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第五十八話:翡翠の密林(前編)

 南の水平線に、陸地が見えてきた。


 だが、それはまだ“陸地”というより、白い幕の向こうに沈んだ影だった。


 空と海の境目に、真っ白い雨が垂れ下がっている。

 雲から落ちる雨筋は、まるで巨大な布を何枚も重ねて吊るしたように厚く、灰色の大陸の輪郭をぼんやりと隠していた。


「うわ……すごい雨」


 船縁から身を乗り出した結が、思わず声を漏らす。


 海は荒れているわけではない。

 ただ、南の大陸の手前だけが、世界から切り離されたように白く煙っていた。


『スコールの時間じゃき、少し待つぜよ』


 定期船の船長が、低い声でそう言った。


 船員たちが慣れた手つきで帆を降ろしていく。

 ばさり、と風をはらんでいた帆布が力を失い、船は波の上でゆっくりと速度を落とした。


 船長は、暑苦しい詰襟の制服を、なぜか律儀に首元まできっちり着込んでいる。

 南国行きの船にしては、見ているだけで汗が出そうな格好だった。


『あっこに見えるんが、オーダー種族用の橋頭堡、ニューセレノスぜよ』


 船長は前方を指した。


 灰色に煙る大陸の手前。

 白い壁で囲われた小島が、海の上に浮かんでいた。


 外壁は島を丸く取り巻き、こちら側には港らしい桟橋が伸びている。


 そして、壁の向こう。

 広場の中心らしき場所に、女神像の上部が見えていた。


 セレノスの守護神、セレネ・エテルナの立像だ。


 像は剣を構え、月の紋章が刻まれた盾を掲げている。

 白い雨に煙る南の玄関口を、その女神像は静かに見守っているようだった。


「どうして、いったん小島に?」


 結が、女神像の方を見上げたまま尋ねた。


『そりゃ、南の大陸本土は危険じゃからぜよ』


 船長は当たり前のように答える。


 その視線は、雨の向こうに沈む大陸へ向いていた。

 真っ白いスコールの幕の奥で、黒々とした森の影がうっすら揺れている。


 その横で、ケンタは無言のまま壁の向こうを見つめていた。


 見ているのは、大陸ではない。

 白い壁の内側に立つ、女神像である。


「あんなとこに、まだいい素材が眠ってたな」


 ぽつりと呟いたケンタの目が、完全に採掘ポイントを見る冒険者のものになっていた。


 結が即座に叫んだ。


「ケンタの方が危険じゃん! 女神様逃げてー!」


「なんでだよ!」


「なんでじゃないよ! いま完全に見てたじゃん! 女神様を素材として!」


「いや、見てただけだ」


「素材目線でね!」


 シャチョーが横から、うんうんとうなずいた。


「あれはええ素材だったでな」


「同意しないで!」


 結が叫ぶ。


 ケンタは少しだけ視線を逸らした。


「……今回はやらない」


「今回はって言った!」


「言葉の綾だ」


「ぜったい違う!」


 白い壁の向こうで、女神像は剣と盾を構えたまま、雨に煙っている。

 その姿が、ほんの少しだけ警戒しているように見えたのは、結の気のせいではないかもしれなかった。


 船長は詰襟の襟元を正した。

 この船は、今日も無事に客を運べるのだろうか。

 そんな顔であった。


 やがて、白く煙っていた雨の幕が薄くなり始めた。


 空から落ちる水の線が細くなり、灰色だった大陸の輪郭が、少しずつ濃くなる。

 遠くの森。

 湿った岩肌。

 そして、その手前に浮かぶ白壁の小島。


 南の風が、雨の匂いを運んできた。


『よし、帆を上げるぜよ!』


 船長の号令で、船員たちが一斉に動く。

 畳まれていた帆が再び広がり、風を受けて大きく膨らんだ。


 船はゆっくりと進路を変え、白壁の小島へ向かっていく。


 白い壁。

 雨上がりの空。

 剣と、月の紋章の盾を構えた女神像。


 そして、その向こうに広がる未知の大陸。


 いよいよ、一行は新大陸の玄関口に到達したのであった。


* * *


 一行は、ニューセレノスの桟橋へ降り立った。


 足元の板は、雨上がりの湿気を含んでしっとりと濡れている。

 海から吹き上げる風には、潮の匂いと、さっきまで大陸を覆っていた雨の匂いが混じっていた。


 振り返れば、乗ってきた定期船の甲板から、船員たちが手を振ってくれている。


「ありがとー!」


 結が両手を大きく振り返した。

 ぶんぶん、という音が聞こえそうな勢いだった。


 その横で、ケンタは桟橋の先を見て、妙に感心したような声を上げる。


「おー! ファイアウォールの図解みたいだな」


「ファイア……なに?」


 結が手を振るのを止め、首をかしげた。


 なぜ急に火事の話が出てきたのか、まるでわかっていない顔だった。


「コンピューターの通信ポートで、不正な通信を防ぐ機能だよ」


「通信……ポート?」


「ポートって港って意味もあるんだ。だからファイアウォールの説明図って、港に壁がある絵で描かれることが多いんだよ」


「ええっと……港に壁があって、悪いやつを通さない?」


「ざっくり言うとそんな感じ」


 ケンタが指さした先には、ニューセレノスの外壁がそびえていた。


 白い石で築かれた外壁は、島をぐるりと囲むように続いている。

 その中で、桟橋が接続している部分にだけ、大きな門が設けられていた。


 海から来る者は、必ずその門を通ることになる。


 門の両脇には、槍を持った門兵が立っていた。

 鎧の意匠からして、セレノス警備隊から派遣された兵たちらしい。


「ふん、カオスのワシらを防ぐ防護壁ってことか? ……ドワ」


 ぼそりと呟いたのは、ビシャモンだった。


 今の彼は、ドワーフの作業靴によって、ずんぐりしたドワーフの姿に変身している。

 だが中身は、オーガ族ギルド『オオオニ組』の組長である。


 短くなった腕を組み、いかにも不満げに鼻を鳴らしていた。


 そのやり取りを聞いていた船長が、桟橋に降りてきた。

 暑苦しい詰襟のまま、雨上がりの風を受けて、どこか楽しそうに笑っている。


『そのうち、カオス側の航路も開くぜよ』


 励ますように言って、船長はビシャモンへ軽く手を振った。


 ビシャモンは不満げな顔のまま、しかし小さくうなずく。


「それなら、早う頼む……ドワ」


 船長はにっと笑い、今度は一行全体を見渡した。


『さあ、行くがよ。密林と遺跡の大陸が、おまんらを待っちゅうぜよ』


* * *


 門をくぐった先は、セレノスのような街並みではなかった。


 門の内側に広がっていたのは、平たい島の地面だった。


 大きな石造りの建物もなければ、整った商店街もない。

 そこにあるのは、大小さまざまなテントだった。


 白い布を張ったもの。

 補修跡だらけの厚手のもの。

 荷物置き場のように箱を積んだだけのもの。


 固定された建造物は見当たらない。

 まさに、南の大陸へ進むために急ごしらえされた前線拠点だった。


 しかも、地面はひどい有様だった。


 先ほどまで降っていた雨で土はぬかるみ、歩くたびに靴底がずぶりと沈む。

 足を抜けば、ねちゃり、と嫌な音がした。


「うわっ、歩きにくい……!」


 結が足元を見ながら、そろそろと進む。


 その横で、オオオニ組の吟遊詩人ジークが、ぬかるみに足を取られながら、情けない声で歌い始めた。


「ドンドン、ドロドロ、泥まみれ〜♪」


 泥を避けながら進む一行の前には、いくつもの露店が並んでいた。


 といっても、セレノスの市場通りのような賑わいではない。

 布を敷いただけの簡易な売り場や、木箱を台にしただけの露天商が、雨上がりの空の下で商品を並べている。


「これからどうするの?」


 結がケンタに問う。


「まずは、転移魔法のスクロールを探す。この辺で売ってるはずだ」


「転移魔法って、ここに戻ってくるやつ?」


「正確には、南の大陸側の移動拠点へ飛ぶためのやつだな。ウィザードやドルイドが使えるようになれば、次から船旅を省略できる」


「お、買ってくれるの? ケンタくん、やっさし〜」


 そう言って、緋色の祭服をまとったウィザード、ナナがケンタの頭をわしゃわしゃと撫で回した。


「こ、攻略に必須だからな……」


 ケンタは少し顔を赤くしながら、視線を逸らした。


 ところが、ニューセレノス内の露天商すべてをあたっても、スクロールは見つからなかった。


「ないな……」


 ケンタは最後の露店を離れたところで、渋い顔をした。


「全部見たよね?」


「ああ。少なくとも表に出てる品にはなかった」


 ナナも腕を組んで、露天の並びを見渡す。


「売ってるはず、って言ってなかった?」


「旧EOFの記憶だと、このあたりで買えたと思ったんだけどな……」


 ケンタは眉間に皺を寄せる。


「こいつはモンスタードロップかリサーチか……」


「リサーチ?」


 結が首をかしげる。


「材料を集めて、魔法を創出する仕組みだよ。ルーン小石とか、スクロールの切れ端を集めて、書写スキルで作るのが基本手順だ」


「ええっと……魔法のレシピを自作する感じ?」


「だいたいそんな感じ」


「それ、めんどくさそう」


「めんどくさいんだ」


 ケンタは腕を組んだ。


 その横で、ナナがふと視線を動かした。


「もっと面倒かもよ……」


「え?」


 ナナの視線の先に、ひとりのヒューマン女性が立っていた。


 ローブ姿の女性である。

 雨上がりのぬかるんだ地面の上に、じっと静かに佇んでいる。


 そして、その頭上には――金色の『?』マークが浮かんでいた。


「……クエストNPCだな」


 ケンタが呟いた瞬間、一行の視界に半透明のクエストウィンドウが開いた。


――――――――――――――――――――――――

【翡翠の密林】

依頼者:サザン・ウィンド

依頼内容:

翡翠の密林に、霧の都の遺跡が眠っている。

その最奥は世界樹へ続くが、今回の目的は途中の空中回廊で力尽きた魔法研究者の遺品回収である。

クエストアイテム:サザン・ウィンドからの手紙

難易度:★★★

報酬:移動に便利な、あの高位魔法のスクロール

――――――――――――――――――――――――


* * *


「『霧の都』の空中回廊……」


 ケンタがクエストウィンドウを見つめたまま、腕を組んでうなる。


 表示されている文字列は、何度見ても変わらない。


 翡翠の密林。

 霧の都の遺跡。

 空中回廊で力尽きた魔法研究者の遺品回収。


 ケンタはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。


「……無理かも」


「えっ、珍しい。そんなに大変なところなの?」


 結が目を丸くする。


 いつものケンタなら、多少の無茶でもまず攻略手順を考える。

 そのケンタが、最初に「無理かも」と言ったのだ。


 だが、その疑問には、後ろから答えが飛んできた。


「南の大陸で最初の難関レイドゾーンなのよ」


 振り返ると、そこに立っていたのは白銀の聖騎士エレネだった。


 今はハイエルフの姿に戻っている。

 白銀の鎧をまとい、ぬかるんだ前線拠点の中でも、どこか凛とした空気をまとっていた。


「『竜脈の頂』か『猛毒竜のねぐら』が最難関だけど、『霧の都』の奥もそこそこ厳しいわ」


「そこそこ、でそれなんだ……」


 結が少しだけ身を引く。


「じゃ、やめとく?」


 その声には、ほんの少し及び腰な響きが混じっていた。


 だが、ケンタはクエストウィンドウから目を離すと、静かに首を振った。


「いや、行こう。戦力がある今がチャンスだ」


 そう言って、入ってきた門とは反対側――大陸側の門を指差す。


 雨上がりの空気の向こうに、南の大陸へ続く出口があった。


 ケンタの目に、いつもの光が戻る。


「それに、試したいソリューションがある!」


(つづく)


――第五十八話 あとがき


 最後まで読んでくれて、まっことありがとうぜよ。


 南方航路定期船の船長ぜよ。


 後編は、来週火曜日のお昼頃に投稿予定じゃき。

 つづきも読んでもらえると嬉しいぜよ。


 少しでも楽しんでもらえたなら、ブクマや★で応援だけでもしてくれると励みになるぜよ。


 幽霊船はどうしたって?

 さあて、なんのことやら……わからんぜよ。


 あの豪華なコートはどうしたって?

 あれは今一度せんたくいたし申候……いやいや、ベルベットのフロックコートなんぞ知らんぜよ。


 ニューセレノスは、これから発展していく橋頭堡ぜよ。

 下水道網も、そのうち整備されるかもしれん。

 まあ、スコールのたびに泥で詰まるかもしれんけどの。


 それはさておき。

 新しい世界が開けるのは、やっぱりワクワクするじゃろ?


 おまんら、さあ、行くがよ!


――定期船船長


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