閑話:それは黒くて素敵な飲み物
日没してまもない商業都市セレノス。
市場通りの喧騒が少しずつ遠ざかり、酒場『ルーイン・ゴート』には夕食時のざわめきが満ちていた。
『トーチ』の面々は、いつもの大きなテーブルを囲んでいる。
皿の上には、肉料理、豆の煮込み、湯気の立つ白いご飯。食事はそろそろ終わりかけていた。
「ふう。食った食った」
ケンタは椅子の上で小さく伸びをすると、コップに残っていた黒い飲み物をぐいっとあおった。
しゅわしゅわと泡が弾ける。
「うへー、よくご飯と一緒に甘い飲み物飲めるね」
結が顔をしかめた。
そう。チビアバターと化してからのケンタの飲み物は、黒ビールなどではない。
黒くて甘くて、炭酸はじけるコーラだった。
「合うぞ。コーラをご飯にかけて、コーラ茶漬けにするやつもいる」
「それも茶漬けと呼んでいいの?」
「いいさ。出汁茶漬けだって、お茶じゃないだろ」
「理屈はそうだけど、心が納得しないよ」
ケンタは空になったコップを掲げ、近くのウェイターを呼んだ。
「これって、赤と青のヘブンコーラだよな? 赤と白のコケ・コーラはないのか?」
ウェイターは申し訳なさそうに首を振った。
この店には、それしかないらしい。
「味が全然違うんだよなあ……コーケの方が飲みたいなあ」
「そんなに違う?」
「ラムネとサイダーくらい違う」
「同じじゃん!」
「違うだろ」
ケンタは真顔で言った。
「そこには、深い炭酸の谷がある」
「浅そう!」
* * *
「で、俺が呼ばれたと……」
タクヤはテーブルにつくやいなや、不平をもらした。
場所は変わらず、セレノスの酒場『ルーイン・ゴート』。
夕食後のテーブルには、空になった皿と、問題の黒い炭酸飲料が入っていたコップが置かれている。
ケンタはそのコップを、まだ名残惜しそうに見ていた。
「なんで俺が炭酸飲料の面倒まで見ないといけねーんだ?」
タクヤが眉を寄せる。
「こっちは詳しくないのか?」
ケンタはがっかりした顔で見上げた。
「そうは言ってねぇ……が、アレは門外不出だろう」
「門外不出! 一子相伝?」
結が妙に食いついた。
「どこの暗殺拳だよ……レシピの話だぜ」
タクヤは頭を振った。
それから、空のコップをちらりと見る。
「似たようなモンはできるだろうが、嗜好品はわずかな違いが『コレジャナイ』になるんだよな……」
「そんなこと言わないからさ、近いのでいいんだ」
ケンタはすぐに言った。
だが、その顔はすでに、近いものでは満足しなさそうな顔だった。
タクヤはジトっとケンタを見下ろす。
「どうせ、香りが1ミリずれてるとか、味が境界条件踏み越えてるとかゆーんだろ?」
「言いそう……」
結が小さくうなずいた。
「言わない、言わない。仕様はざっくりでいい」
「ホントかよ……」
タクヤは疑いの目を逸らさない。
ケンタは真顔でうなずいた。
その真顔が、逆に信用できなかった。
タクヤは深く息を吐く。
「なら、白鹿亭に行くぞ。甘い物ならホワイト氏に聞けばいい」
* * *
白鹿亭に着くなり、ケンタは説明を始めた。
黒くて甘いこと。
炭酸がしゅわしゅわ弾けること。
ただ甘いだけではなく、どこか薬草のような香りがすること。
赤と青のやつではなく、赤と白のやつに近づけたいこと。
「なるほどであ〜る」
ミスリル・シェフのホワイト氏は、深くうなずいた。
すると、その頭上に『?』マークが点灯した。
「出た! クエストだ!」
「炭酸飲料でクエスト発生すんのかよ……」
―――――――――――――――――
【コーラの実の納品】
依頼者:ミスリル・シェフ ホワイト
目的地:南の密林
依頼内容:
ローズティア湖を渡った先に南の密林があ〜る。
そこでコーラの木を探して、その実を収穫するのであ〜る。
制限時間:なし
難易度:★★★★★
報酬:料理レシピ『魅惑のカフェレシピ』
―――――――――――――――――
「コーラって木になるんだ……」
結がぽつりと言った。
「うむ、知らなかったのか? 結」
ケンタはさも当然のようにうなずく。
「いや、知らないよ。普通は知らないよ」
「それより、星五つだぞ」
タクヤがクエストウィンドウの一行を指差した。
「コーラの実を取りに行くだけで、なんで難易度が星五つなんだよ」
「でも、報酬は料理レシピ『魅惑のカフェレシピ』だぞ。平和そうだ」
「平和なクエストは星五つにならねぇんだよ」
タクヤが顔をしかめる。
結はクエストウィンドウとホワイト氏を見比べた。
「ほんとにこれで合ってるの?」
「合っているのであ〜る」
ホワイト氏は胸を張った。
それから、なぜか一歩、厨房の方へ下がった。
「では、厨房の仕込みがあるのであ〜る」
そう言うと、ホワイト氏はそそくさと厨房の奥に消えた。
「逃げたね」
「逃げたな」
「ま、初期のコーラはコーラ・ナッツを使ってたと思うが、ケンタの希望とは違うかもな」
「とりあえず、南の密林行ってみようぜ」
ケンタは小さな体で、すっと南を指差した。
「南っても、ここからだと東南東だぜ。ドルイドのゲートが一番近いかな」
「よーし、だったらチコリにお願いだ!」
「おまえ、ほんと遠慮ないな……」
* * *
チコリは申し訳なさそうに、何度も頭を下げていた。
「ほんとにすいません……」
その様子に、タクヤが片手を上げる。
「いや、いいって。無理言ってるのはこっちだし、わりいな」
「『南の密林』のゲートは、カオスの町でしか売ってなくて、持ってないんです」
チコリは肩を落とした。
ドルイドのゲート魔法は、行き先ごとに習得が必要になる。便利ではあるが、持っていない場所へは当然飛べない。
「中央図書館でも売ってるんだが……まだ行けないか」
ケンタが悔しそうにつぶやいた。
中央図書館には、すべての魔法とスキルが納められている。
オーダー、カオス、どちらの陣営でも購入可能な中立施設。だが、そこへ行くには拡張パックの解放が必要だった。
つまり、今はまだ行けない。
「俺が買ってきてもいいが、それなら歩いて行ったほうが早いな」
タクヤが言った。
カオスの町『バロルグ』へ向かうなら、『南の密林』は通り道になる。
「なら、『ウルフ・フォーム』掛けます!」
チコリが顔を上げた。
そして今度は、チコリの方が手を合わせる。
「その代わり、『南の密林』のゲートを買ってもらっていいですか? 帰りでいいんで……」
「もちろんいいさ、まかせろ」
ケンタが胸を張って宣言した。
「買いに行くのは俺なんだが……まあ、お安いご用だ」
タクヤは苦笑しつつも了承した。
出発は、翌朝ということになった。
* * *
翌朝。
一行はチコリのグループゲートで北エリスのドルイドリングまで飛んだ。
円を描くように並んだ石柱が、朝の草原に影を落としている。
その向こうには、南の川に架かる白亜の橋が見えた。
「じゃ、ここからは走りだね」
結が白亜の橋の方を見て言った。
「それじゃ、『ウルフ・フォーム』掛けます!」
チコリが杖を掲げた。
「ウルフ・フォーム!」
淡い光が一行の体を包んだ。
次の瞬間、ケンタたちの視界がぐんと低くなる。
この魔法は、足を速くする『狼の魂』の上位版である。
姿形まで狼と化し、速度も『狼の魂』より若干速くなる。
「うわー、なんか不思議な感じ!」
初めての四つ足アバターに、結が戸惑った声を上げた。
前足がある。
後ろ足もある。
しっぽもある。
そして、地面が近い。
「これ、どの足をどの順番で出せばいいんだ?」
ケンタが真剣な声で言った。
「ケンタ、ほんと細かいな。テキトーでいいんだぜ」
そう言い残して、タクヤは軽やかに走り出した。
「あっ」
結とチコリも、あわててその後を追う。
最初はぎこちなかった結の足取りが、すぐに整っていく。
「あ、なんとなくテキトーな感じ分かってきたかも」
結はぐんとスピードを上げた。
そして、先を行くタクヤをあっさり追い越す。
「ひゃっほー!」
楽しそうな声が、街道の先へ飛んでいった。
その後ろ。
最後尾では、ケンタが右前足と右後足を一緒に出しながら、ヨタヨタとついてきていた。
「ま、待ってくれよー」
* * *
一行は、白亜の橋を渡り、南エリスへ入った。
狼の姿になったおかげで、移動速度そのものはかなり速い。
ただし、全員が同じように快適だったわけではない。
「右、左、右、左……いや、右前、左後、左前、右後……?」
ケンタは時々ぶつぶつ言いながら走っていた。
「まだ考えてるのかよ」
「考えないと足がからまるんだ」
「からまるほど長くねぇだろ」
タクヤに言われながらも、ケンタは真剣だった。
以前ペガをめぐってひと騒動あった、レイブン族の砦の巨木も遠目に見えてくる。
その巨木を横目に通り過ぎ、さらに南下。
しばらく進むと、景色が大きく変わった。
ローズティア湖のゾーンである。
ゾーン境界付近には、わずかに陸地がある。
だが、それ以外はほぼ全面が水に覆われた湖ゾーンだった。
水面は広く、空を映して静かに揺れている。
『南の密林』は、この湖の東隣になる。
「よーし、舟が出るぞー!」
さっきまで足の運びに苦労していたケンタが、急に元気よく叫んだ。
この湖には、海のような定期船があるわけではない。
岸辺に小舟が放置されているだけである。
ただし、その小舟は親切設計だった。
乗れば自動で動き出し、先頭のプレイヤーが思った方向に進む。
つまり、漕がなくてもいい。
遭難しない程度には、世界が甘やかしてくれる。
「これで、トロットとかギャロップとか迷わないで済むなあ……」
小舟の先頭に乗ったケンタが、しみじみと言った。
「そりゃ馬だろ。ほんとに分かってるんか?」
タクヤが呆れる。
「四足歩行なら同じ原理だろ?」
「雑すぎるだろ、その理解」
「まあ、まあ、船頭さん、前見てね」
結が言った。
「おおっと!」
ケンタが慌てて前を向く。
岸の近くは浅瀬になっており、奇岩がいくつも水面から突き出していた。
小舟はそれを縫うように進みながら、東を目指す。
湖面を渡る風が、狼の姿になった一行の毛並みを揺らした。
「この辺は岸が崖になってるんだね。上がるのは無理かな?」
結が周囲を見回して言った。
ゾーン境界以外は、切り立った崖に囲まれている。
移動できるのは、水の上だけだった。
崖の上にも樹木の緑は見える。
だが、そこに踏み込む方法はなさそうだった。
「ランダム・テレポートで高低差バグを使えば行けるかもしれん」
ケンタが少し考えてつぶやいた。
「やめとけって」
タクヤが短く言った。
「もう見えてきたぞ」
小舟の前方に、低くなった岸が見えてきた。
その先に、昼でも薄暗い密林が口を開けていた。
* * *
昼なお暗い密林だった。
鬱蒼と茂った樹木が、ぶつかり、捩れ、絡まり合っている。
さらに、その樹皮の上をツタ植物が覆い隠し、幹と幹の境目さえ曖昧にしていた。
陽光は、頭上の葉に砕かれて届く。
湿った空気は重く、足元には腐葉土の匂いが沈んでいる。
そこはさながら、緑の海の底だった。
一行は、すでに『ウルフ・フォーム』を解いて人型に戻っていた。
「ふー、やっぱ二足の方が落ち着くな」
ケンタが腰を伸ばしながら、辺りを見回した。
四本足の混乱から解放されたせいか、表情には少しだけ余裕が戻っている。
「じゃあ、代わりに『狼の魂』を全員にかけますねっ」
チコリがニッコリ笑って、二足のまま移動速度を上げるバフを全員に配っていく。
「で、ここのお邪魔モンスはなんだっけ?」
EOFの各ゾーンには、ほとんどの場合、そこの適正レベル帯では太刀打ちできないモンスターが配されている。
アナウンス担当GMのサイゴードン曰く、「冒険にはスリルというスパイスが必要だ」とのことだが、低レベルプレイヤーしかいない初期の頃は、単なる嫌がらせだった。
「なんか虫だった気がするな」
タクヤが周囲を警戒しながら答えた。
「セレノス・サンダー・ビートルみたいなやつ?」
「いや、もっとデカくてうるさかったような……」
ブウウウウウン!!
「そうそう、そんな感じ――なにっ?!」
頭上に、多数の羽音が響いた。
葉の天井が震える。
湿った空気そのものが、巨大な羽音にかき回されているようだった。
「きゃ!」
チコリの悲鳴が上がった。
急降下してきた何かが、彼女の身体を横から跳ね飛ばしたのだ。
「チコリ!」
「なに!? メガでっかい!」
鬱蒼と茂った葉の隙間から、赤と青の個体が見え隠れする。
羽は速すぎて形を捉えられない。
ただ、太い脚と、針のような何かが一瞬だけ見えた。
「チコリちゃん、大丈夫?」
結が駆け寄り、倒れたチコリの様子を確認する。
一撃を受けただけで、チコリの右腕は赤紫に腫れ上がっていた。
パーティで共有されているステータス欄に、緑色の液体を垂らすフラスコのデバフアイコンが並ぶ。
さらに、HPゲージが緑に点滅し始めた。
次の瞬間、そのゲージがガクガクと急降下を始める。
「やばい、毒だ!」
ケンタが慌てて祈りを捧げる。
「キュア・ポイズン!」
デバフアイコンは一瞬だけ揺らいだ。
だが、消えない。
「くそう、消せない……毒のレベルが高いのか?」
チコリのHPゲージは、まだ減り続けている。
「グレーター・ヒール!」
ケンタはすぐに回復魔法を重ねた。
とりあえず、HPだけでも戻す。
だが、緑色に染まったゲージは、また急速に短くなっていく。
「生命の讃歌!」
タクヤも遅延ヒールを飛ばした。
時間ごとに少しずつ回復するタイプの魔法で、毒による継続ダメージとの相殺を狙ったのだ。
ケンタもさらにヒールを重ねる。
ようやく、ゲージの減少が少しだけ緩やかになった。
「囲まれたな……」
タクヤが低く言った。
唸る羽音が、辺りの空気を震わせている。
身体まで振動するような圧迫感だった。
密林の気温が、さらに上がった気がした。
それでも、ケンタの首筋には冷たい汗が流れていた。
* * *
「チコリ! ホームポイントはどこだ? 神殿の近くなら、駆け込めば……」
ケンタが叫ぶ。
だが、結はチコリを抱きかかえたまま、首を振った。
「ダメだよ。痛みで気を失ってるみたい」
チコリの顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。
呼吸は浅く、右腕の腫れはさらに広がっていた。
「それより、コンプリートなんとかは使えないの?」
「あれはエレネが同じゾーンに居ないと使えないんだ」
ケンタは唇を噛み、考え込む。
「他に何か……何かないか……」
「チコリは俺がみる。結ちゃんはアイツらを落としてくれ」
タクヤが駆け寄り、チコリのそばに膝をついた。
「あ、はい」
結はようやく気がついた。
ここにいるのは、ヒーラークラスが三人。
そして、ハンターの自分。
戦闘で前に立つのは、自分しかいない。
鬱蒼と茂った葉の天井。その向こうで、赤と青の巨体が何匹も旋回している。
だが、まともには見えない。
羽音だけがある。
湿った空気を震わせ、頭の奥まで痺れさせるような羽音。
結は目を閉じた。
視界を捨てる。
代わりに、耳を澄ます。
葉擦れ。
チコリの浅い息。
ケンタの祈り。
タクヤの低い詠唱。
そして、その上を乱暴に切り裂く羽音。
「――そこっ!」
結は弓を引き、湿った空気を震わせる音へ向けて矢を放った。
矢は葉の隙間へ吸い込まれる。
「ギュイイイィ!」
耳障りな異音が密林に弾けた。
羽根の根元を貫かれた昆虫――巨大な蜂が、枝葉をへし折りながら落下してくる。
頭から胸にかけては暗い青。
腹から下は、毒々しい赤。
まるで、森の中でこぼれた炭酸の悪夢だった。
「次っ!」
結は集中して、弓を引き続けた。
見えなくてもいい。
音がある。
風の乱れがある。
羽音の奥に、狙うべき一点がある。
結は呼吸を細くし、次の矢をつがえた。
* * *
「毒返しの呪!」
タクヤがシャーマンのまじないも試す。
だが、チコリのステータス欄に並ぶ緑の毒アイコンは、ぴくりとも動かなかった。
「くそ! この毒アイコン、揺れもしねえ」
タクヤとケンタ、レベル最大のヒーラーが二人もいる。
回復力だけなら、まだ余裕はあった。
ケンタが『グレーター・ヒール』を重ね、タクヤが『生命の讃歌』を維持する。
チコリのHPゲージは、削れては戻り、削れては戻る。
「このまま回復で持たせて、効果時間切れを待つしかないか……」
「ダメだ……待てねぇ」
タクヤが低く言った。
パーティに共有されたHP、ソウル、スタミナのゲージ。
チコリのHPには、まだ余裕がある。
だが、ソウルゲージは残りわずかで、か細く脈打っていた。
「HPが満たされていても、魂が持たねえぞ」
そう告げると、タクヤはチコリの腫れ上がった腕に顔を寄せた。
「タクヤ?」
ケンタが目を見開く。
毒を吸い出すつもりなのだ。
(ゲームでそんなことをしても……)
一瞬、否定の言葉が頭をよぎった。
だが、ケンタはすぐに頭を振る。
(いや、違う。できることは試すべきだ)
ケンタは自分のステータス窓を開いた。
『キュア・オーバーレヴ』も、『コンプリート・キュア・オブ・ジ・エンド』も使えない。
婚姻相手のエレネが同じゾーンにいないからだ。
指輪を多重装備してバグらせても、それをステータスに反映できなければ意味がない。
(婚姻バグとゾーン以外に、ステータス更新が走る処理があれば……)
ケンタはインベントリから、いくつかのWIS指輪を取り出して重ねた。
視界の端を注視する。
そこには、自身の各種ゲージとバフアイコンが浮かんでいる。
順に触れてみる。
【HPゲージ】変化なし。
【ソウルゲージ】変化なし。
【スタミナゲージ】変化なし。
【狼の魂】外せる。
【女神の騎士の加護】外せない。
【ホーリーシンボル】外せる。
バフアイコン欄には『女神の騎士の加護』だけがぽつんと点灯している。
だが、ステータス更新は起こらない。
「くそ……」
ケンタは小さく吐き捨てる。
その頭上で、羽音が唸った。
「――そこっ!」
結の矢が、葉の向こうへ飛ぶ。
赤と青の巨体が悲鳴を上げ、枝を折りながら落ちてきた。
それでも、羽音はまだ消えない。
(あとは、水に入った時だけ出る呼吸ゲージとか……)
ケンタは周囲を見回した。
腐葉土。
絡み合う根。
池も川もない。
(なければ出せばいい)
ケンタはインベントリから一本の青い杖を取り出した。
―――――――――――――――――
【ブルー・アクア・ロッド】
使用効果:大量の水を入排出する。
―――――――――――――――――
『魔女の大釜』の水が、まだ内部に残っているはずだった。
ケンタは近くの窪地へ杖を向ける。
ごぼり、と音を立てて水が吐き出され、腐葉土を押し流す。
たちまち、小さな池ができた。
ケンタは池の縁に膝をつき、顔を水へ突っ込んだ。
視界の端に、呼吸ゲージが浮かぶ。
ステータスは変わらない。
顔を上げる。
呼吸ゲージが消える。
やはり、変化はない。
「ダメか……いや、まだだ」
ケンタはもう一度、水に顔をつけた。
呼吸ゲージが減っていく。
短くなり、ついに尽きる。
息苦しさが胸を締めつける。
次の瞬間、HPゲージがわずかに削れた。
ケンタは顔を上げる。
「ぷはっ!」
濡れた前髪を振り払い、すぐにステータス窓を見る。
「ダメか……」
ステータス窓に変化はない。
だが、微かな違和感があった。
(なんだ? 何かが変だ……)
ケンタは、ゲージとアイコンの列を眺めた。
何かが、引っかかる。
やがて――。
ケンタは気づいた。
たったひとつの仕様の隙間に。
「見つけた!」
濡れた顔のまま、ケンタは立ち上がった。
「ソリューションがあったぞ!」
* * *
「タクヤ、キャンセル・マジック系のまじないあったよな?」
ケンタが顔を上げて言った。
「あるけど、あれじゃ毒は消せないぞ」
「消すのは毒じゃない。『狼の魂』を消すんだ」
「よくわかんねえが……わかった」
タクヤは疑問をひとまず脇へ置き、短く詠唱する。
「解呪の祝詞!」
キャンセル・マジックと同じ効果を持つ、シャーマンのまじないである。
チコリのバフ表示欄から、『狼の魂』のアイコンがすっと消えた。
「次は毒霧をかけてくれ。なるべく弱いやつな」
「毒霧? チコリにか? 勘弁してくれよ……」
タクヤは眉を寄せ、即座に首を振った。
すでにチコリは猛毒に侵されている。
そこへさらに毒を重ねるなど、正気の沙汰ではなかった。
「頼む! 今は俺を信じてくれ!」
その間にも、チコリのHPはじりじりと削れていく。
ケンタがヒールで押し戻すが、緑に染まったゲージはまた少しずつ短くなっていった。
タクヤは一瞬だけ目を閉じる。
そして、息を吐いた。
「わかったよ。でも弱くする方法は知らんぞ」
「小声で唱えるといいって『バグ活』には載ってたぞ」
「そんな民間療法みてえな攻略記事を信じるのかよ……」
タクヤは肩をすくめた。
だが、もう迷っている時間はない。
「毒霧……」
ほとんど囁くような声で、タクヤがまじないを唱える。
チコリのバフ表示欄に、新しい緑色のアイコンが灯った。
『毒霧』
その後ろには、相変わらず毒々しい色で居座るアイコンがある。
『ヘブン・ホーネット・デッドリー・ポイズン』
「よし、これで準備完了だ」
ケンタは濡れた前髪をそのままに、両手を組んだ。
「マス・キュア・ポイズン!」
「おいおい、それは複数一括解除だが、効果は普通のキュア・ポイズン以下のやつだろ……」
タクヤが怪訝な顔をする。
だが、次の瞬間。
その表情が固まった。
チコリのバフ表示欄に、何もない。
さっきまで居座っていた『毒霧』も。
あれほど頑固に消えなかった『ヘブン・ホーネット・デッドリー・ポイズン』も。
跡形もなく、消えていた。
「嘘だろ? 夢でも見てるのか俺……」
「夢じゃないさ、バグだ」
ケンタが短く答えた。
「複数解除魔法は、最初のアイコンでだけ成功判定されるバグがある」
ケンタはニヤリと口の端を上げる。
「つまり、『毒霧』の判定で『ヘブン・ホーネット・デッドリー・ポイズン』も剥がれるってわけさ」
チコリのHPゲージが、ようやく安定する。
緑の点滅も消え、呼吸も少しずつ穏やかになっていった。
その顔色が戻り始めたのを見て、タクヤは深く息を吐いた。
「相変わらずのイカサマ野郎だな」
「いやあ、そんなに褒めるなよ」
「褒めてねえぞ? やれやれだぜ」
* * *
「もうひとーつ!」
結が放った矢が、葉の隙間へ吸い込まれる。
それが、最後の一矢となった。
ギュイイイィ、と甲高い異音を残して、赤と青の巨体が枝をへし折りながら落下する。
羽音が止んだ。
辺りが、ふっと静寂に包まれる。
だが、それは錯覚だった。
巨大な羽音に押し潰されていた密林の音が、少しずつ戻ってくる。
風が樹々を揺さぶる音。
葉と葉が擦れ合う音。
どこか遠くで鳴く鳥の声。
足元の腐葉土を、小さな生き物が這う気配。
結は弓を下ろした。
ハチの撃墜に集中し過ぎて、頭の奥がぼーっと霞んでいる。
数拍遅れて、ようやく思い出した。
「あ! チコリちゃん大丈夫?」
我に返った結は、慌てて仲間たちの方へ駆け寄った。
「大丈夫だ。落ち着いたぜ」
タクヤが、チコリを両手で抱えて立ち上がったところだった。
チコリの顔色は、まだ少し悪い。
だが、さっきまでの苦しげな呼吸は治まり、表情も穏やかになっている。
「わあ、よかった!」
結はチコリの顔を覗き込み、胸をなで下ろした。
「蜂も片付いたようだな。じゃあ、帰るとしますかね」
タクヤが周囲を見回しながら言う。
その時だった。
「待ってくれ、こいつらからコーラの匂いがする」
青と赤の蜂の死骸を漁っていたケンタが、妙に真剣な声を上げた。
「おお、コーラの実がドロップしてる!」
ケンタは小さな実をつまみ上げる。
黒みがかった実から、甘くて薬草めいた香りがほのかに漂っていた。
「ケンタも……よかったね」
結が苦笑いを浮かべる。
チコリの無事と、ケンタの目的達成。
どちらもよかったのは確かだった。
だが、ケンタはその実を鼻先に近づけ、少しだけ眉をひそめた。
「でも、この香り、ヘブンの方っぽいんだよなあ」
「ほら、やっぱりザックリじゃねえ」
「だね……」
そんな一同の前を。
ブウウウンッ……。
一匹の蜂が、ゆっくりと横切った。
その体は、赤と白。
ケンタが探していたコケ・コーラの色そのものだった。
蜂はそのまま、密林の奥へと消えていく。
(沈黙)
「今の! 赤と白だった!」
ケンタが叫んだ。
「俺たちの戦いはこれからだ!」
「やれやれだぜ……」
(おわり)
――閑話:それは黒くて素敵な飲み物 あとがき
最後まで読んでくださって、ありがとうございます!
元気が取り柄のドルイド娘、チコリですっ!
次回の『マジチー』は、本編を来週火曜日のお昼頃に投稿予定です。
なんだか、オオオニ組のみなさんが大変なんだってー。
そちらも読んでもらえると嬉しいでっす!
もし少しでも楽しんでいただけたなら、ブクマや★で応援してもらえると、とっても励みになります!
それにしても。
コーラの実を取りに行くだけの、簡単なお仕事だと思ってたんですよ。
なのに、まさかあんなメガでっかい針に刺されることになるなんて……。
ここだけの話、私、注射が苦手なんですっ。
健康診断で採血の針を見ただけで、目の前が真っ暗になっちゃうくらいで……。
……あれ?
今回も真っ暗になってましたね?
えへへ。笑えないやつでした。
でもでも、ケンタさんたちって本当にすごいんですね。
毒を治すために、あえて毒をかけるなんて、普通思いつきませんよね。
毒を以て毒を制す、ってやつでしょうか?
それと、えっと……。
タクヤさんに、お姫様抱っこ……。
……また、気を失いそう……。
ぱたり。
――チコリ




