第三章 凛と咲く向日葵、スマホ越しの音
季節は流れ、桜の蕾が膨らみ始めた三月の終わり。
高校1年生としての1年がもうすぐ終わろうとする、進級を目前に控えた春休みのことだった。
冬の大会での悔しさをバネに、2人が約束した「来年の夏(高校2年生の夏)のインターハイ」へ向けて、部活の特別練習はさらに熱を帯びていた。その日の放課後、透夜はいつものように、凛音の練習メニューをまとめたノートを持って体育館へ向かっていた。しかし、体育館の扉を開ける前に、バドミントン部の部員が血相を変えて走ってきた。
「梅原! 山咲が……山咲が練習中に急に倒れて、今、保健室に運ばれた!」
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。冬の大会の時、彼女の呼吸が異常に荒かったことや、初詣の時に「記憶に一生焼き付ける」と言った不穏な言葉が、一気に脳裏をよぎる。透夜はノートを掴んだまま、廊下を猛スピードで駆け抜けた。保健室のドアを勢いよく開けると、白いカーテンの奥、ベッドの上に上体を起こした凛音がいた。
「あ……透夜くん。ごめんね、びっくりさせちゃって。ちょっとシャトルを追いかけすぎたら、立ちくらみしちゃっただけだから――」
いつものようにギャルっぽく笑おうとする凛音。しかし、その顔からは完全に血の気が引いており、唇は紫色に震えていた。まだ16歳の彼女の姿は、とても「ただの立ちくらみ」で片付けられるものではなかった。
「……嘘をつくな、凛音」
透夜はベッドの横に歩み寄り、彼女の小さな右手を両手で包み込んだ。初詣の時よりも、さらに冷たくなっている。
「冬の大会のときも、クリスマスも、初詣のときも、ずっとおかしいと思ってた。進路が忙しくなるから期間限定なんて、そんなの理由になってない。まだ俺たち、1年生だぞ……? 本当のことを、教えてくれ。何が起きてるんだ?」
透夜の必死な眼差しを受け、凛音はしばらく黙って視線を落としていた。やがて、諦めたように小さく息を吐くと、いつもの無理な笑顔を消し、ひどく静かな、淡々とした声で話し始めた。
「……不公平だよね。透夜くんは、事故っていう突然の不幸で未来を奪われたのに。私はね、生まれたときから、終わりが分かってたの」
「終わり……?」
「心臓の病気なの。少しずつ、心筋の機能が落ちていくの。昔から、お医者さんには『高校生まで生きられるかどうか』って言われてた。……だから、私の寿命は、もう長くないの。高校3年生まで、もつかどうか、なんだって」
カーテンの隙間から差し込む春の光が、凛音の透き通るような肌を照らしていた。あまりにも静かに告げられた現実に、透夜の思考は完全に停止した。
「私さ、ただ病室のベッドの上で、死ぬのを待つだけなんて絶対ヤダ。だから今を全力で楽しむの。学校で一番可愛いギャルになって、男の子たちを翻弄して、最高の思い出を作って終わりたかった」
凛音は少しだけ声を震わせ、透夜の手を握り返してきた。
「でもね、あの日、図書室で透夜くんに出会っちゃった。誰もが可哀想って目で私を見るのに、透夜くんだけは、私に勉強を教えてくれたし、バドミントンも教えてくれた、私の中身をちゃんと見てくれた。だから……君の隣にいたいって、生まれて初めて強く願っちゃったんだ」
だからこその、来年の夏までの「期間限定の恋人」という条件だった。自分が死んだ後、透夜が絶望して立ち止まってしまわないように。夏が終われば自然に離れる「相棒」のままでいようとしたのに、心が溢れて付き合ってしまった。
「ごめんね、透夜くん。本当は、最後まで隠し通すつもりだったのに。……私、来年のインターハイまでは、絶対に死なないから。だから――」
凛音の瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。
「最後まで、私のコーチでいて。私と一緒に、あの舞台に立って」
右腕の未来を失った少年と、最初から人生の終わりを知っている少女。16歳の2人の上に、残酷なカウントダウンが静かに鳴り響く中で、彼らは初めて、お互いの隠された傷のすべてを分かち合った。
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春が近づくにつれ、凛音の体調は目に見えて悪化していった。
少し前まではコートを縦横無尽に駆け回っていたフットワークは影を潜め、練習の途中で激しく咳き込み、床にへたり込むことが増えた。そしてついに、彼女は部活にさえ来られなくなってしまった。あ静まり返った病室のベッドの上で、凛音は透夜の左手を握りしめながら、号泣した。
「嫌だよ……っ、私、もっと透夜と一緒にバドミントンがしたかった……っ! なんで私の心臓、こんなに弱いのかなぁ……っ。まだ1年生だよ? まだインハイのコートにも立ってないのに……っ!」
いつも強がって、クールなギャルを演じていた彼女が、剥き出しの悔しさと恐怖をぶつけてくる。その涙が透夜の左手を濡らした。
「私さ、透夜の未来を奪った事故がずっと憎かった。だから、私の身体を使って、透夜の戦術が世界一だって証明したかったの……っ。なのに、私まで透夜を裏切っちゃう、約束、守れそうにないよ……っ!」
激しく胸を上下させ、泣きじゃくる凛音。透夜は何も言わず、動かない右腕の代わりに、鍛え上げられた左腕で彼女の華奢な身体を強く、強く抱きしめた。彼女の涙が、絶望のどん底にいた自分を救ってくれたのだ。今度は、自分が彼女の絶望を受け止める番だった。
「裏切ってなんかいない。お前は十分に戦ったよ、凛音」
透夜は彼女の耳元で、静かに、だけど腹の底から響くような声で告げた。
「お前の夢は、まだ終わってない。……俺が、終わらせない」
その日の夕方、透夜は重い足取りで自宅のドアを開けた。胸の奥には、病室で凛音を抱きしめた時の温もりと、ある一つの「狂おしいほどの決意」がドクドクと脈打っていた。リビングに入ると、キッチンに立つ母親と、ソファで新聞を読んでいた父親、そして頭にまだ小さな包帯を巻いた妹がテレビを見ていた。冬の大会の日、事故で軽い怪我を負った妹は、すっかり元気に過ごしている。
「ただいま」
透夜の声に、家族全員が振り返った。その表情には、かつてのように「腫れ物に触るような気まずさ」はない。冬のあの日、透夜が必死に病院へ駆けつけて以来、壊れかけていた家族の絆は少しずつ修復されていた。
「おかえり、透夜。ご飯もうすぐできるわよ」
母親が優しく微笑む。透夜はまっすぐに両親の前へと歩み進め、深く息を吸い込んだ。
「父さん、母さん。……話があるんだ」
そのただならぬ雰囲気に、父親が新聞を置き、母親も手を止めてリビングのテーブルに向き合った。
「俺、春の大会に出る。……選手として、コートに戻るよ」
「え……っ?」
母親が驚きに目を見開いた。父親も絶句している。右腕の神経が死に、選手生命を絶たれてから、生きる屍のようだった息子が、自ら「コートに戻る」と言い出したのだ。
「透夜、でもお前の右腕は……」
父親が心配そうに尋ねる。透夜はゆっくりと、自分の左手を握りしめて突き出した。
「右腕は動かない。だけど、俺の左手は生きてる。この数ヶ月、ノック相手をしがてら、ずっと左手でシャトルを打ってきた。……左一本でも、今の俺なら戦える。春の大会で優勝して、俺がまた、インターハイに行く」
それは、常識外れの無謀な挑戦かもしれない。左手一本で勝てるほど、高校バドミントンの世界は甘くない。だけど、やるしかなかった。未来を失った自分にバドミントンをさせてくれた凛音。今度は、命の期限を迎える彼女の代わりに、自分が彼女の夢を背負って戦う番だ。それだけが、彼女を絶望から救う唯一の方法だと確信していた。
「透夜……」
母親の目に、じわリと涙が浮かんだ。突き放したわけでも、諦めたわけでもない、息子の瞳に宿った「本物の光」を、両親は真っ直ぐに受け止めていた。
「わかった。お前がそう決めたなら、俺たちは全力で応援するだけだ」
父親が力強く頷き、母親も何度も涙を拭いながら微笑んだ。その時、それまで静かに話を聞いていた彩華が、弾かれたようにソファから飛び出してきた。
「お兄ちゃん……! 本当!? またお兄ちゃんの試合、見られるの!?」
彩華は目をキラキラと輝かせ、透夜の左腕に全力で抱きついてきた。
「ちょー嬉しい……っ! 私、お兄ちゃんがバドミントンしてるときが一番大好きなの! 絶対、絶対に応援に行くからね!」
無邪気に、心の底から大喜びする妹の笑顔。その温かさが、張り詰めていた透夜の心をふっと和らげた。
「ああ、ありがとな。絶対、優勝してくるよ」
透夜は妹の頭を左手で優しく撫でながら、窓の外の夜空を見つめた。冬の冷たい星座が輝いている。右腕の未来を失った少年と、人生の終わりを知っている少女。残された時間が確実にカウントダウンを迎える中、今度は透夜が「左手の天才」として、最愛の少女との最後の約束を果たすための、壮絶な挑戦が始まろうとしていた。
透夜の宣言から数日後。彼は放課後、真っ直ぐに病室へと向かった。これからは自分自身の特訓が始まる。
その前にどうしても、凛音に伝えなければならないことがあった。病院の白いドアを開けると、窓際のベッドに横たわる凛音の姿があった。部活を休んでからさらに痩せてしまった彼女の傍らには、あの冬の大会の準優勝の賞状と、愛用のラケットが寂しそうに置かれている。
「あ、透夜くん。……わざわざお見舞いなんて、ありがとね。私、全然平気だから――」
いつものように少しおどけて笑ってみせる凛音。けれど、その声にはかつての張りがなく、どこか弱々しかった。透夜はベッドの横のパイプ椅子に腰掛け、彼女のラケットをそっと左手で手に取った。
「凛音」
「え……?」
透夜は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、一文字一文字、決意を刻み込むように言葉を紡いだ。
「俺、春の大会に出る。選手として、コートに戻るよ」
「な……何言ってるの? 透夜くんの右腕は……」
「右腕は動かない。だから、左手一本で戦う」
透夜は自分の左手を強く握りしめて見せた。
「この数ヶ月、お前のノック相手をしながら、俺の左手はシャトルを打つ感覚をずっと覚えてきたんだ。お前が部活に行けなくなったって聞いた時、胸の奥が熱くなって、どうしても諦めきれなかった。……お前が代わりに連れて行ってくれるはずだったインターハイ、今度は、俺がお前を連れて行く」
「透夜くん……っ」
「俺が春の大会で優勝して、絶対にインハイの切符を掴み取る。だからお前は、その時まで絶対に諦めるな。病気なんかに負けるな」
常識外れの、無謀とも言える挑戦。だけど、透夜の瞳に宿る光は、あの日天才と呼ばれていた頃の、どの瞬間よりも鋭く、熱かった。凛音の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。彼女はか細い両手で自分の口元を覆い、声を殺して泣きじゃくった。
「嬉しい……っ、嬉しいよ、透夜くん……っ! 私、もう自分のせいで、透夜くんからバドミントンを二度と奪っちゃったんだって、ずっと自分を責めてたの……っ。なのに、また透夜くんが戦ってくれるなんて……っ」
「奪われてなんかいない。お前が俺に、もう一度ラケットを握る理由をくれたんだ」
透夜はそっと、涙を流す彼女の冷たい右手を、自分の生きた左手で包み込んだ。
「約束だ。俺たちの夏は、ここから始まるんだから」
「うん……っ、私、絶対に待ってる……っ! 応援に行くからね……っ!」
こうして、右腕を失った元・天才少年による、左手一本での前代未聞の挑戦が幕を開けた。病室に残された凛音の祈りと、自宅で大喜びして応援してくれる妹の声援を背負い、透夜は再び、あの熱気溢れるコートへと足を踏み出す――。
春の選抜大会の会場は、独特の熱気と緊張感に包まれていた。かつて「若き天才」ともてはやされ、1年生にしてインターハイ準優勝を果たした梅原透夜がコートに戻ってくる。その噂は瞬く間に広がり、観客席からは好奇と不躾な視線が突き刺さっていた。
「おい、マジかよ。梅原って右腕完全に壊れたんじゃなかったのか?」
「ラケット、左手に持ってるぞ……? 冗談だろ、左で打つ気か?」
周囲のざわめきを、透夜は冷徹なまでに無視した。右腕は、いまだジャージのポケットの中に静かに眠っている。しかし、その代わりに突き出した左手は、この数ヶ月、凛音のためにシャトルを放ち続け、彼女のフォームを観察し、ノートに数式を書き殴ってきた「生きた武器」だった。ピィー、と主審の笛が鳴り、
第1試合が始まった。相手はシード下の中堅選手。最初、相手は透夜の左手を侮り、右サイドを執拗に攻めてきた。左利きにとって、バックハンド側になる位置だ。しかし、その瞬間に透夜の自慢のフットワークが爆発した。
(山咲の弱点だった、右奥への一歩。俺の身体なら、こうだ!)
右腕が使えない分、遠心力のバランスを取るのが難しい。だが、透夜はあえて上体を大きく傾け、野生動物のようなステップでシャトルに追いついた。そして、鍛え上げられた左腕を一閃する。パンッ!鋭い金属音とともに放たれたクロススマッシュが、相手コートのライン際に突き刺さった。一瞬の静寂の後、会場がワッと大きな歓声に包まれる。
「嘘だろ……あのコースに、左手であの速度……っ!?」
相手選手が驚愕の表情で立ち尽くす。透夜の左手は、ただのリハビリの産物ではなかった。かつて右腕で培った「戦術眼」と「打点の見極め」、そして凛音の过酷な練習に付き合う中で無意識に磨き上げられていた「左の筋力」が、完璧な融合を果たしていたのだ。そこからの透夜の進撃は、まさに『左手の奇跡』だった。右腕が使えないという圧倒的なハンデを、誰も予測できない変則的なフットワークと、緻密に計算された配球でカバーしていく。
2回戦、3回戦、準々決勝――並み居る強豪たちが、透夜の左手から放たれる精密機械のようなシャトルに翻弄され、次々と崩れ去っていった。
「お兄ちゃん! ガンバ行けーーーっ!!」
観客席の最前列からは、頭に小さな包帯を巻いた彩華が、身を乗り出してちぎれんばかりに手を振っていた。隣には、涙を流しながら手を叩く父親と母親の姿もある。かつて自分の怪我によって壊れかけていた家族が、今、コートの上で戦う俺を命がけで応援してくれている。その声援が、疲弊していく左腕に何度も力を与えてくれた。そして、透夜はついに準決勝をも破り、いきなりの決勝進出という快挙を成し遂げた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
決勝戦のコート。相手は、かつて透夜が右腕だった頃にインターハイで死闘を繰り広げた、他校のライバルだった。相手は透夜の左手を一切侮らなかった。右腕が使えない弱点、バランスの悪さ、スタミナの消耗――すべてを冷静に突いてくる、容赦のない本物の王者のバドミントンだった。第1ゲームを先取され、第2ゲームを執念でもぎ取る。ファイナルゲーム、19対20。相手のマッチポイント。激しいラリーの末、相手の強烈なスマッシュが、透夜の動かない右腕の側――完全なデッドゾーンへと突き刺さった。反射的に身体を投げ出したが、左手は届かなかった。ピィーッ。
「ゲームセット、ウォンバイ……!」
主審の声が響き、透夜の春の大会は終わった。結果は、準優勝。あと一歩、本当にあと一歩で優勝には届かなかった。けれど、右腕を失った少年が、左手一本でいきなり全国規模の大会で準優勝を掴み取ったのだ。それは、誰もが「不可能だ」と笑った挑戦が、幸先順調どころか、世界を震撼させるほどの可能性を秘めていることの証明だった。汗まみれのまま床に膝をつく透夜。悔しさはあった。だけど、胸の奥には不思議なほどの充実感と、確かな手応えが燃えていた。
「凛音……見たか。俺は、まだ戦えるぞ」
大会から数日後。
春の冷たい雨はいつの間にか上がり、街には柔らかな南風が吹き始めていた。桜の木々が一斉にピンク色の花びらを咲かせ、世界を鮮やかに彩っていく。四月八日。高校2年生の始業式。俺は新しく新調した少し大きめの制服に身を包み、校門をくぐった。右腕は、まだ三角巾こそ外れたものの、ポケットに突っ込んだままだ。だけど、1年前のあの「生きる屍」だった頃のような、絶望に満ちた足取りではなかった。クラス替えの掲示板の前に、人だかりができている。俺は一歩下がった場所から、自分の名前を探した。
「あ、梅原くんだ! 春の大会、準優勝すごかったね!」
「左手であそこまでやるとか、マジで化け物じゃん!」
すれ違うクラスメイトたちが、尊敬と驚きの目を向けてくる。腫れ物に触るような視線は、もうどこにもなかった。人混みをすり抜け、新しい教室へと向かう。2年B組。ドアを開けると、新学期特有の騒がしい空気が満ちていた。俺は窓際の、後ろから二番目の席にカバンを置いた。
「――遅いよ、透夜くん」
聞き慣れた、だけどしばらく聞いていなかった、鈴の鳴るような声がすぐ近くから響いた。弾かれたように顔を上げると、俺のすぐ前の席に、あのサクラ色の笑顔が待っていた。緩く巻かれた明るい髪。少し短めのスカート。いつも通りの、学校一の美人ギャル・山咲凛音の姿がそこにあった。
「凛音……! お前、学校、来られたのか……?」
「うん。春休みの間、病院でしっかり充電してきたからね。ほら、見ての通り、ピンピンしてまーす」
凛音はピースサインを作って、いたずらっぽく笑ってみせた。部活を休んでいた頃に比べれば、少しだけ顔色は良くなっているように見える。だけど、その細い首筋や、制服の袖から覗く手首は、以前よりも確実に一回り細くなっていた。病院での「充電」という言葉が、彼女の命を繋ぎ止めるための、必死の治療だったのだと、俺には痛いほど分かった。凛音はくるりと椅子を回し、俺の机に両肘をついて身を乗り出してきた。ふわりと、あの懐かしい甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
「春の大会、スマホでずっと試合の速報見てたんだよ? いきなり準優勝なんて、本当に透夜くんは私の最高のコーチで、……最高の天才だね」
彼女の瞳に、嘘偽りのない、深い愛おしさと尊敬の光が宿る。
「でもね、準優勝じゃ満足してあげないんだから。約束したでしょ? 私の代わりに、インターハイに行くって」
「……ああ。分かってる。次は絶対に優勝して、インハイの切符を掴む」
俺は左手を伸ばし、机の上で、彼女の小さな右手をそっと握りしめた。教室の喧騒の中、誰にも見えないように、だけどお互いの体温を確かめ合うように、強く。
「うん。約束ね」
凛音は今日一番の、眩しい笑顔を咲かせた。高校2年生の春。世界はこんなにも美しく、桜は満開に咲き誇っている。だけど、俺たちの砂時計の砂は、今この瞬間も、確実に、静かに下へと落ち続けている。
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高校2年生の夏。
うだるような暑さが体育館を包み込む中、インターハイへの切符をかけた最終予選が幕を開けた。夏のインターハイへ行けるメンバーは、この大会の『優勝者(1名)』のみ。かつて右腕の未来を失った俺にとって、そして命の期限を抱える凛音にとって、これが文字通り「最初で最後のチャンス」だった。
「透夜くん、絶対、勝ってね」
大会前夜、病室のベッドの上で、酸素吸入器の管をつけた凛音は弱々しく、だけど最高に綺麗な笑顔で俺の左手を握りしめた。彼女の体調は夏を迎えるとともに急激に悪化し、すでに自力で立ち上がることすら難しくなっていた。だからこそ、俺が代わりにあのコートに立つ。彼女のラケットを左手に握り、彼女の夢を背負って戦う。それだけが、俺たちを繋ぐ唯一の光だった。大会が始まると、俺の進撃は誰にも止められなかった。春の大会で「準優勝」を経験し、この数ヶ月間で左手一本の変則プレースタイルは完全に完成の域に達していた。右腕が使えないハンデなど、今の俺には関係ない。凛音が命を削って遺してくれた戦術、そして観客席で声を枯らして応援してくれる妹や両親の叫びが、俺の足を、左腕を、限界を超えて突き動かしていた。
1回戦、2回戦、準々決勝――。
かつて天才と呼ばれた俺の、さらに進化した「左手のバドミントン」の前に、並み居る強豪たちはまともにラリーを続けることすらできない。圧倒的な実力差を見せつけ、俺はなんなく決勝戦への進出を決めた。
「お兄ちゃん! あと一つ! あと一つでインハイだよ!!」
観客席から彩華がちぎれんばかりにメガホンを振っている。そうだ、あと一つ。この決勝戦で勝てば、俺は凛音との約束を果たせる。彼女をインターハイの舞台へ連れて行ける。決勝戦のコールが響き、俺はゆっくりとコートへ足を踏み入れた。対戦相手は、春の大会の決勝で俺を破った、あの宿敵の王者。お互いにラケットを構え、会場のボルテージが最高潮に達した、まさにその瞬間だった。
ベンチに置いていた、俺のスマートフォンのバイブレーションが、静まり返った体育館に不気味に響いた。
ブーーー、ブーーー、ブーーー。画面に表示されたのは、『山咲 凛音』の文字。
(凛音……? 試合直前なのに、なんで……)
嫌な予感が心臓を直接鷲掴みにした。いつもなら試合の邪魔を絶対にしない彼女が、このタイミングで電話をかけてくるはずがない。審判に一言断り、俺は吸い寄せられるようにベンチへ戻り、スマホを左手で耳に当てた。
「……もしもし、凛音!?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、凛音の声ではなかった。取り乱した、彼女の母親の悲鳴のような泣き声だった。
『梅原くん……っ! 凛音が、凛音の容態が急変して……っ! 今、心臓が止まりかけて、集中治療室に……っ! 凛音、意識が薄れる中でずっと、あなたの名前を呼んでるの……っ!!』
「――っ!!」
頭の中のすべての音が消えた。スマホを握る左手が、ガタガタと激しく震え出す。
『お医者さんには……もう、今夜が山だって……っ! お願い、梅原くん、今すぐ病院に来て……っ!!』
プツリ、と音がして通話が切れた。世界のすべてが、灰色に染まっていくような感覚だった。目の前には、優勝すれば手が届く、ずっと夢見ていたインターハイのコート。そして、病院のベッドで、今まさに命の灯火が消えかけようとしている、世界で一番大切な恋人。
「おい、梅原! 試合が始まるぞ! どうしたんだ!?」
審判や顧問の声が遠くで聞こえる。観客席の妹も、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。俺は自分の動かない右腕を見つめ、それから、凛音の夢が詰まった左手のラケットを強く握りしめた。
(俺は――どうすればいい?)
凛音との約束を守るために、このままコートで戦って優勝するべきか。それとも、すべての未来を投げ出して、彼女の最期の瞬間に立ち会うために走るべきか。残酷な運命のカウントダウンが、今、俺の胸の中で激しく鳴り響いていた。
「……いや、凛音なら絶対に『決勝、勝って』って言うはずだ」
透夜は震える左手でスマートフォンをベンチに置くと、溢れそうになる涙をユニフォームの袖で乱暴に拭った。ここで逃げ出したら、彼女が命を削って俺に遺してくれた戦術も、2人で紡いできた「期間限定の恋人」としての時間も、すべてが無駄になってしまう。彼女の夢を叶えること。インターハイの切符を掴み取ること。それだけが、今の俺にできる唯一の、そして最高の応援だった。
「お待たせしました。……始めましょう」
コートに戻った透夜の瞳には、凄まじいまでの執念の炎が宿っていた。その気迫に、宿敵である王者の身体がかすかに強張る。
ピィーッ! と主審の笛が響き、運命の決勝戦が始まった。試合は、高校バドミントン界の歴史に残る壮絶な死闘となった。相手は透夜の左手を容赦なく攻め立て、精密な配球でスタミナを削ってくる。
しかし、今の透夜は1人ではなかった。シャトルを追う一歩一歩に、あの放課後の体育館で床を転がっていた凛音の姿が重なる。左腕を振り抜く瞬間に、あの初詣の夜に交わしたキスの温もりが蘇る。
「おおおおおっ!!」
ファイナルゲーム。お互いの限界を超えたラリーの末、透夜は渾身の力でジャンピングスマッシュを叩き込んだ。シャトルが相手コートのライン際に突き刺さり、白い煙が弾けたように見えた。
ピィーッ!
「ゲームセット! ウォンバイ梅原!!」
その瞬間、地鳴りのような歓声が体育館を揺らした。優勝。インターハイ出場決定。観客席では妹が飛び跳ねて号泣し、両親が抱き合って喜んでいる。しかし、透夜は歓喜の輪に加わることなく、ラケットを放り出してベンチへと全力で走った。心臓が破裂しそうなほどの恐怖の中で、スマートフォンをひったくるように掴み、凛音の番号へ発信した。呼び出し音が震える。頼む、繋がってくれ。死なないでくれ、凛音――。
ブツッ。
『……もしもし、透夜くん?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、微かではあるけれど、確かに聞き覚えのある、愛おしい少女の声だった。
「凛音……っ!? お前、無事なのか……っ!?」
『うん……。急に容態が悪くなって、お医者さんもダメかもって言ったんだけどね。……緊急の手術が、さっき大成功したんだって。私、まだ生きられるみたい……っ』
電話の向こうで、凛音は泣いていた。悔し涙ではなく、もう一度未来を生きられるという、希望の涙だった。
『手術室に入る直前ね、透夜くんが絶対に勝ってくれるって信じてたから、私、頑張れたんだよ。……約束、守ってくれたんだね』
「ああ、勝ったぞ。優勝した。お前との約束通り、インターハイに行くんだ」
透夜の目から、堰を切ったように涙が溢れ出し、床にポタポタと落ちていく。右腕を失ったあの夏、世界は終わったと思っていた。けれど、人生の終わりを知っていた少女が、俺の左手に新しい未来をくれた。そして今、彼女自身の未来も、確かにここから繋がったのだ。
「期間限定なんて、もう絶対に言わせないからな。夏のインハイも、その次の冬も、これからもずっと……俺がお前の隣にいる」
『うん……! これからもずっと、よろしくね、透夜くん』
ーーーーーーーーーーーーーー
インターハイ予選での劇的な優勝から、わずか数週間後のことだった。あの日、危篤からの緊急手術が「成功した」というのは、医師たちが尽くしてくれた、ほんのわずかな延命処置に過ぎなかったのだと、透夜は後になって知ることになる。凛音の心臓は、もう限界を迎えていた。夏の本選へ向けて、透夜が左手一本の猛特訓を続ける中、凛音は再び、病院の集中治療室(ICU)のベッドから動けなくなってしまった。
「ごめんね、透夜くん。夏のコート、隣で見届けるって約束したのに……。私、やっぱり嘘つきだなぁ」
面会謝絶のガラス越し。インターハイ出発を翌日に控えた夕暮れ時、透夜は凛音とインターホン越しに言葉を交わしていた。鼻に酸素の管を通し、いくつものモニターに囲まれた凛音は、それでも、あの夏の図書室で出会ったときと同じ、悪戯っぽいギャルとしての笑顔を無理に作っていた。
「嘘なんかじゃない。お前が俺にラケットを握らせてくれたんだ。俺の左手には、今もお前のバドミントンが生きている」
透夜はガラスに左手を押し当てた。「期間限定なんて、もう言わせない」と言ったあの日の誓いが、指先から虚しくこぼれ落ちていくような気がして、胸が張り裂けそうだった。
「うん……分かってる。透夜くんの左手は、私の最高の誇りだから。……ねえ、透夜くん。明日の朝、出発する前に、もう一回だけ電話して? 声、聞きたいな」
「ああ、約束する。朝一番に、必ずかけるよ」
それが、2人が直接言葉を交わした、最後の瞬間だった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
翌朝、五時。夏の朝は早い。
カーテンの隙間から、薄青い朝の光が静かに部屋へと差し込んできていた。
遠くでセミの鳴き声が響き始める中、透夜は遠征バッグを玄関に置き、スマートフォンを左手に握りしめた。
約束の、朝の電話。コール音が三回、四回と鳴る。いつもなら二回以内に「おはよー、透夜くん!」と弾んだ声が返ってくるはずなのに、今朝は妙に長く感じられた。五回目のコールが鳴り終わる直前、カチャリ、と静かに通話が繋がった。
「――もしもし、凛音? おはよう。今から、インターハイの会場に向けて出発する」
透夜は努めて明るい声を意識して語りかけた。しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもの愛おしい声ではなかった。ゼー、ゼー、という、痛々しいほどにかすれた、今にも消え入りそうな細い呼吸の音。
『……と、……や、くん……』
「凛音……っ!?」
心臓がドクン、と嫌な音を立てて跳ね上がった。
『おは……よう……。約束……守って、電話……くれたんだ、ね……』
その声は、まるで遠い異世界から届いているかのように掠れていた。言葉を一つ紡ぐだけで、彼女の全生命力が削り取られていくのが、電波越しにも痛いほどに伝わってくる。
「凛音、どうしたんだよ!? 今、体調悪いのか!? お医者さんは、看護師さんはどこにいるんだ!?」
『ううん……いいの。今……お母さんたちに、少しだけ……無理言って、2人きりに……してもらった、から……』
受話器の向こうで、衣服が擦れる微かな音が聞こえる。おそらく、彼女は残された最後の力を振り絞って、その小さな右手にスマートフォンを握りしめているのだ。
『透夜くん……見てる、よ……。今、窓の外……すっごく、綺麗な朝焼け……。太陽が……上って、きてる……』
「凛音……もう喋るな、頼むから休んでくれ! 今すぐ遠征を中止して、そっちに走るから……っ!」
『ダメ……だよ……っ』
凛音の声に、一瞬だけ、あのコートで見せたような強い拒絶の色彩が混ざった。
『行って……お願い。透夜くんが……あのコートで、シャトルを叩き落とす瞬間が……私の中の、最後の……光、なんだから……』
「嫌だ……っ! お前がいない世界で、インハイに行って何の意味があるんだよ! ずっと一緒にいるって、期間限定なんて無しだって、あの日約束しただろ……っ!!」
透夜の目から、大粒の涙が溢れ出し、スマートフォンの画面を濡らした。あの日、右腕を失って世界を呪っていた自分。実の母親にすら失望され、心を閉ざしていた自分を、強引に引っ張り上げてくれたのは彼女だった。不格好なコーチとして、左手でシャトルを投げ続けるうちに、俺の死んでいた心に灯火を灯してくれたのは、他の誰でもない、山咲凛音だった。受話器の向こうで、凛音がふふ、と微かに笑った。泣きじゃくる透夜を、あやすような優しい笑い声だった。
『私ね……あの夏の図書室で、死にかけてた透夜くんに……出会えて、本当に、幸せだった……。私の、短い、中身のない人生に……最高の、相棒としての……意味を、くれたのは……透夜くん、だよ……』
モニターの不規則な電子音が、遠くでかすかに聞こえる。
『私の心臓は……もう、止まっちゃう、けど……。私の、バドミントンは……透夜くんの、その左手に……ずっと、生きてるから……。だから……悲しまない、で……』
「凛音、凛音……っ! 嫌だ、行くな……っ! 置いていかないでくれよ……っ!!」
『……透夜くん』
彼女の呼吸が、いよいよ光の粒子のように薄くなっていく。窓の外からは、夏の暴力的なまでの太陽の光が室内に差し込み、世界を真っ白に照らし始めていた。
『私ね、透夜くんに……出会って……初めて、生きたいって……思ったんだよ……。もっと、一緒に……バドミントン、したかった、な……。もっと、たくさん……名前……呼び合いた、かった、な……』
愛おしさと、無念さと、途方もない優しさが混ざり合った、少女の最期の我が儘。
『大好き……だよ、透夜……。私の……光が……消えても……ずっと……』
プー、プー、プー、プー……。静かな電子音が、無慈悲に室内に響き渡った。
「凛音? 凛音……っ! 嘘だろ、おい……返事をしてくれよ、凛音……っ!!」
どれだけ叫んでも、受話器の向こうから、あの鈴の鳴るような声が返ってくることは二度となかった。
カーテンを開けると、そこには、どこまでも眩しく、残酷なまでに青い、夏の朝の光が広がっていた。
彼女が命を懸けて繋ぎ止めてくれた約束のリミットは、この美しい朝の光とともに、静かに、だけど絶対的な終わりを迎えた。
透夜はスマートフォンを胸に抱きしめ、無人の部屋で、声を上げて慟哭した。
流れ落ちる涙は、濡れた制服に吸い込まれていく。動かない右腕が、まるで彼女を失った痛みを共有するように、じりりと熱く、疼いていた。
それから数時間後。
インターハイの会場となる、鳴り響く歓声と熱気に包まれたメインアリーナのコートに、梅原透夜は立っていた。目は真っ赤に腫れ、心はボロボロに引き裂かれていた。しかし、彼の左手に握られたラケットだけは、微塵も震えていなかった。観客席の最前列からは、彩華が「お兄ちゃん、頑張れ……っ!」と涙を流しながらメガホンを握りしめ、両親が祈るように手を合わせている。コートの向こう側を見る。相手が誰であろうと、今の透夜には関係なかった。透夜はゆっくりと、自分の動かない右腕をジャージのポケットから出し、左手でラケットを目の前に掲げた。
(凛音。見ているか)
お前が、ただ死ぬのを待つだけなんて嫌だと、命を燃やして眩しく生きようとした、その足跡。お前が俺に遺してくれた、この左手のバドミントン。
「……行くぞ」
透夜は静かに呟き、左手でシャトルを高く放り投げた。君の光は消えてしまった。けれど、君が俺の左手に灯してくれた光は、これから先、俺が死ぬまで、世界の誰よりも眩しく輝き続ける。バァン!! と、鼓膜を突き破るような爆音が体育館に響き渡る。かつて天才と呼ばれた少年の、亡き最愛の少女へ捧げる、最初で最後のインターハイの幕が、今、静かに切って落とされた。
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インターハイ本選、男子シングルス決勝戦。会場を埋め尽くす観客の割れんばかりの歓声と、無数のフラッシュがコートを照らしていた。右腕の神経が死に、一度はすべてを諦めた少年が、左手一本の変則スタイルで全国の頂点に手をかけようとしている。その前代未聞の奇跡に、会場のボルテージは最高潮に達していた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
ファイナルゲーム、20対19。あと1点。あと1点をもぎ取れば、俺は全国優勝を果たす。しかし、透夜の肉体はとうに限界を迎えていた。右腕が使えないハンデを補うための激しいフットワークは、足の筋肉を千切れんばかりに痛めつけ、左腕は鉛のように重い。対戦相手である全国屈指の怪物は、容赦なく透夜のデッドゾーンを突き、泥泥としたラリーを仕掛けてくる。
(もう、足が動かない――)
意識が遠のきそうになったその時、透夜の脳裏に、あの夏の日の図書室の景色が鮮やかによみがえった。不格好なコーチとしてシャトルを放つたびに、弾けたように笑っていた山咲凛音の姿。
『私ね、大好きな透夜くんの記憶に、私を一生、焼き付けること』
『私のバドミントンは、透夜くんのその左手に、ずっと生きてるから』
あの朝、彼女の光は消えてしまった。けれど、彼女が俺の左手に灯してくれた火は、まだ、この胸の奥でゴウゴウと燃え盛っている。
「おおおおおおおっ!!」
透夜は魂を振り絞るような咆哮とともに、地を蹴った。相手の意表を突く超高速のジャンピングステップ。あり得ない体勢から、鍛え上げられた左腕を一閃する。凛音と二人で、ノートに数式を書き殴りながら生み出した、ミリ単位で計算された最高のクロススマッシュ。パンッ!!!鋭い金属音が響き、シャトルは相手の手の届かないコートの最奥、ライン際に突き刺さった。ピィーッ!!!
「ゲームセット! ウォンバイ梅原!!」
その瞬間、割れんばかりの歓声と怒涛のような拍手が、体育館の天井を突き抜けんばかりに響き渡った。
「やったぁぁぁ! お兄ちゃん! 優勝! 優勝だよ!!」
観客席の最前列で、彩華がメガホンを放り出して大号泣しながら飛び跳ねている。両親も涙を流し、互いに肩を抱き合っていた。かつて絶望でバラバラになりかけていた家族が、今、最高の笑顔で俺を見つめている。周囲から一斉に部員や監督が駆け寄り、歓喜の輪が広がる。しかし、透夜は激しい呼吸のまま、ゆっくりと天を仰いだ。
体育館の天井の隙間から、眩しい夏の太陽の光が、真っ直ぐにコートへと差し込んでいた。
(凛音。……勝ったぞ。俺、優勝したよ)
透夜は左手に握られたラケットを、そっと胸に抱きしめた。お前が代わりに立つはずだった、このインターハイのセンターコート。
お前が「君の戦術があれば、もっと上に行ける」と言ってくれたから、俺は今日、世界で一番高い場所に立つことができた。
お前は「自分の人生には中身がない」なんて泣いていたけれど、そんなことはない。
お前のバドミントンは、お前の生きた証は、今、間違いなくこの全国の頂点のコートで、日本中の誰よりも眩しく輝いていた。
表彰式を終え、首に重みのある金メダルをかけられた透夜は、一人、体育館の裏手にある人気の少ない渡り廊下へと足を運んだ。
去年の夏、文化祭の日に、凛音と一緒にオレンジジュースを飲んだあの場所によく似た、静かな場所だった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
もう二度と繋がることのない、凛音の連絡先を開いた。
あの朝の、プー、プーという切ない電子音が耳の奥でリフレインする。
涙が、金メダルの表面にぽたりと落ちて、光を反射した。
「寂しいよ、凛音……。お前と一緒に、このメダルを掲げたかった……。もっと、たくさんお前の名前を呼びたかった……」
動かない右腕を強く抱え込みながら、透夜は静かに涙を流した。
けれど、その胸にあるのは、あの日右腕を失った時の真っ黒な絶望ではなかった。
凛音は、俺の人生の救世主だった。
彼女がいたから、俺はもう一度前を向けた。
彼女の短い命の輝きが、俺の死んでいた左手に、新しい未来という名の光を灯してくれた。
「忘れるわけないだろ。……死ぬまで、一生、お前のことをここに焼き付けて生きていく」
透夜はスマートフォンを握りしめ、前を向いた。
窓の外には、どこまでも青く、どこまでも広い、夏の空が広がっている。
山咲凛音という少女の光は、あの朝、静かに消えてしまった。
けれど、彼女が遺してくれた温もりと、この左手に宿るバドミントンは、これから先の俺の人生を、ずっと、ずっと照らし続けていく。
「ありがとう、凛音。」
夏の爽やかな風が、透夜の髪を優しく揺らして吹き抜けていった。まるでお調子者のギャルが、「合格! 最高のコーチだね、透夜くん」と、耳元で悪戯っぽく笑ったかのように。右腕を失った少年と、終わりを知っていた少女の、最高の夏の約束は、今ここに、永遠の光となった。
あまり内容が凝ってなくてすみません。でも少しでも楽しめたら嬉しいです。




