メンチニキ警官
その日、俺は生まれて初めてローワー・バークに足を踏み入れた。
一生縁のない場所だと思っていたが、手汗でくしゃくしゃになったメモに「ローワー・バーク街12」と、書かれているのだから仕方がない。
ノッティングヒルとケンジントンの間に位置する、ロンドン西部の高級住宅街は気後れしてしまうくらい閑静で洗練されていた。
欠けたり経年劣化で凹凸していない煉瓦が敷きつめられた道は、馬車が余裕ですれ違えるほど幅広くて、意匠を凝らしたガス灯が等間隔に設置されている。
建ち並ぶ家は屋敷と呼ぶべき立派な建造物で、どの庭も職人に手入れされているのが素人目にもわかった。
つまり住む世界が違いすぎて、場違い感が半端ない。
ここに住む上流階級の方々に「小汚い小僧がここになんの用だ」と咎められやしないかと内心ドキドキしながら、番地を数えて目的の場所へと向かう。
職人の技が光る細工が施された真鍮製の呼び鈴を鳴らすと、ややあって人がやってくる気配がしたので姿勢を正す。
制服に皺が寄っていないか見下ろしたが、今見つけたところで短時間でどうにかできるものではないので腹をくくった。
下町出身の新人だが、これでも国の治安維持に携わる警察官だ。
童顔で身長も採用基準ギリギリだが、舐められるわけにはいかない。
これまた扉一枚で下っ端警官の年収が飛びそうなドアを開けたのは、ずいぶんラフな恰好をした男だった。
「どなたですか?」
「ロンドン警視庁のオリヴァー・モーリス巡査です。ヴィクトル・ブラッドリーさんでしょうか?」
「ええ」
兄貴より綺麗な人を初めて見た、というのが率直な感想だった。
そんな場合ではないのに、年齢も兄貴と同じくらいかなとか、いや綺麗なのはやっぱり兄貴の方で、この人は格好いいのかなんて馬鹿なことをつらつらと考えてしまう。
兄のラルフと俺は七歳差なので、同年代に見える目の前の男は二十代半ばだろう。
ブロンドのお手本みたいな、アンティークの金鎖のような髪色だ。
ちなみに俺は、シルバーと言うには輝きがない灰色の髪をしている。
白髪が目立ちそうにないので、年を取るほどお得。
逆に若くして白髪だと思われる可能性については考えないこととする。
頭半分ほど高い位置にある切れ長の瞳に怯みそうになるもグッとこらえて見返した。これは持論だが、野生動物も人間も目をそらしたヤツの負けだ。
たとえ金持ちで身長高くて顔が良い相手だろうと、負けてたまるか!
「突然お邪魔してすみません。少々お時間よろしいでしょうか?」
「構いませんよ。玄関で立ち話もなんですからどうぞ」
燃える闘魂をひた隠しにしながら下手に出れば、屋敷の主は二つ返事で了承した。
もし拒否されたらどうしようかと思っていたので、肩透かしを食らいながら家に上がる。
*
ヴィクトルは玄関から近い場所にある応接室に俺を案内すると、お茶を淹れてくると宣言して出ていってしまった。
メイドどころか執事がいてもおかしくない豪邸なのに、どうやらこの建物には彼しかいないようだ。
その不自然さに、じんわりと警戒心が首をもたげる。
立派な家に住んでいるのに使用人がいないなんて、よっぽど偏屈か、実は金に困っているか――はたまた犯罪がバレないように人を避けているか。
そこまで考えて、いやいや考えすぎだ小説じゃあるまいしと頭を振った。
警官だと名乗った俺をあっさり家に入れたのだから、最後の可能性は低いだろう。
完全に勘というか第一印象に過ぎないが、ヴィクトルが殺人犯だとは思えない。
だが万が一の可能性を考えて、上等な布が張られたソファには座らず、ドアの前で耳をそばだてた。
もし怪しい音が聞こえたら(どんな音かは知らないが)、先手を打ってやる。
目を閉じて、耳に意識を集中した。
カチャカチャと陶器が軽く触れあう音、水を注ぐ音、石炭に火をつけるためにレンジの扉を開閉する音……
宣言通りお茶の準備をしていることに安堵したのもつかの間、香ばしいを通り越した焼け焦げた臭いに部屋を飛び出した。
*
「うわっ!」
キッチンに飛び込むと、思わず声が出た。
どういうわけか煮炊きするためのレンジの扉から、炎がチロチロと――嘘だ、メラメラと顔を出している。
収まりきらずに出てきてしまっているなら、内部は激しく燃えさかっているはずだ。
「おや、待てずに来たのか。お茶を淹れる時間すら惜しいとは、よほどのせっかちか、相当忙しい仕事なんだな」
「いやいやいや! なんで平然としてるんですか! その火、明らかにおかしいですよね!」
燃料は石炭だ。薪ではないのだから、こんな焚き火のように燃えるわけがない。
「火力が増せば、湯を沸かす時間が短縮できると思って油をかけただけだ」
「嘘だろ!」
家事を手伝いたての子供だって、そんな真似はしない。
俺は鍋に水を汲むと、全く焦った様子のないヴィクトルを押しのけた。不満そうな顔をされたが、あのまま加熱し続けたら危険なのは火を見るより明らかだ。いやまあ、火はもう見ているのだが。
俺は背中に突き刺さる視線を無視して、気合いを入れて扉を開くと、素早く水をぶっかけた。
「煤煙すごっ……! いいレンジなんだから、あとでちゃんと掃除してくださいね。火の扱いすらままならないとか、どうやって生活してるんですか?」
住民が少ないからか空間こそ狭いものの、最新の密閉型レンジや氷を使った冷蔵庫など、庶民の家ではお目にかかれない設備が揃っている。
「普段は住み込みの使用人に任せている。今日は娘の結婚式で休みをとっているんだ」
「なるほど」
たしかに一日だけなら代わりを探す方が手間だな。
彼一人ならば問題なく過ごせたのだろうが、想定外の来客があり、時間を短縮しようとして危険な行為に及んだということか。
幸いにもケトルの中身は紅茶に適した温度になっていたので、ついでとばかりに最後までやってしまった。
*
応接室に戻った俺たちは、しばし無言でお茶を飲んだ。
部屋いっぱいにふくよかな香りが広がる。どんな香水よりも心に訴える香りだ。
しかし安い紅茶を飲み慣れている身からすれば、鼻が麻痺しそうで落ち着かない。
口をつけたティーカップは、卵の殻でできてるのかと思うくらい白くて薄くて軽いものだから、少し力加減を間違えたらあっけなく割れてしまいそうでヒヤヒヤする。
これ絶対高いやつ。
こうなると高いのも善し悪しだな、と胸の内でつぶやくと、こっそり正面に座る男を観察した。
俺とは骨格から違うのだと突きつけてくるような造形美。古今東西の美術品が集まる大英博物館にあるどんな彫像も彼には叶わないだろう。
トラウザーズにシャツを羽織っただけで、タイどころかベストすら着ていないにもかかわらず、不思議とだらしないとは思わない。
もし俺が同じ恰好したら、寝間着扱いされるに違いない。
そして「寝るならちゃんと着替えなさい!」と、兄貴に叱れるところまでがセットだ。
視線を感じたのか、手元を見つめていたヴィクトルがこちらを見たので心臓が跳ねた。
図らずとも見つめ合う形になってしまい、額にうっすらと汗をかいた。
顔がいい人の真顔は何とも言えない迫力がある。だが目は逸らさない。負けた気になるからな。
「僕は後ろめたいことなど一切無く、善良な市民として生きている」
「はい?」
美貌の持ち主は、大真面目な顔で宣言した。
「警察が訪ねてくる用事があるとすれば、先日の情報提供についてだろう。僕が言った通り、遺体からヒ素が検出されて、定期船のルート上で転落事件があったんだな」
「えっと、……はい。そうです」
満足げなヴィクトルに、俺は苦虫をかみつぶしたような顔になった。
言った通りの結果であったことが問題なのだ。
(どう切り出そう……)
やることは決まっているが、どうやってそこに持っていくか。
道中で悶々と考えたが結局今に至るまで良案は浮かんでいない。
「有益な情報に感謝しているだけなら、わざわざ家に訪ねてきたりはしない。警察はそこまで暇ではないからな。それに突然やってきたのも気になる」
もったいつけるように一口飲むと、ヴィクトルは音を立てることなくテーブルに白磁のティーセットを置いた。
「さしずめ僕は容疑者といったところか」
メンチニキはピクシブ百科事典にも載っているので大丈夫ですよね……?




