家主の名前はシルバニア
署を出ると、俺たちはもらった地図を頼りに転落場所に向かった。
「ええと、橋に繋がる曲がり角の目印が――」
手書きで「大きな赤い屋根のお家」と書かれていて困り果てた。
どれも同じ大きさにしか見えないんだけど。
「赤いのはあそこだけだ。サイズも両隣に比べると窓一つ分広いので、相対的に大きいと判断したんだろう」
「ありがとう。助かった」
いい加減上手くやれば良いのに、ちょっとしたことで引っかかってしまう要領の悪い自分が恨めしい。
二十分ほど歩いた先にある橋は、船着き場より上流にあった。
「近くにあるのは住宅街だけで、店や事務所のようなものは無いな。家に招かれてヒ素を飲ませられたか、路上で盛られたとか?」
「何故だ?」
「検死の結果は溺死だったんだ。酔っていたわけじゃなくて、ヒ素で朦朧として橋から落ちて毒で死ぬ前に溺死したと考えるのが妥当だろ」
「……もしかして君は、ヒ素を飲めばすぐに死ぬと思ってやしないか?」
「違うのか?」
「最初に確認しよう。ヒ素について知っていることを言ってみろ」
「無味無臭の毒」
「急性中毒と慢性中毒があることは?」
ぽかんとした顔で見上げると、ヴィクトルは小さく笑った。
「一度に致死量を飲めば急性中毒になり、想像している通り間を置かずに死ぬ。だが少量を長期間投与すれば死なないが寿命が縮まる」
「死なないのか!?」
「慢性中毒の症状として代表的なのが皮膚障害だ。実物を見たことは無いが、亜砒酸の採掘が盛んなドイツで書かれた論文を訳したことがある。それなのにザ・ミリオンどころかタイムズやモーニング・クロニクルまでもが、オカルトのように取り扱っていたので情報提供したんだ。まったくもって嘆かわしい」
「マジか……」
「ああ。もしヒ素が死因に関係しているとすれば、中毒症状である貧血でふらつき、筋力低下で溺れたくらいだろうな」
俺は「本当に翻訳家だったのか」という意味で呟いたのだが、ヴィクトルは別の意味に受け取ったらしい。
*
川沿いの道を十五分ほど歩くと、小売店や事務所が建ち並ぶ区画に到着した。
件の女性が経営しているコーヒーハウスは一階が店舗で、二階が会計事務所になっていた。
店の入り口に置かれた植木鉢は手入れされた花が美しく咲き、手前の道は掃き清められて窓も綺麗に拭かれている。とてもではないが男を飼っている女性の店には見えなかった。
(いや、飼ってるわけじゃないんだったな。面倒見が良い人だから、つけ込まれたのかも)
扉を開けると、カランカランとベルの音が鳴った。
「うっ」
焙煎した豆の香りがぶわりと襲いかかってきてクラクラした。
煙草もだが、人によって評価が分かれる匂いだ。俺は苦手。
「いらっしゃいませ」
声の主はカウンターの向こうにいる女性だった。三十代と思しき見た目で、飲食店で働いているからか清潔感があり、おちついた佇まいだ。
恋愛に刺激を求めるタイプには見えないが、縋られたら絆されそうではある。
「すみませんが、客じゃないんです。マリアさんでしょうか?」
「はい、そうですが……。そちらは?」
客では無さそうな二人連れに、マリアさんの声に警戒が滲んだ。
「ロンドン警視庁のモーリスです。捜査にご協力いただきたいのですが」
「営業時間に押しかけて無料で協力しろとは、ずいぶん横暴だな」
「なんだよ、いきなり。捜査への協力は市民の義務だろ」
「その根拠は? 何法の何条に記載されているんだ?」
「……知らないけど」
「なら今覚えろ。法的な強制義務はない。すべて任意だ。だから僕たちは、彼女の貴重な時間を頂戴する代わりに、相応の礼をすべきだ」
一方的に俺をやり込めたヴィクトルは、さっと席に着くと「適当な飲み物とケーキを二人分。支払いは彼が」と言い放った。
取り残された俺といえば、味方とは言えないが、まあそんな関係だったはずの相手に、突然背後から切りつけられたような心境だ。
「おい待て。勝手に決めるな」
「こういう時の捜査協力費だろう」
「そんなものないんだけど」
あるのかもしれないけど、少なくとも俺は使わせてもらったことはない。交通費は後で精算してくれるはずだけど、飲食は認められる気がしない。
「では普通に客として代金を払えばいい。こういう時は、ごちそうさまと言うんだったか……?」
「ちょ、おまっ金持ちなのに、安月給の俺にたかるつもりなのか?」
「奢るかどうかに所得は関係ないだろう」
「いや、滅茶苦茶関係あるから。年齢で決めるにしても、俺の方が若いだろ絶対」
いくら老け顔でも、その外見で17歳以下ということはないだろう。
俺たちの会話に緊張がほぐれたのか、マリアさんは小さく吹き出した。
「すぐに用意するので、座っていてください」
席で待つよう言われたばかりなのに、ヴィクトルは立ち上がると興味深そうに店内を見て回った。
「そんなところでしゃがみ込んで、なに見てるんだ」
「ハエ取り紙がある」
「子供かよ。客の視界に入らないように隠してるんだから、見ないふりしとけ」
物陰に置かれていた丸皿の中には、紙が水に沈んでいた。
小まめに取り替えているようで、虫の死骸は浮いていなかった。
わしの時代は普通の家しかなかったけど、今は色々あるんじゃろ?
コラボ可愛いけど、シナモロールだけ「……え?」となった。




