閑話:数の魔術師(2)
中央大陸西岸の商業都市セレノス。
EOFの都市の中でも、屈指の大都市である。
石畳の広場には、荷馬車とプレイヤーとNPCが行き交っていた。
冒険者ギルドの周りは、今日もよく賑わっている。
その街区は広大だった。
地上だけでも三つのゾーンに分かれている。
正門や冒険者ギルドが面する、広場を中心とした一帯。
人と荷車と呼び込みの声が行き交う、市場通りのある商業区。
そして、潮の匂いと船の軋む音が漂う港。
さらに、その地下には、外壁の範囲すら超えて広がる下水迷宮が口を開けていた。
「うーん、仔犬探しかあ、そろそろいけるかな?」
冒険者ギルドの掲示板の前で、一人のおじさんが唸っていた。
掲示板には、討伐依頼、採集依頼、護衛依頼、配達依頼などがびっしりと貼られている。その中の一枚を前にして、彼は腕を組んだまま動けなくなっていた。
「でも、探索先が下水だよなあ、一人じゃ不安だなあ」
ぶつぶつと独り言が漏れる。
男の名は児島幸作。
ゲーム内での名前は『コーサク』。
ゲーム初心者の中年リーマンである。
初心者、といっても、ログイン不能になってから何もしていなかったわけではない。少しずつクエストをこなし、少しずつこの世界の理不尽にも慣れてきた。
慣れてきた、はずだった。
だが、掲示板に貼られた『下水』という二文字は、なぜか心に湿った冷気を流し込んでくる。
「下水かあ……。いや、仔犬だしなあ……。でも、下水かあ……」
コーサクは同じ場所をぐるぐる歩くような思考に陥っていた。
「おいおい、コーサクさんよ。はやく決めてくれよ」
「あ、はい、これは申し訳ございません」
後ろの冒険者にせっつかれて、コーサクはびくりと肩を揺らした。
慌てて依頼書を剥がし、ぺこぺこと頭を下げながら受付カウンターへ向かう。会社員時代に染みついた謝罪姿勢は、異世界でも妙に滑らかだった。
「コーサクさん、受注ですか?」
カウンターの向こうでは、受付の女性がにこやかに迎えてくれた。
受付嬢のレジーヌだ。
茶色の髪をきちんとまとめ、ギルド指定のメイド服を着こなしている。忙しいギルドのカウンターにあって、彼女の笑顔だけは妙に安定していた。NPCなのに、取引先の有能な総務担当みたいな安心感がある。
「あ、はい。ええと、こちらを……」
コーサクが依頼書を差し出すと、レジーヌは内容に目を通した。
「あら、このワンちゃん、また迷子になっちゃったんですね……」
困ったように微笑みながら、彼女は手元のハンコを持ち上げる。
ぽん。
依頼書に『委託済み』の印が押された。
――――――――――――――――――――――――
【迷子の仔犬】
依頼者:メリア
目的地:セレノス地下下水網
依頼内容:迷子の仔犬を探して欲しいの。
ヒント:きっと井戸の中なの。
難易度:★★
報酬:犬笛のネックレス
――――――――――――――――――――――――
「まあ、仔犬だし、そんなひどいことにはならないだろう」
コーサクは自分に言い聞かせた。
そう、仔犬である。
いくら『EOF』が妙なところで容赦のないゲームとはいえ、仔犬探しの依頼で、いきなり地獄の釜の蓋みたいなものが開くことはないはずだ。
「お気をつけて、コーサクさん」
「あ、はい。行ってきます」
見送ってくれるレジーヌに手を振ると、コーサクはギルドの建物を出た。
外に出ると、セレノスの空気は明るい。
広場には露店が並び、噴水のそばではプレイヤーたちが地図を広げて相談している。誰かがたこ焼きを買い、誰かが防具屋の前で値段に固まり、誰かが荷物整理に失敗してリンゴを転がしていた。
その平和な光景の中を、コーサクはトボトボと歩いていく。
広場の端に、井戸があった。
古びた石組みの井戸である。
普段なら、街の風景の一部として見過ごしていたかもしれない。だが依頼書に『ヒント:きっと井戸の中なの』と書かれていた今、その井戸は妙に存在感を放っていた。
コーサクは井戸の縁に手をかけ、中を覗き込んだ。
真っ暗だった。
底が見えない。
ただ、冷たい風だけが、下からすうっと上がってくる。
湿った石と、古い水と、どこか鉄っぽい匂い。
さらに、風に乗って何かの呻き声のようなものが聞こえた気がした。
「…………」
コーサクは、そっと井戸から顔を離した。
「や、やっぱり誰かに手伝ってもらおうかな……」
社会人として、リスク管理は大事である。ゲーム内の井戸から呻き声がする案件など、稟議書に書いたら即差し戻しである。
コーサクはメール画面を立ち上げた。
最近、遠くのゾーンにいる相手には届かなくなってしまったが、これしか連絡手段がないのだから仕方ない。
「えっと、ラオさんもジンさんも出掛けてるな……」
宛先一覧に並んだ飲み仲間は、皆グレー表記だった。
グレー。
つまり、現在通信不能。
この世界における、なんとも冷たい色である。
「ナナさんは、もちろん圏外と……」
数少ない友人は、ほぼ連絡不能だった。
コーサクは小さく息を吐く。
ギルド前の喧騒は明るいのに、自分のメール画面だけが、やけに冬の掲示板のように見えた。
「お、一人だけグレーじゃないぞ」
一覧の末尾に、ひとりの少女の名前があった。
――『ナツキ』
* * *
――――――――――――――――――――――――
件名:お願い
宛先:ナツキ
添付ファイル:【迷子の仔犬】依頼書
拝啓初夏の候、ナツキ様におかれましては、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。平素は格別のご愛顧を賜り、心より感謝申し上げます。
児島幸作でございます。
本日はお願いがございまして、ご連絡させて頂きました。
わたくし、先ほど冒険者ギルドにて、仔犬探しのクエストを受注致しました。
ただ、わたくしの力不足で、ひとりでの業務遂行が難しい状況でございます。
つきましては、もしお時間とご都合が宜しければ、ご助力をお願いできないかと、ご連絡差し上げた次第でございます。
お忙しいところ大変恐縮ではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
敬具
児島幸作
――――――――――――――――――――――――
コーサクは、井戸の縁から少し離れたところで、書き上げたメール文をじっと見つめていた。
広場は昼前の明るさに満ちている。
露店の呼び声や荷車の軋む音が行き交い、どこからか焼きそばソースの香ばしい匂いも漂っていた。
だが、背後にある古びた井戸だけは、妙に空気が違っていた。
石組みの奥から、冷たい風がすうっと吹き上がってくる。
「……お願い文としては、やや堅いか?」
小さく呟き、もう一度最初から読み直す。
件名、宛先、添付ファイル。
挨拶、用件、事情説明、依頼、結び。
会社勤めで身体に染みついた形式美が、ゲーム内メールでも遺憾なく発揮されていた。
「待ち合わせの場所と希望時間も書いておいた方がいいかな……」
指先が入力欄の上で止まる。
少し考える。
しかし、すぐに首を横に振った。
「いやいや、承諾もまだなのにそれは失礼かな」
相手は子どもである。
だが、だからこそ礼を欠いてはいけない。
コーサクはひとつ深呼吸すると、メール画面に向かってぺこりと頭を下げた。
そして、まるで重要な稟議書を提出するかのように、慎重に送信ボタンを押し込んだ。
ピコン。
送信完了の小さな音。
コーサクは井戸をちらりと見た。
その、ほぼ直後だった。
ピコーン。
「はやっ」
返信通知が鳴った。
慌ててメール窓を開く。
――――――――――――――――――――――――
件名:Re:お願い
送信日時:2041/05/29 11:12
宛先:児島幸作
いいよー! いまどこ?
ナツキ
――――――――――――――――――――――――
あまりの軽快さに、コーサクはしばし固まった。
自分の長文メールが、まるで大鍋いっぱいのシチューだとすれば、返ってきたのは焼きたての小さなクッキー一枚である。
だが、その一枚の方がずっとあたたかかった。
「……ありがたいな」
コーサクはすぐに、広場の井戸の場所を返信した。
すると、ほどなくして。
「コーサクおじちゃん、こんにちはー!」
石畳の向こうから、元気な声が弾んできた。
駆けてきたのは、ナツキだった。
その足元には、小麦色の仔犬――コムギが、尻尾をぱたぱた振りながら並んで走っている。
ナツキは、子ども用のハンター革装備に身を包んでいた。
柔らかそうな革の胸当てと小さな肩当て。動きやすさを重視した造りだが、留め具やボタンには薄黄金色の金属が使われている。
普通の真鍮ではない。
鈍く、しかし内側から光るような輝き。
(ガン鉄さん特製のオリハルコンパーツかな……)
コーサクは思わず感心する。
小さな冒険者の装備なのに、妙に実用性が高い。
どこか親馬鹿ならぬ、職人馬鹿の気配がした。
そして、何より目を引くのは背中の弓だった。
普通の和弓より短い。
おそらく四半弓。大きさは通常の和弓の三分の二ほどだが、ただの玩具ではない。弓の反り、握り、竹の艶。どれもきちんとした弓具の顔をしている。
「その弓、渋澤さんのところのですか?」
コーサクが尋ねると、ナツキはぱあっと顔を輝かせた。
「うん、わかる? 結おねえちゃんとおそろい〜」
「いいねー。渋サブちゃんって感じだね」
「さぶちゃん? それ、かわい〜」
ナツキが嬉しそうに弓を胸の前へ回す。
その瞬間、彼女の頭の上で、黒いウサ耳の小妖精がくるりと宙返りした。
黒い羽根が、陽の光を受けて小さくきらめく。
『命名スキル発動でーす!』
「今からキミは『さぶちゃん』だよ〜」
ナツキが掲げた四半弓が、一瞬だけ淡く光を放った。
気のせいかもしれない。
しかし、コーサクには、その弓が少しだけ誇らしげに震えたように見えた。
「じゃあ、行こうよ」
「あ、はい。本日はよろしくお願い致します」
ナツキは元気よく井戸の縁に足をかけると、ためらいなく中へ飛び込んだ。
「わん!」
コムギも続く。
「え、あ、ちょっと待って……!」
コーサクは慌てて井戸の縁に駆け寄った。
下から、ひんやりとした風が吹き上がってくる。
「……安全第一、安全第一」
誰に言うでもなく呟きながら、コーサクはナツキの後を追って、井戸の中へと降りていった。
* * *
井戸を降りた先には、ひとりの少女が待っていた。
擦り切れた白いワンピースに、黒く長い髪。
薄暗い下水道では、少々不気味に見えた。
「ひぃー! 幽霊!?」
コーサクは飛び上がり、ナツキの背後に隠れた。
「依頼主に向かって、失礼なおじさんね!」
少女はむくれながら名乗った。
「私が依頼主のメリアよ。よろしくね」
「こ、これは大変失礼致しました。わたくし、コーサクと申します」
「わたしはナツキだよっ!」
「コーサクおじさんに、ナツキちゃんね。じゃあ行くわよ」
メリアは当然のようにパーティに加わった。
(えー、付いてくるんですか? 顧客監視下って嫌な予感が……)
その直後、メリアは走り出した。
「あ、何かいるわ! チロかも? チロー!」
向かう先には、でっかいネズミ――ジャイアント・ラット。
「違ったわ。残念……いたっ」
手を噛まれたメリアのHPゲージがガクンと削れる。
「コムギ!」
「わん!」
コムギが飛び出し、ネズミの前に立ちはだかる。
その隙に、ナツキは四半弓を構えた。
放たれた矢が、ジャイアント・ラットの背に当たる。
チュギィッ!
ジャイアント・ラットは大きく跳ね、水路の奥へ逃げていった。
――嫌な予感は的中した。
その後もメリアは、モンスターや罠に突進してHPをじりじり減らしていく。
「これ、メリアさんのHPが尽きてもクエスト失敗でしょうか?」
「うーん、ピコちゃん、どうなの?」
『お察しの通りでーす。エスコート失敗でクエストも失敗ですー』
「……ヒーラー居ないと無理ですかね」
もう諦め顔のコーサクであった。
* * *
しばらくして、下水道の片隅で説教が始まっていた。
「いいですか、メリアさん。あなたの行動は、私たちのみならず、救出を待っているチロくんも危険に晒しています」
「…………」
擦り切れた白いワンピースの少女が、むっとした顔でコーサクを見上げる。
コーサクはその目を、真正面から受け止めた。
「あなたくらいのご年齢なら、お分かりになりますよね?」
「……わ、わかったわよ」
メリアは少しだけしょんぼりしながら、こくりとうなずいた。
「良い子です」
コーサクはニッコリ笑うと、メリアの頭をそっとなでた。
すると横から、ナツキがぴょこんと頭を突き出してくる。
「わたしもいい子ー!」
「あ、はいはい。ナツキちゃんも良い子です」
ついでになでる。
「わん!」
今度はコムギが足元で尻尾を振った。
「お前もかい……」
コーサクが苦笑しながら、コムギの頭もなでる。
その様子を見ていたピコが、コーサクの周りをぐるぐる飛び回った。
『コーサクさん、意外と保護者スキルも高いですー』
「え?」
『以後、個体名『コーサク』をナツキちゃんたちの保護者としてタグ付けします!』
「や、やめてください〜」
コーサクの悲鳴が、下水道に情けなく反響した。
* * *
ともあれ、メリアの暴走はおさまった。
一行は改めて探索を再開する。
途中、壁の裏に隠された通路からシーフギルドへ迷い込み、酒樽に腰かけたギルドマスターらしき男から、歓迎のネズミ肉シチューを勧められた。
「遠慮するな。ついさっき矢で弱ったやつが迷い込んできたんだ。新鮮だぞ」
「い、いえ、大変ありがたいお申し出なのですが、本日は業務中でして……」
コーサクは両手をそろえて、深々と頭を下げた。
「また今度食べるねー!」
「わん!」
「今度もやめておきましょうね……」
「そうよ、熟成させた方が美味しいわよ」
そんな寄り道を挟みつつ、三人と一匹はさらに奥へ進んでいった。
* * *
「おじちゃん、何してるの?」
ナツキが、コーサクの手元を不思議そうに覗き込んだ。
コーサクはバグセルの窓を開き、何やら細かく操作している。
「ああ、これはバグセルで地図を描いてるんです」
そう言って、ナツキにも見えるように窓の位置を少し下げた。
下水道の通路が、線と四角で細かく記録されている。
さらに区画ごとに、赤、青、黄、緑の色が塗られていた。
「わー、すごい! いろがいっぱーい」
「四色で全部色分けできるんですよ」
「へー。ナツもバグセルで九九ならってるよ。ログ爺がおしえてくれてるんだ。えへん」
四色の意味はよくわかっていなさそうだったが、ナツキの目はきらきらしていた。
メリアも横から覗き込む。
「チロはどこなの?」
「それを今、探しているところです。マッピングはかなり進んでいますが……まだ見つかりませんね」
コーサクは地図を見ながら、指で空白部分をなぞる。
「バランス的に、あとは西の端の方だけなんですが……」
「いってみようよ」
「それがいいわ」
「わん!」
三人と一匹はうなずき合った。
コーサクはバグセルの地図を閉じると、まだ色の塗られていない大きな空白へ目を向ける。
「では、大空白を塗りつぶしに行きましょう」
一行は、下水道の西へ向かって歩き出した。
* * *
西への通路は、いつのまにか人工的な石積みではなくなっていた。
整えられた壁面は途切れ、足元の水路も細くなり、やがて自然の岩盤をそのまま削ったような道へと変わっていく。
しばらく進むと、視界がふっと開けた。
そこは、岩肌がむき出しになった大空間だった。
天井は高く、壁は淡く光る苔に覆われている。
空気はひんやりとしていて、さっきまでの下水道特有の湿った匂いも薄い。
「広いですね……」
コーサクは恐る恐る周囲を見回した。
暗がりの奥に何かが潜んでいないか。
天井から何かが降ってこないか。
足元に落とし穴がないか。
かなり慎重な確認である。
「わー、ここ前にピヨちゃんがいたとこだよ」
ナツキが思い出したように声を上げた。
「ピヨちゃん?」
コーサクは聞き返す。
「うん、でっかいヒヨコちゃんだよ」
「で、でっかいのはちょっと怖いですね……」
「どっか飛んで行っちゃったから、もういないよ」
ナツキはあっけらかんと言った。
確かに、見回した範囲には何も見当たらない。
岩陰にも、水際にも、天井近くにも、動く影はない。
以前ここにいたという、でっかいヒヨコらしきものもいなかった。
だが。
チロもいない。
「ここ最後なのに、見つかりませんねえ……」
コーサクはバグセルの地図を見つめながら呟いた。
下水迷宮の探索済み範囲は、ほとんど埋まっている。
未踏の空白は、目の前のこの大空間だけだった。
コーサクは小さく息を吐き、最後のセルを赤く塗りつぶした。
その時だった。
バグセルの窓が、四色の光を放った。
「えっ?」
赤、青、黄、緑。
塗り分けられた地図の色が、画面の中で脈打つように輝く。
『マップ完成! バグセル数理空間が下水空間とシンクロ接続、虚数回廊が開きます!』
ピコちゃんが、慌てたように叫んだ。
「えっ? えっ?」
コーサクはバグセルと周囲を交互に見る。
次の瞬間。
岩壁から、すうっと色が抜け落ちた。
苔の淡い光も、湿った岩肌の陰影も、何もかもが消えていく。
代わりに現れたのは、赤い線だけで構成された壁だった。
岩肌は赤いワイヤーフレームとなり、曲面も凹凸も、線の集合として浮かび上がる。
足元の地面も、天井も、空洞全体が巨大な設計図の中へ放り込まれたように変わっていった。
振り返れば、来た通路は青いワイヤーフレームで光っている。
「なんですか、これえ〜?」
コーサクは、今日一番の情けない声を上げて固まった。
* * *
天井のワイヤーフレームの隙間から、さらさらと細かいチリのようなものが降ってきた。
赤い線で描かれた空洞の中に、白く光る粒が混ざっていく。
「え? すうじ?」
ナツキが首をかしげた。
それは、チリではなかった。
小さな数字の列だった。
2、3、5、7、11、13、17、19、23、29。
細かな数字が、雨のように真っ直ぐ垂れ下がってくる。
やがて大空間の真ん中で渦を巻き、ひとつの姿を形作った。
夜のような黒いローブ。
その布地には、星のように無数の数字が輝いていた。
手は見えない。だが、右手があるはずのあたりに、一本の杖だけがふわりと浮かんでいる。
目深にかぶった、つば広の三角帽子にも数字が散りばめられていた。
三角のてっぺんには、大きな『∞』記号が揺れている。
そして、その頭上には――五つのHPゲージ。
さらに、タグも見えた。
【ラプラスの魔】
『我の領域に踏み込むとは、豪胆な冒険者じゃのお』
それは、帽子とローブと杖だけに見えた。
顔も手足も見えない。
黒いもやのようなものが、衣の内側でゆらゆらと揺らめいているだけだ。
ただ、目にあたる部分だけが、赤く爛々と光を放っていた。
「えっと、★2だったはずじゃ……」
コーサクの口元がひきつる。
『あのクエストとは別案件かと思われます』
「えー? って、ピコちゃんさん、急に事務的だね……」
コーサクは、妙に冷静なピコちゃんの声にますます不安を募らせた。
「やっちゃおう!」
ナツキが四半弓を構える。
放たれた矢は、赤いワイヤーフレームの空間をまっすぐ飛んだ。
だが――。
ラプラスの魔は、まるで矢が来る場所を最初から知っていたかのように、ほんのわずかだけ身体をずらした。
矢は黒いローブの端をかすめ、赤いワイヤーフレームの壁へ吸い込まれていく。
『ククク、無駄じゃ。我は全ての事象が計算できる』
ラプラスの魔は、右手のあたりに浮いていた杖をすっとかざした。
「エクスペクテッド・アクシデント!」
その瞬間。
「きゃ!?」
ナツキが、何もない場所でつまずいて転んだ。
「エクスペクテッド・アクシデント!」
「うへえっ!」
コーサクも足をもつれさせて転んだ。
石でも段差でもない。
ただ、そこに転ぶべき未来が置かれていたみたいに、二人は見事に床へ転がっていた。
「いてて……ラプラスの魔って、あの?」
コーサクが顔を上げながら呻く。
『そうじゃ。未来が計算できる全知全能の存在じゃ』
ラプラスの魔は、どこか自慢げに答えた。
黒いローブの表面で、数字の星々がちらちらと瞬く。
「自分は避けといて、こっちは避けられないってバランスシート間違ってませんか?」
コーサクは、膝をさすりながら情けない声を上げた。
* * *
「エクスペクテッド・アクシデント!」
「きゃあ!」
メリアが、何もない場所でつまずいて転んだ。
「エクスペクテッド・アクシデント!」
「きゃん!」
今度はコムギが、足をもつれさせてころんと転がる。
コーサクは、あからさまにアンフェアな契約書を前にしたかのような渋い顔で、ラプラスの魔を見上げる。
「うーん……あれ?」
ふと、気づいた。
「HP、全然減ってないぞ」
そう。
確かに痛かった。
痛かったのだが、転んだだけで大したダメージは入っていない。
ナツキもメリアもコムギも、HPゲージはほとんど削れていなかった。むしろ、自然回復でじわじわ戻り、もう全快に近い。
改めて見れば、数字が散りばめられたローブと帽子も、どこか玩具っぽいゆるさがあった。
不気味ではある。
だが、絶望的というほどではない。
そこへ、後押しがかかる。
『本件を緊急事態と認識しました』
ピコがくるりと輪を描いて、杖を振った。
『Toonモードオン!』
そして、コーサクに向かって片目をつぶる。
『マスターには内緒でお願いしまーす!』
次の瞬間。
ラプラスの魔の姿が、ぐにゃりと縮んだ。
夜のようだった黒いローブは、丸っこく膨らみ、目深にかぶった三角帽子もぽこんと大きくなる。
手足の見えない不気味な影は、二頭身のゆるキャラめいた姿へと変化していた。
頭上の五つのHPゲージも、ピンクめいた明るさに変わる。
さらにギュンと縮み、雑に積み重ねられた積み木のように、グラグラ揺れ始めた。
「わあ! らぷらぷ! かわいい!」
ナツキが目を輝かせる。
『誰が、らぷらぷじゃ!』
ラプラスの魔は苦情を言った。
だが、もはや先ほどまでの威厳はない。
揺れる『∞』記号も、いまや帽子の飾りにしか見えなかった。
「さて」
コーサクは、すっくと立ち上がった。
「これは、先ほどの負債の返済が必要ですね」
* * *
『おのれ、我は全てを計算できるのだぞ! どうやって攻撃するというのだっ!』
ラプラス――改め、らぷらぷは胸を張って主張した。
二頭身になったせいで、胸を張っているというより、帽子ごとふんぞり返っているようにしか見えない。
「計算って、仰るほど万能じゃないんですけどね……」
コーサクはぼそっとつぶやくと、ナツキに顔を寄せて耳打ちした。
「うん? それでいいの? わかったー」
ナツキは元気よく返事をすると、四半弓を構えた。
弦が鳴る。
放たれた矢は、まっすぐらぷらぷの帽子へ向かった。
『ふん!』
らぷらぷは、またもギリギリで身をずらす。
矢は帽子の横をかすめ、赤いワイヤーフレームの空間へ飛んでいった。
『それ見た事か――うぬ!?』
避けた先に、二本目の矢が通っていた。
それはらぷらぷの身体ではなく、少し横の空間を狙って放たれた矢だった。
だが、らぷらぷが避けたことで、ちょうど帽子の先端へ吸い込まれる。
すこん。
矢が帽子を貫いた。
頭上に積み重なっていた五つのHPゲージのうち、一番上のひとつが、カランと音を立てて落ちる。
『な、何故じゃあ!? 我はちゃんと計算して避けたぞ!?』
「ただの偶然ですよ」
コーサクは静かに言った。
「自分を狙ってない矢は、計算を端折ったでしょう?」
『さ、最適化がいけないというのか!?』
らぷらぷの声が裏返った。
その間に、ナツキはもう次の矢をつがえている。
「らぷらぷ、つぎもいっくよ〜!」
『くっ、今度は全ての矢を計算してくれるわ!』
ナツキが弓を引いた。
次の瞬間、放たれたのは一本ではなかった。
小さな四半弓から、光の軌跡を残して無数の矢が同時に走る。
『ちょ! おまっ! そんな弓技、反則じゃろ!』
らぷらぷは慌てて身をひねった。
一本目を避ける。
二本目を避ける。
三本目も、四本目も、紙一重でかわす。
だが、避けた先を埋めるように、別の矢が通っていた。
すこん。
すこん。
帽子に矢が突き刺さる。
頭上の積み木めいたHPゲージが、またひとつ、コロンと崩れ落ちた。
「知りませんでした?」
コーサクがニッコリ笑った。
「計算には、解がない場合もあるんですよ」
* * *
『おのれ! 計算可能な美しい世界を壊す悪魔め!』
らぷらぷが、帽子をぷるぷる震わせながら叫んだ。
「けーさん? ナツもけーさんできるよ〜」
ナツキが指を折る。
「ににんがし!」
『ぐぐああああ! やめろ! 計算過程を省くなっ!』
何故か、らぷらぷが少しだけダメージを受けた。
頭上の積み木めいたHPゲージが、かすかに揺れる。
「にさんがろく!」
『美しくなああい!』
ほんの少しだが、HPゲージが減っている。
「なるほど、九九がお嫌いなんですね……」
コーサクが、ぽんと手を打った。
「もしかして、『公式』とかも?」
言葉だけなら簡単に試せる。
『そ、そんなことはないぞ。ピタゴラスの定理とか大好きじゃ――ぐわあっ!?』
自分で言った瞬間、らぷらぷのHPゲージがガクンと減った。
「へえ。『ポアンカレ予想』とか大好きですか?」
『や、やめろ〜! 物理で解決など許せぬ……ぬぬっ!』
コトン、と積み木が落ちる。
残るHPゲージは、最後の一個だけになった。
「ああ、物理の公式の方がお好みですか?」
コーサクは、少しだけ首をかしげた。
「万有引力の法則!」
「光量子仮説!」
「シュレディンガー方程式!」
『ぐあああ、やめて、やめてええ!』
らぷらぷが、帽子を抱えるようにして身をよじる。
「うーん、やっぱり最後はこれですかね?」
コーサクは静かに言った。
「不確定性原理!」
その瞬間。
らぷらぷこと、『ラプラスの魔』は、さらさらと数字の塵になって消え去った。
* * *
『ラプラスの魔』を倒したあと、虚数回廊は静かに閉じていった。
赤と青のワイヤーフレームがほどけるように消え、数字の残り火も、ふわりふわりと空気に溶けていく。
気づけば、コーサクたちは元の下水迷宮に立っていた。
岩肌のむき出しになった大空間。
淡く光る苔。
ひんやりとした空気。
先ほどまでの数理空間が嘘のように、そこには静かな地下の空気だけが戻っていた。
「……戻ってきた、んですよね?」
コーサクは念のため周囲を見回した。
五本のHPゲージもない。
素数の雨も降っていない。
二頭身のゆるキャラもいない。
ひとまず、変な追加請求はなさそうだった。
「チロ、探さなきゃ!」
メリアが顔を上げる。
そうだった。
もともとの目的は、ラプラスの魔の会計監査ではない。
迷子の仔犬探しである。
三人と一匹は、大空間を改めて調べ始めた。
岩陰。
水際。
苔の光が届かない隅。
コーサクが慎重に足元を確認し、ナツキがあちこち覗き込み、メリアが名前を呼ぶ。
「チロー! どこー?」
「くんくん……」
その時、コムギが鼻をひくつかせた。
大きな卵の殻のようなものが、岩陰に転がっている。
コムギはその後ろへ回り込み、尻尾を振った。
「わん!」
そこに、小さな影があった。
卵の殻の後ろに隠れるようにして、仔犬が丸くなっていた。
「くぅ〜ん……」
「チロー!」
メリアが駆け寄り、仔犬を抱き上げた。
小さなチロは、少し震えていたが、メリアの腕の中で安心したように鼻を鳴らした。
「よかった……ほんとによかった……」
メリアはチロをぎゅっと抱きしめると、コーサクの方を向いた。
「おじさん……ううん、下水のパパ、ありがとう!」
そして、礼儀良くぺこりと頭を下げる。
「下水のパパって……ま、いいか……」
コーサクは苦笑した。
もう訂正する気力は、下水のどこかへ流れていた。
代わりに、メリアの頭をそっとなでる。
ついでに、隣で頭を差し出してきたナツキの頭もなでる。
さらに、足元で尻尾を振っているコムギの頭もなでる。
「みんな良い子でした」
「くぅーん……」
チロも、メリアの腕の中から鼻先を伸ばしてきた。
「お前もか……」
コーサクは小さく笑いながら、チロの頭もそっとなでた。
(おわり)
――閑話:数の魔術師(2) あとがき
いつもお世話になっております。
経理部の児島でございます。
最後まで読んでいただきまして、誠にありがとうございます。
次回の『マジチー』は、本編を来週の火曜日、お昼ごろに投稿予定とのことです。
とうとう拡張パックへの道が開くらしいですよ。
ところで、拡張パックってなんなんですかね?
そちらも読んでいただけましたら……嬉しいです。
もし少しでも楽しんでいただけたのなら、ブクマや★で応援をして頂けると励みになります。
いやあ、今回も大変でした。
迷子の仔犬を探すだけのはずだったのですが、気づけば下水で地図を塗り、虚数回廊に入り、ラプラスの魔と戦っておりました。
業務範囲というものは、時々、思わぬ方向へ拡大するものですね。
ナツキちゃんには、いつもお世話になりっぱなしです。
ピコちゃんさんから、ナツキちゃんには「ママ」がいると伺っておりますので、そのうち菓子折りを持参して、ご挨拶に伺わないといけませんね。
報酬の犬笛ですか?
一度吹いてみたのですが、セレノス中のワンちゃんが集まってきて、「撫でろ」と主張されまして……いやはや、参りました。
コムギ君、何か変なことを流布していませんかね?
それにしても、『下水のパパ』って……。
やはり、加齢臭がきついのでしょうか。
はぁ〜。
――児島幸作




