第二章 澄み透る感情と、カウントダウン
十一月に入ると、風は一気に冷たさを増した。
冬の大会が近づくにつれ、バドミントンの練習はもちろん、高校生としての現実――定期試験も迫ってきた。
「梅原くん……助けて……」
ある日の放課後、いつものように体育館に向かおうとした俺の袖を、山咲が弱々しく掴んだ。見ると、彼女の手には赤点で真っ赤に染まった数学の小テストの紙が握られていた。
「次の期末、一教科でも赤点取ったら、冬の大会の出場停止だって。顧問が言ってた……」
「お前、ベスト3目指すとか言いながら、勉強はノータッチだったのかよ」
「だって、数字見ると頭痛くなるんだもん……。お願い、梅原くん。また私に数学を教えて」
こうして、次の土曜日、俺たちはまた初めて会った図書館の自習室に集まることになった。俺たちは運よく、奥まった場所にある二人掛けの個別ブースを確保することができた。
「はい、これ。過去問と、出題傾向をまとめたノート」
俺が左手でルーズリーフを差し出すと、山咲は目を丸くした。
「うわ、すご……。これ、梅原くんが全部書いたの? 左手で?」
「あ。……まあな。リハビリ代わりに書いてたら、結構綺麗に書けるようになった」
右腕が動かなくなってから、俺は生きる意味を失い、ただノートに文字や数式を書き殴ることでしか、自分の存在を確認できなかった。それが、巡り巡って山咲の役に立っているのだから、人生は分からない。
「ありがと。よし、頑張る!」
私服の山咲は、白いざっくりとしたニットに、細身のデニムという大人びた格好だった。いつものギャルっぽい派手さは少し抑えられ、長い髪はクリップで一つにまとめられている。真剣な表情でノートに向き合う彼女は、まるでどこかのお嬢様のようだった。
「あの、梅原くん。このベクトルの問題なんだけど……」
山咲が身を乗り出してくる。ふわりと、あの電車の中で嗅いだ、甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐった。距離が近い。個別ブースという狭い空間のせいか、お互いの肩が触れ合いそうなほどだった。
「……ここは、公式をそのまま当てはめるんじゃなくて、まず図形として捉えるんだ。ここに補助線を引いてみろ」
「あ、そっか。ここに線を引くと、こっちの三角形と相似になるんだ?」
「そう。意外と物分かりがいいな」
「失礼だなー。私、やればできる子なの」
山咲は嬉しそうにペンを走らせる。その横顔を間近で見ながら、俺は彼女の手元に視線を落とした。白い、細い指先。バドミントンのラケットを握るため、手のひらには小さなマメができている。あんなに必死に練習しているのに、その手はどこか儚げで、強く握れば折れてしまいそうだった。ふと、山咲がペンを止め、自分の左手首をさすった。あの大会の帰り道、俺が力任せに掴んでしまった場所だ。赤い痕はもう消えているはずなのに、彼女は時折、そこを愛おしそうに触る癖がついていた。
「……まだ、痛むか?」
気になって、声を低くして尋ねた。
「え? ああ、これ?」
山咲は手首を見つめ、それから俺を見て、いたずらっぽく微笑んだ。
「ううん、全然。ただね、ここを触ると、梅原くんが助けてくれたときのこと思い出すの。……あ、勘違いしないでね。恋とかそういうのじゃなくて、あ、私には強力な味方がいるんだなーって、安心するっていうか」
「そうか」
俺は短く答えて、教科書に目を戻した。胸の奥が、ほんの少しだけチクリと痛んだ。甘い好意は一切含まれていない。彼女は俺を「戦友」として、あるいは「ビジネスパートナー」として信頼している。分かっている。俺だって、彼女に恋をしているわけじゃない。右腕を失った俺に、もう一度バドミントンに関わる理由をくれた、大切な相棒。それだけだ。
「梅原くん」
山咲が、静まり返った自習室で、ひときわ小さな声で呟いた。
「なに」
「私ね、冬の大会だけじゃなくて……。来年の夏、インターハイに行くまで、ずっと梅原くんに私のこと手伝ってほしいな。ずっと、一緒にバドミントンしよ?」
窓の外では、十一月の冷たい夕暮れが、街を灰色に染め始めていた。山咲の言葉は、確かな未来を約束するような、優しく、そしてどこか祈るような温かい響きを持っていた。
「……ああ。お前が望むなら、どこまででも付き合うよ」
俺がそう言うと、山咲は今日一番の、眩しい笑顔を見せた。
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十二月。いよいよ冬の大会が今週末に迫っていた。
体育館の空気は冷え切り、吐く息は白い。ラケットを握る手がかじかむような寒さの中、山咲の仕上がりは最高潮に達していた。
「ラスト一本!」
俺の声に合わせて、山咲がコートの奥から前線へとダッシュする。左手で放った鋭いノックに対し、彼女は完璧なフットワークで追いつき、シャトルをスマッシュの軌道で叩き落とした。パンッ! と乾いた音が、無人の体育館に響き渡る。
「……よし。完璧だ」
俺が言うと、山咲はその場に膝をつき、激しく肩を上下させた。
「はぁ、はぁ……やった、今の、取れた……!」
「ああ。足の運びも、打点も文句なしだ。これなら、ベスト3どころか、優勝だって狙える」
俺がタオルを投げ渡すと、山咲はそれを頭からかぶり、小さく笑った。
「優勝かぁ……。そこまで言ってもらえるなんて、あの夏の日には思ってもみなかったな」
図書室で、生きる屍のようだった俺に、山咲がペンを拾ってくれて話しかけてくれ、「練習に付き合って」と声をかけたあの日。あの日から、俺たちの世界は回り始めた。動かない右腕を呪うだけだった俺の左手は、今や彼女を勝利へと導くための最高の武器になっていた。
「山咲、体調は大丈夫か? 最近、ちょっと顔色が悪い気がするけど」
気になっていたことを口にした。ここ数日、練習の後半になると、山咲の呼吸が異常に荒くなったり、急に立ちくらみを起こしたりすることがあった。寒さのせいか、あるいは大会前のプレッシャーのせいかと思っていたが。山咲はタオルの中から顔を出し、いつも通りの明るい笑顔を作ってみせた。
「大丈夫、大丈夫! ちょっと寝不足なだけ。ほら、試験勉強も頑張っちゃったからさ」
「ならいいけど……。無理はするなよ」
「うん。ありがと、梅原くん」
山咲は立ち上がり、ラケットをバッグに片付け始めた。その背中が、なぜだかいつもより小さく見えて、俺は胸に奇妙なざわつきを覚えた。練習を終え、体育館の鍵を閉めて外に出ると、すっかり日は落ちていた。冷たい冬の風が、容赦なく俺たちの頬を刺す。駅へと続く夜道を、2人で並んで歩いた。
「梅原くん」
山咲が、ポケットに手を突っ込んだまま言った。
「ん?」
「私さ……もし、この大会で最高の結末を迎えられたら、梅原くんに言わなきゃいけないことがあるんだ」
「言わなきゃいけないこと?」
俺が聞き返すと、山咲は立ち止まり、街灯の光の下で俺を振り返った。
その瞳は、いつになく真剣で、そして――どこか悲しげに揺れていた。
「今はまだ言えない。言ったら、梅原くん、優しいから怒るか、泣いちゃうかもしれないから。だから、大会が終わったら、ちゃんと話すね」
冬の星座が、冷たく澄んだ夜空に輝いている。山咲の言葉の意味を、俺は測りかねていた。けれど、彼女の表情があまりにも切実だったから、俺はただ、短く頷くことしかできなかった。
「わかった。お前が最高のパフォーマンスをできるように、俺は最後までサポートするだけだ」
「うん。最高の相棒だね、梅原くん」
山咲は小さく笑い、再び歩き出した。彼女の歩幅に合わせて、俺も歩を進める。この数ヶ月、俺たちは確かに、世界の誰よりも強い絆で結ばれていた。
冬の大会当日、山咲はコートの上で完全に覚醒していた。透夜が授けた緻密な戦術と、修羅のごとき練習で磨き上げたフットワークを爆発させ、強豪校のシード選手たちを次々と圧倒していく。
「あの子、秋までベスト8だった山咲だろ!? 急に強くなりすぎだろ……!」
どよめく会場。鋭いスマッシュが決まるたび、山咲は真っ直ぐに透夜のいるベンチを見つめ、誇らしげにラケットを掲げた。かつて天才と呼ばれた透夜のバドミントンが、今、凛音の身体を通してコートで躍動している。2人の執念が実を結び、凛音はついに悲願の決勝進出を果たした。
しかし、歴史を塗り替える決勝戦を直前に控えたその時、透夜のスマートフォンが激しく震えた。画面に表示されたのは、母親からの着信。受話器の向こうから聞こえてきたのは、取り乱した母親の悲鳴のような声だった。
『透夜……っ! 彩華が、彩華が今、倒れて病院に運ばれたの……っ!』
「――え……?」
頭が真っ白になり、スマホを握る透夜の左手がガタガタと震え出す。右腕の事故以来、冷え切っていた家族の中で唯一優しく接してくれた最愛の妹の危機。すべてを目前にしながら立ち尽くす透夜の異変に、山咲はいち早く気づいた。
「梅原くん……? どうしたの?」
「山咲、すまん。……妹が、倒れた」
絞り出すような透夜の言葉を聞いた瞬間、山咲の瞳が大きく見開かれた。次の瞬間、彼女は透夜の左手を両手で強く包み込み、迷いのない、力強い声で告げた。
「行って、梅原くん! 決勝は私一人でも絶対に勝つ。だから、早く妹さんのところに行ってあげて!」
「でも、お前の決勝が――」
「約束したでしょ、インハイまでずっと一緒だって! ここで終わらせたりしない。だから、私を信じて行って!」
山咲の強い眼差しに背中を押され、透夜は体育館を飛び出し、妹が待つ病院へと走り出した。
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幸いにも、妹の容態は深刻なものではなかった。自転車での自損事故により、擦り傷と軽い打撲を負っただけで、命に別条はないと医師から告げられた。病院のベッドで「お兄ちゃん、ごめんね」と小さく笑う彩華の姿を見て、透夜は心の底から安堵した。
しかし、その安堵と同時に、胸を刺すような焦燥感が跳ね上がる。――山咲の決勝戦。
ポケットから取り出したスマートフォンの画面を見る。妹が倒れたという報せを受けてから、すでに1時間が経過していた。試合はもう始まっているか、あるいは、すでに終わっている。
「すまん、俺、行かなきゃいけないところがある!」
驚く母親の声を背中に聞きながら、透夜は病院の自動ドアを飛び出した。外はいつの間にか、冬の冷たい雨が激しく降り注いでいた。傘など持っているはずもない。透夜は顔を打つ大粒の雨も、濡れて重くなる制服も構わず、ただひたすらに体育館のある方角へと足を突き動かした。右腕の事故以来、ずっと自分の世界は止まっていた。それを強引に動かしてくれたのは山咲だ。彼女がいたから、俺はもう一度バドミントンと向き合えた。なのに、彼女が人生を賭けて挑む一番大切な舞台に、俺は隣にいてやることができなかった。
「間に合え、頼むから間に合ってくれ……っ!」
激しく息を乱し、冷たい雨に体温を奪われながら、透夜は全力で走り続けた。かつてコートで培った自慢のフットワークは、今、彼女のもとへ戻るためだけに爆発していた。息を切らし、ずぶ濡れの状態で体育館の重い扉を押し開ける。バァン、と湿った音が静かな館内に響いた。しかし、透夜が期待していたような熱気も、観客の歓声も、そこにはひとかけらも残っていなかった。メインアリーナの照明は半分以上が落とされ、薄暗い空間が広がっている。すでに大会の全日程は終了し、他校の選手たちも、運営のスタッフたちも、そのほとんどが撤収した後だった。冷え切った空気の中に、ただ静寂だけが溜まっている。その広い館内の片隅。ぽつんと置かれたパイプ椅子に、山咲が1人で座っていた。
ユニフォーム姿のまま、両膝を揃えて、小さく背中を丸めている。彼女の足元には、力なく転がったラケットと、そして『準優勝』と書かれた1枚の賞状が置かれていた。不戦敗ではない。彼女は、コーチである透夜のいないコートに立ち、たった1人で戦い、そして――負けたのだ。
「はぁ、はぁ、山咲……っ」
激しい呼吸の音とともに、透夜が床を蹴る足音が響く。ずぶ濡れのまま、水滴を滴らせて立ち尽くす透夜の気配に気づき、山咲はゆっくりと顔を上げた。いつもなら、すぐに「遅いよー、梅原くん!」と悪戯っぽく笑うはずの彼女の顔には、笑顔の欠片もなかった。長い睫毛が濡れているのは、雨のせいか、それとも。
「あ……梅原くん。妹さん、大丈夫だった?」
開口一番、彼女が口にしたのは、自分の敗北への悔しさではなく、透夜の身内を思いやる言葉だった。その優しさが、今の透夜にとっては、どんな責め苦よりも鋭く胸に突き刺さった。
「……ああ。軽い怪我で済んだ。すぐに戻りたかったんだけど、1時間も経っちゃって……本当に、ごめん」
透夜が絞り出すように謝罪の言葉を口にすると、山咲はしばらく黙ったまま、足元の賞状を見つめていた。やがて、小さく息を吸い込むと、パイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。一歩、また一歩と、雨に濡れて立ち尽くす透夜へと近づいてくる。そして、戸惑う透夜の胸元に、山咲はその小さな頭をぽつんと預けた。
「山咲……?」
驚く透夜の背中に、彼女の細い腕が回る。ずぶ濡れの制服なんてお構いなしに、凛音は透夜の身体を、壊れ物を扱うように優しく、だけど離さないように強くハグした。いつもクールで、理知的で、完璧な一軍のギャルだった彼女の身体が、今は小刻みに震えている。
「ううん……いいの。妹さんが無事で、本当によかった……」
透夜の胸に顔を埋めたまま、山咲の声が次第に湿り気を帯びていく。どれだけ過酷な練習にも弱音を吐かなかった彼女の目から、大粒の涙が溢れ出し、透夜の濡れた制服へと吸い込まれていった。
「でもね……寂しかった。コートに入ったとき、いつもあるはずの場所に梅原くんがいなくて……、私、どうしていいか分かんなくなっちゃって……」
ぎゅっと、透夜の背中を掴む凛音の指先に力がこもる。
「負けた……。負けちゃったよ、梅原くん……っ。せっかくここまで教えてもらったのに、私、1人じゃ勝てなかった……っ!」
張り詰めていた糸が切れたように、山咲は子供のように声を上げて泣きじゃくった。好意はない、これはビジネスライクな取引だ。そう言い張っていた彼女が、初めて見せた剥き出しの弱さと、涙。透夜は動かない右腕の代わりに、鍛え上げられた左腕をゆっくりと回し、泣き続ける彼女の背中を静かに抱きしめ返した。
「ごめん、山咲。俺が隣にいられなくて、本当にすまん……。でも、お前は弱くない。ここまで来られたのは、お前が誰よりも努力したからだ」
冷たい雨の音が響く体育館で、透夜の胸の温もりを感じながら、山咲はしばらく声を上げて泣いていた。やがて、少しずつ呼吸が落ち着きを取り戻すと、山咲は小さく鼻をすすり、透夜の胸からゆっくりと顔を離した。長いまつ毛には、まだ大粒の涙の名残が光っている。
「……ずるいよ、梅原くん。そんな風に優しくされたら、私、勘違いしちゃうじゃん」
山咲は濡れた顔をユニフォームの袖で拭い、いつものようなクールな、だけどどこかひねくれたような笑みを無理に作った。
「山咲……?」
「ねえ、梅原くん。私、前言ったよね。この大会で最高の結末を迎えられたら、言わなきゃいけないことがあるって」
彼女の瞳が、薄暗い体育館の照明を反射して、どこか儚げに揺れる。
「負けちゃったから、最高の結末じゃなくなっちゃった。……でもね、やっぱり言わせて」
山咲は、透夜の目を真っ直ぐに見つめた。冬の冷たい空気が2人の間に流れ込む。彼女は小さく息を吸い込み、意を決したように言葉を紡いだ。
「好き」
「え――」
その言葉に、透夜の思考が完全にフリーズする。学校一の美人で、男子たちの高嶺の花。ビジネスライクな相棒だと、お互いに線を引いていたはずの彼女からの、突然の告白。驚きで言葉を失う透夜を見て、山咲はふふっと少し照れくさそうに笑った。
「だから付き合って、でも条件があるの。……来年の夏、インターハイが終わるまでの期間限定。それでどうかな?」
「期間限定……? なんでそんな――」
「……だってさ」
山咲は透夜の言葉を遮るように、一歩近づいて彼の左手を両手で包み込んだ。彼女の手は、驚くほど冷たかった。
「えと……お互い、来年の夏には進路とかで忙しくなるでしょ? だから、その間だけでいいから、梅原くんの『一番特別な女の子』にしてほしいの。それなら、お互いビジネスとしても、悪い取引じゃないでしょ?」
ギャルっぽく、どこかおどけた調子で、山咲は「取引」という言葉を使った。けれど、彼女の包み込んでくる手は、かすかに震えている。透夜には、彼女がなぜ「期間限定」なんていう寂しい条件をつけるのか、その本当の理由が分からなかった。ただ、不器用な彼女なりの、照れ隠しの境界線なのだろうと、そう解釈した。右腕を失って、すべてを諦めていた自分に、もう一度生きる意味をくれた少女。今、目の前で泣きじゃくり、自分を求めてくれている、愛おしい少女。断る理由なんて、最初からどこにもなかった。
「……わかった。取引、成立だ」
透夜はふっと微笑み、包み込まれていた左手で、今度は山咲の手をしっかりと握り返した。
「期間限定なんて寂しいこと言わなくても。夏のインハイで頂点を取って、その先も、ずっとお前の隣にいるから」
未来を信じて疑わない透夜の真っ直ぐな言葉に、山咲は一瞬だけ、胸を突かれたように目を見開いた。そして、今度は涙ではなく、あの夏の図書室で出会ったときのような、最高に眩しい笑顔を咲かせた。
「うん。……ありがとう、梅原くん。これからよろしくね」
外では、激しい雨が静かに降り続いていた。二人が交わした、期間限定の恋人という約束。それが、もう来年の夏を迎えることすら許されないかもしれない、残酷な砂時計の上に乗っかっているものだとは、透夜はまだ、何も知らなかった。
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冬の大会から数週間が経ち、街は一気にクリスマス一色に染まっていた。あの日、雨の体育館で「期間限定の恋人」という歪な、だけど特別な約束を交わした俺たちは、今日、初めてのデートを迎えていた。駅前の待ち合わせ場所に現れた凛音は、いつにも増して特別だった。白いファーのついたコートに、ボルドーのチェックスカート。緩く巻かれた髪からは、あの自習室で嗅いだ甘いシャンプーの香りに、ほんの少し大人びた香水の匂いが混ざっている。
「お待たせ、透夜くん。……あ、びっくりした? 女の子の冬の気合い、舐めないでよね」
待ち合わせ場所に立つ俺を見つけるなり、彼女は悪戯っぽく笑って駆け寄ってきた。――そう、俺たちは付き合うことになってすぐ、お互いを下の名前で呼ぶことに決めた。最初は「山咲」「梅原くん」と呼び合っていた指先の距離が、名前を変えた瞬間に、ぐっと心臓の近くまで手繰り寄せられたような気がした。
「……いや、すごく、似合ってる。可愛すぎて、ちょっと直視できない」
「ふふ、合格! 正直でよろしい」
凛音は嬉しそうに目を細めると、躊躇うことなく俺の左腕に自分の腕を絡めてきた。ずぶ濡れの体育館でハグした時とは違う、柔らかくて、確かな温もりがコート越しに伝わってくる。
「ほら、行こ? 今日は行きたいところ、たくさん予約してあるんだから」
恋人たちの喧騒に紛れながら、俺たちは冬の街を歩いた。映画を観て、お洒落なカフェでケーキをつつき合い、他愛のないクラスの噂話で笑い合う。コートの上で見せるあの修羅のような執念や、時折見せる冷徹なまでの横顔はどこにもなかった。今、俺の隣で笑っているのは、どこにでもいる、恋をする普通の女の子だった。
日が落ちると、街のイルミネーションが一斉に点灯した。青と白の光に照らされた並木道を歩きながら、俺たちは自然と、これからの話――来年の夏の約束について語り合っていた。
「冬の大会は悔しかったけど、次の夏は絶対に負けない。透夜の戦術を、私が100%で体現してみせるから」
「うん。冬のデータはもう全部分析し直した。春からの遠征で、新しいフットワークの形を身体に叩き込もう」
凛音は一瞬、足を止めてイルミネーションを見上げた。その横顔が、光の粒に照らされてどこか透き通るように儚く見える。
「うん……楽しみだな。透夜と一緒に、インターハイに行くこと」
「ああ、絶対に連れて行く。だから――」
俺は一歩踏み出し、絡めていた腕をほどいて、彼女の小さな右手を俺の左手でそっと包み込んだ。
「期間限定なんて寂しいこと、やっぱり無しにしないか、凛音」
ずっと胸に引っかかっていた言葉を、イルミネーションの光に紛れ込ませて口にした。「来年の夏まで」なんて、そんな短い時間じゃ足りない。俺の右腕は死んだけれど、俺のこれからの人生は、ずっと彼女の隣で、彼女を支えるために使いたい。本気でそう思っていた。
「夏が終わっても、その次の冬も、来年のクリスマスも。俺は、ずっとお前の隣にいたい」
真っ直ぐに伝えた言葉。しかし、それを聞いた凛音の身体が、一瞬だけびくりと強張ったのを、握りしめた左手を通して感じた。彼女の瞳から、一瞬にして光が消える。見上げた彼女の瞳の奥に宿ったのは、あの雨の体育館で見せたような、深い、深い絶望の色彩だった。
「……凛音?」
「――ダメだよ、透夜くん」
凛音は、搾り出すような声で静かに微笑んだ。その笑顔は、今にも消えてしまいそうなほど切なく、歪んでいた。
「約束、でしょ? 来年の夏まで。……それ以上は、契約違反になっちゃうから」
「なんでだよ。お前だって、俺のこと……」
「好きだよ。大好き」
凛音は遮るように、だけど今までにないほど愛おしそうに俺の名前を呼んだ。握りしめられた彼女の右手が、冬の寒さのせいだけではない強さで、ぎゅっと震えながら俺の左手を握り返してくる。
「大好きだから、夏までなの。……ごめんね、透夜くん。これ以上は、言えないの」
冷たい冬の風が、2人の間を吹き抜けていく。イルミネーションの光はこんなにも温かいのに、彼女の手は、まるで氷のように冷たかった。俺にはまだ、分からなかった。彼女がなぜ、こんなにも俺を愛おしそうな目で全否定するのか。そして、この「来年の夏まで」というリミットが、彼女が自分の命の終わりから逆算して、俺にくれた最初で最後の「我が儘」だったのだということに、俺が気づくのは、もう少し先のことだった。
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新しい年の幕開けは、雲一つない、冷たく澄み切った青空だった。元日の午後。俺と凛音は、初詣の参拝客でごった返す地元の大きな神社の境内にいた。
「透夜くん、お待たせ! ……うわ、そんなにじっと見ないでよ。慣れないから恥ずかしいじゃん」
人混みの向こうから現れた凛音の姿に、俺は思わず息を呑んだ。いつも緩く巻いている髪を綺麗にアップにまとめ、うなじを覗かせている。身にまとっているのは、淡いサクラ色の華やかな振袖だった。いつものギャルっぽい派手さは身を潜め、凛とした大人の女性のような美しさがそこにはあった。
「……かわいいな。着物、似合ってる」
「ふふ、ありがと。透夜くんにそう言ってもらえるのが、一番嬉しい」
凛音は少し頬を赤らめながら、そっと俺の左手を掴んだ。多くの人で賑わう境内。はぐれないようにと、お互いの指を絡ませて歩く。お参りを済ませ、おみやげの甘酒を2人で飲みながら、おみくじを引いた。
「あ、私は『吉』だ! 透夜くんは?」
「俺は『小吉』だな。……どれどれ、恋愛のところは……『思い通りにならぬこと多し。耐え忍べ』か。手厳しいな」
「あはは、何それ! でも大丈夫だよ。私の『吉』にはね、『信じる心が未来を開く』って書いてあるもん。私が透夜くんの分の運まで引っ張ってあげる!」
そう言って笑う凛音の笑顔は、冬の太陽よりも眩しかった。クリスマスデートの時に見せた、あの消え入りそうな切ない表情が嘘のようだった。俺は、彼女が「来年の夏まで」と言った理由を深く詮索しないことに決めていた。今、この一瞬、彼女とこうして笑い合えている時間を、何よりも大切にしたかったからだ。参拝客の波が少し落ち着いてきた夕暮れ時。俺たちは、本殿の裏手にある、樹齢数百年の大きな御神木が立つ静かな境内の片隅へと足を運んだ。表の喧騒が嘘のように、ここには静謐な空気が流れている。夕日が赤々と木々を染め、冬の冷たい風が凛音の振袖の袖を揺らした。
「……ねえ、透夜くん」
凛音が、御神木を見上げたまま、ぽつりと言った。
「ん?」
「私ね、今年の目標を決めたんだ」
「バドミントンでインターハイの頂点に立つことだろ?」
「うん。それもある。……でもね、もう一つ」
凛音はゆっくりと振り返り、俺の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、おみくじの時に見せた天真爛漫な明るさはなく、どこか神聖で、そして言葉にできないほど深い愛おしさが湛えられていた。
「大好きな透夜くんの記憶に、私を一生、焼き付けること」
「凛音……?」
「私がいなくなっても、夏が終わっても。透夜くんがいつか大人になって、別の誰かと出会って、おじいちゃんになっても……。私のことだけは、絶対に忘れられないくらいの、特別な存在になりたいの」
その言葉は、まるですべての終わりを見据えているかのような、悲しい決意に満ちていた。「いなくなっても」という言葉が、不吉な予感となって俺の胸をチクリと刺す。
「忘れるわけないだろ。お前は俺の最高の相棒で、……世界で一番大切な恋人なんだから」
俺がそう答えると、凛音は一瞬、泣きそうな顔をした。けれどすぐに、愛おしさが決壊したように微笑むと、草履の足で少しだけ背伸びをした。
「……じゃあ、もっと忘れないようにしてあげる」
ふわりと、サクラの香りが近づいてきた。驚いて目を見開く俺の視界が、彼女の長い睫毛で覆われる。重なったのは、驚くほど柔らかくて、そして冬の風にさらされて少しだけ冷たい、凛音の唇だった。御神木の陰、夕日に照らされた静寂の中で、俺たちは初めてのキスを交わした。右腕の動かない俺の身体を、凛音の細い腕がそっと包み込む。俺もまた、左手で彼女の細い腰を引き寄せ、その温もりを確かめるように、深く、優しく唇を重ねた。離れた唇を見つめ合う。凛音の頬は、夕日のせいだけではなく、真っ赤に染まっていた。彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「これでもう、一生忘れられないでしょ?」
凛音は、いたずらが成功した子供のように、涙を堪えながら笑った。
「ああ。死ぬまで忘れないよ」
俺は彼女の涙を左手の親指でそっと拭い、その小さな手をもう一度強く握り締めた。これが、2人で迎えた最初の新年。そして、凛音の命が少しずつ、だけど確実に終わりの冬へと向かう、残酷なカウントダウンの始まりの季節でもあった。彼女がその短い寿命の真実を、透夜に打ち明ける日は、すぐそこまで迫っていた。




