって当たり前だったものが、消えていく。

 さっき考えたことと、重なった。

 光子さんのことが、また頭をよぎった。

 清は少し迷ってから、電話ボックスの扉を開けた。

 入るつもりはなかった。

 でも扉を開けた。


 中は、狭かった。

 昔の電話ボックスの匂いがした。

 金属と、古いプラスチックと、少しの湿気の匂い。

 清は受話器を見た。

 電話をかけようとしたわけではなかった。

 かける相手もいない。

 でも受話器を、手に取った。

 冷たかった。

 金属の冷たさが、手のひらに伝わった。


 受話器を耳に当てた。

 発信音が、聞こえた。

 今も、ちゃんと使えるのか。

 撤去前夜でも、まだつながっている。

 清はそのまま、受話器を耳に当てて、立っていた。

 何もするつもりはなかった。

 ただ、立っていた。


 電話ボックスの中が、静かだった。

 外の夜の音が、少し遠くなった。

 受話器の発信音だけが、耳の中にあった。

 清は目を閉じた。

 光子さんに電話したいと思った。

 思って、できないとわかった。


 五年間、何度もそう思った。

 何かあった時、「光子さんに話したい」と思った。

 その都度、できないとわかった。

 受話器を返そうとした、その時。

 電話が、鳴った。


 清は動けなかった。

 発信音が消えた。

 コール音が鳴り始めた。

 電話ボックスに、着信があった。

 清は受話器を持ったままだった。

 もう一度、鳴った。


 三度目が鳴った時、清は受話器を握り直した。

「はい」と、言った。

 声が出た。

 沈黙があった。

 一秒か、二秒か。

 それから、声が聞こえた。


「ちゃんとご飯食べてる?」

 清の体が、硬直した。

 全身が、固まった。

 受話器を持つ手が、震え始めた。

 聞こえた。

 確かに聞こえた。

「ちゃんとご飯食べてる?」という声が。


 光子さんの声だった。

 声質は、少し違うかもしれなかった。

 電話越しの音だったから、正確には判断できなかった。

 でも清には、光子さんの声だとわかった。

 あの聞き方が、あの言葉が、光子さんだった。


 清は答えられなかった。

 喉が締まった。

 声が出てこなかった。

 受話器の向こうで、音がした。

 お茶を飲む前の、小さな息の音だった。

 光子さんがいつもしていた、あの音だった。


 電話の前に座って、お茶を一口飲んでから話す。

 その癖が、光子さんにはあった。

「清?」と声が言った。

 清の目から、涙が出た。

 声が聞こえただけで、名前を呼ばれただけで、五年間固まっていたものが、一気に崩れた。


「はい」と清は言った。

 声が、ひどくかすれた。

「ちゃんとご飯食べてる?」とまた声が聞いた。

「食べてます」と清は言った。

「本当に?」

「本当に」と清は言った。

 喉が震えていた。

 涙が頬を伝っていた。

 電話ボックスの中で、四十一歳の男が、膝をつきそうになりながら立っていた。

「よかった」と声は言った。

 その一言が、清の胸に刺さった。

 よかった。

 五年間、誰にも言われなかった言葉だった。

 ちゃんとやってきたことを、誰かに「よかった」と言ってもらいたかった。

 言ってもらえないまま、五年間、一人でやってきた。

 その「よかった」が、今、受話器の向こうから来た。


「光子さん」と清は言った。

 声に出して、名前を呼んだ。

 生前、施設の外では「光子さん」と呼んでいた。

 母とは呼べなかった。

 呼べないまま、逝かせてしまった。

「光子さん」とまた呼んだ。

 受話器の向こうで、静けさがあった。

 でも確かに、誰かがいた。

 息の音がした。

 あの小さな、お茶を飲む前の息の音が。


「ありがとう」と清は言った。

 何に対するありがとうか、言葉にできなかった。

 全部に対して、ありがとう、だった。

 育ててくれたことに。

「ちゃんとご飯食べてる?」と聞いてくれたことに。

 待ってくれたことに。

 逝く前に会えなかったことを、怒らずにいてくれることに。

 全部に対して、ありがとうだった。

 受話器の向こうで、また息の音がした。

 それから、静かになった。

 発信音に、戻った。


 清は受話器を、ゆっくり置いた。

 床に崩れた。

 膝をついて、電話ボックスの中で、床に崩れた。

 声を上げて泣いた。

 五年間、泣けなかったものが、全部出てきた。


 光子さんが逝った病室で泣けなかったものが、葬儀で泣けなかったものが、その後の五年間に泣けなかったものが、全部、今夜出てきた。

 電話ボックスの中で、一人で、声を上げて泣いた。

 みっともなかった。

 四十一歳の男が、電話ボックスの中で崩れて泣いた。

 でも、どうでもよかった。

 みっともなくていい。

 泣けたことが、よかった。

 五年越しに、泣けた。

 それだけのことが、今夜の清には、何よりも大きかった。


 どのくらいそうしていたか。

 泣き声が、少しずつ小さくなった。

 涙が止まった。

 清は立ち上がった。

 膝が痛かった。コンクリートの床に膝をついていたから、冷えていた。


 受話器を見た。

 黒い受話器が、台の上にあった。

 普通の、古い受話器だった。

 これが鳴ったのか。

 この受話器から、光子さんの声がしたのか。

 信じられなかった。

 でも信じないわけにもいかなかった。

 あの声を、清は間違えない。

 四十一年生きてきて、あの声を忘れたことは一度もない。


 清は電話ボックスを出た。

 冷たい夜の空気が来た。

 息が白くなった。

 空を見上げた。

 星があった。

 多くはなかったが、街の中の空に、いくつか見えた。


 光子さんが、あの中にいるかどうか、わからない。

 でも今夜、声を聞いた。

「ちゃんとご飯食べてる?」と聞いてくれた声を。

「よかった」と言ってくれた声を。

 それだけのことが、今夜の清には、充分すぎた。


 電話ボックスを振り返った。

 街灯の光の中で、古い電話ボックスが立っていた。

 明日、なくなる。

 今夜で最後だった。

 清は電話ボックスに向かって、小さく頭を下げた。

 誰かに見られていたら、おかしい人に見えただろう。

 でも誰もいなかった。

 夜の路地に、清と電話ボックスだけがあった。

 歩き始めた。


 角を曲がった時、路地の奥に明かりが見えた。

「時枝修理工房」と書いた看板が出ていた。

 こんな時間に、電気がついていた。

 清は立ち止まった。

 引き戸の向こうに、明かりが見えた。

 すりガラスの向こうに、人の気配があった。

 清は少しだけ、引き戸に近づいた。


 中を覗くと、老人が窓際の椅子に座っていた。

 白湯の入った湯呑みを両手で包んで、目を閉じていた。

 眠っているのか、考えているのか、わからなかった。

 ただ、静かに、そこにいた。


 清が覗いていることに気づいたのか、老人がゆっくり目を開けた。

 目が合った。

 老人は清を見た。

 清も老人を見た。

 老人は何も言わなかった。

 ただ、静かに、目を細めた。


 怪訝そうでも、驚いた様子でもなかった。

 まるで、知っていたような目だった。

 清が今夜、電話ボックスの前に立ったことを。

 受話器を取ったことを。

 声を聞いて、泣いたことを。

 全部知っていたような、目だった。

 清には、そう感じた。

「すみません」と清は小さく言った。

 老人は頷いた。それだけだった。

 清は歩き始めた。


 家に帰った。

 鍵を開けて、中に入った。

 電気をつけた。

 台所に行って、冷蔵庫を開けた。

 卵があった。

 豆腐があった。

 ネギがあった。


 清は鍋を出した。

 お湯を沸かした。

 豆腐と卵と、ネギを入れた。

 味噌を溶いた。

 味噌汁ができた。

 ご飯が炊けていなかったから、食パンを出した。

 食パンを一枚、そのままかじった。

 味噌汁を飲んだ。

 温かかった。


「ちゃんとご飯食べてる?」

 光子さんの声が、頭の中で聞こえた。

「食べてます」と清は声に出して答えた。

 一人の台所で、声に出して答えた。

「本当に?」

「本当に」と清は言った。

「今、食べてる」


 台所は静かだった。

 返事はなかった。

 でも清には、聞こえた気がした。

「よかった」という声が。

 清は味噌汁を、全部飲んだ。


 翌朝、清は早く起きた。

 支度をして、学校に向かった。

 帰り道に、あの路地を通った。

 電話ボックスは、なかった。

 撤去されていた。

 電話ボックスがあった場所に、何もなかった。


 地面のコンクリートに、四角い跡だけが残っていた。

 清は、その跡を見た。

 昨夜、あそこで泣いた。

 崩れて、泣いた。

 その場所が、今は何もなかった。

 清はしばらく、その跡を見ていた。

「ありがとう」と、また声に出して言った。

 今度は、電話ボックスに向かって言った。

 消えたものに向かって言った。

 言ってから、歩き始めた。


 帰り道のコンビニで、清は弁当を買った。

 それから、少し迷って、デザートも買った。

 プリンだった。

 光子さんが、プリンが好きだった。

 施設に差し入れを持っていく時、プリンを買っていくと喜んだ。

「清が来た時だけ食べる」と言っていた。


 清は家に帰って、弁当を食べてから、プリンを食べた。

「光子さんの分も」と言いながら食べた。

 甘かった。

 ちゃんと甘かった。

 清は食べながら、少し笑った。

 声を出さない笑いだったが、笑った。

 五年ぶりに、光子さんのことを思いながら、泣かずに笑えた。

 それだけのことだったが、清には、とても大きなことだった。


 その夜、清はスーパーでちゃんとした食材を買った。

 鶏肉、野菜、豆腐。

 煮物を作った。

 うまくできたかどうか、わからなかった。

 でも食べた。

 ちゃんと食べた。

 全部食べた。


「ちゃんとご飯食べてる?」

 また声が聞こえた気がした。

「食べてます」と清は答えた。

「本当に?」

「本当に」

「よかった」


 台所に、その声が満ちた気がした。

 返事はない。

 でも満ちた気がした。

 清はそれで充分だった。

 明日も、ちゃんと食べよう。

 明後日も。

 その次の日も。

「ちゃんとご飯食べてる?」という声を、毎日聞けるように。

 ちゃんと答えられるように。

 清は洗い物をしながら、そう思った。


 台所の窓の外、夜の空に、星が一つあった。

 清はそれを見た。

 また明日、という気持ちで、見た。

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