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第一章 凍てついた夜の、不格好なコーチ

デモ版みたいなものなので期待しないでください

世界からすべての色が消え失せる瞬間を、梅原透夜(うめはらとうや)は生涯忘れないだろう。

高校に進学し、輝かしい未来へと続く新しい生活が始まるはずだった、その春。梅雨の始まりを告げる雨は、世界を重く塗りつぶすほどに激しかった。水飛沫を上げて信号を無視し、こちらへ突っ込んできた大型トラック。その一対のヘッドライトが、透夜の視界を狂暴な白一色に染め上げた。引き裂かれるような制動音と、肉体が破壊される生々しく鈍い音。アスファルトに叩きつけられた瞬間、透夜の意識を最後に支配したのは、右腕を根元から爆発させるような、息もできないほどの凄まじい激痛だった。

次に目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは、ひどく無機質な白い天井だった。病院のベッドの上、彼の右腕は無数の金属ボルトと冷たいギプスで、無残なほど厳重に固定されていた。

診断名は「右腕の粉砕骨折、および末梢神経の広範囲な不全麻痺」。手術は成功した、と医師は事務的な口調で告げた。しかし、その後に続いた言葉は、16歳の少年の未来を根底から打ち砕く、冷酷な死刑宣告そのものだった。


「日常生活にある程度の支障は残るでしょう。そして……もう二度と、ラケットを握ることはできません」


耳の奥で、甲高い耳鳴りが響いた。医師の唇が動いているが、もう何も頭には入ってこない。中学時代までの透夜の人生は、まばゆいほどの色彩に満ちあふれていた。夏の大会で見上げた、どこまでも高く広がる突き抜けるような青空。放課後のコートを、じりじりと焦がすように照らしたオレンジ色の夕日。そして、激しいラリーの末、自らの手でもぎ取った白球――鮮烈な放物線を描くシャトルの軌跡。

中学のバドミントン界で「梅原透夜」の名を知らない者はいなかった。全国中学生大会での躍進、そしてインターハイ2位という栄冠。その輝かしい実績は、彼の行く手を照らす極彩色のランウェイのようだった。誰もが彼の右腕から放たれる、風を切り裂くようなスマッシュに魅了され、彼自身もまた、その右腕こそが自分の人生のすべてを切り開いていくのだと、1ミリの疑いもなく信じていた。

そのすべてが、一瞬の金属音と共に、剥ぎ取られた。

俺の手からラケットが奪われた瞬間、あんなに色鮮やかだった世界は、二度と光の戻らない灰色の静寂へと姿を変えた。

右腕は、まるで自分とは無関係な冷たい肉の塊のように、どれだけ神経を尖らせてもピクリとも動かなくなった。文字を書こうとしても、指先がペンを握る感覚すら拒絶する。喉が渇いても、ペットボトルのキャップひとつ自分の力で開けられない。毎朝の服の着替えさえ、中学時代の何倍もの時間を費やし、情けないほど息を切らす。昨日まで呼吸をするように当たり前にできていたことが、何一つできなくなる。その圧倒的な無力感、日ごとに積み重なる屈辱と絶望は、透夜の精神を内側からじわじわと、確実に蝕んでいった。高校のクラスメイトや先生たちは、誰もが腫れ物に触るように優しかった。


「梅原さん、無理しないでください」

「透夜、次の授業のノート、代わりに取っておくよ」

「荷物、俺が運ぶよ」


ただ席に座っているだけで、上空から降るように次々と注がれる気遣いの言葉。けれど、その言葉のベールの裏にある、微かな憐れみの視線。自分を『可哀想な弱者』、あるいは『庇護されるべき存在』として一方的に規定してくる教室の空気感が、透夜には何よりも耐えがたかった。悪意のない、純粋で綺麗な彼らの優しさ。それこそが、透夜の心に「お前はもう、彼らと同じ普通の人間ではない」という残酷な烙印を押し続ける、見えない刃だった。差し伸べられる手が、まるで自分と世界の間に引かれた境界線のようだった。だが、学校でのそんな息苦しささえ、まだマシな方だったのかもしれない。


何より透夜を底のない暗闇へと追い詰めたのは、他でもない、逃げ場のない家庭内の空気だった。


「……透夜、今日の調子はどうだ」


リビングで顔を合わせるたび、父親は必ず一度、透夜の力なく垂れ下がった右腕へと視線を落とす。そして、自分の失言に気づいたかのように、腫れ物に触る手つきで慌てて視線を泳がせるのだ。かつてインターハイ2位を誰よりも喜び、共にコートに立って熱心に指導してくれた父の瞳から、あの眩しいほどの熱は完全に消え失せていた。

そこに残っているのは、戸惑いと、居心地の悪さだけ。期待の裏返しとしての、沈黙という名の無言の圧力。それが今の透夜の肩には、どんな重石よりも重くのしかかった。だが、父親のそんな気まずい沈黙以上に残酷だったのは、母親の過剰なまでの優しさだった。


「大丈夫よ、透夜。腕が一本使えなくたって、勉強を頑張ればいいじゃない。お母さん、応援してるからね」


顔の筋肉を無理やり引きはがしたような、歪な作り笑顔。

励ましの言葉を口にする母の瞳は、哀れみと、そして明確な「諦め」に満ちていた。その言葉の軽軽しさが、かえって透夜の傷口を深く抉る。


(あぁ、この人たちは俺に失望したんだ。もう終わった人間だと思ってるんだ)


不完全な存在になってしまった息子。家の中に漂うその無言の空気は、透夜の心を完全に病ませ、暗闇の奥底へと引きずり込んでいった。そんな地獄のような家庭環境の中で、唯一の救いがあった。中学2年生になる妹の、梅原彩華(うめはらあやか)だ。


「おかえり、お兄ちゃん! はい、これっ!」


ある日、自室に引きこもろうとする透夜の前に、彩華が元気よく飛び出してきた。その手には、炭酸ジュースのペットボトルが握られている。


「……何だよ」


ぶっきらぼうに返す透夜に、彩華はぷくっと頬を膨らませた。


「何だよじゃないよ! ほら、キャップ、ちゃんと私が緩めといてあげたから。お兄ちゃん、炭酸好きでしょ?」


彩華は、事故に遭う前と全く変わらない、ひまわりのように屈託のない笑顔を向けていた。彼女の瞳には、クラスメイトのような同情も、両親のような腫れ物に触る怯えも、失望もなかった。そこに映っているのは、ただの大好きな、けれど最近ちょっとだけ不器用になってしまったお兄ちゃんの姿、それだけだった。


「お兄ちゃん、最近暗い顔ばっかり! 腕が動かなくたって、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ。私が右手の代わりになってあげるから、だから元気出して!」


「……彩華」


「ふふん、妹を頼りなさいって! 応援してるんだからね!」


そう言って胸を張る妹の姿に、透夜の胸の奥で、冷たく固まっていた何かがほんの少しだけ、音を立てて解けていくような気がした。誰も彼もが自分を『可哀想な弱者』として特別視するこの家の中で、唯一、自分をありのままの人間として、大好きな兄として扱ってくれる存在。彩華の存在だけが、透夜が絶望の海に飲み込まれず、辛うじて正気を保ち続けるための最後の防波堤だった。


そんな底知れない絶望感にじわじわと焼き尽くされる中、容赦なく夏休みが始まった。

しかし、学校という形ばかりの居場所さえ失ってしまった透夜にとって、その長期休暇は少しの解放感ももたらさなかった。それどころか、あの「居場所のない家」に一日中縛り付けられる、終わりのない苦行の期間でしかなかった。母親の、無関心を装った、けれど確実に落胆の色を孕んだ失望の視線。それに耐えかねて、透夜は毎朝、逃げるように家を飛び出した。俺が向かったのは、駅から少し離れた寂れた通りにある、市立図書館だった。冷房が静かに効き、本特有の少し古い紙の匂いと、世界から隔絶されたような静寂が満ちている場所。ここだけが、今の彼に残された唯一の防空壕であり、シェルターだった。

ある日の午後。透夜は図書館の隅にある、誰の目にも留まらない薄暗い席で、慣れない左手を使ってノートを開こうとしていた。ほんの数ヶ月前まで、右腕でシャトルをミリ単位でコントロールしていたのだ。それなのに、今の自分はノートのページをめくることさえ、満足にできない。指先に余計な力が入りすぎ、カサリ、と嫌な音を立ててノートの端がくしゃりと無残に破れた。


「クソっ……」


胸の奥からせり上がってきた黒い感情に任せて、思わず低く毒づいた、その拍子だった。机の端に置いていたシャープペンシルが、肘に当たって床へと転がり落ちた。カラン、カラン、と、水を打ったように静まり返った館内に、やけに高い硬質な音が響き渡る。チクリとした周囲の視線を感じ、透夜は不自由な身体を惨めにすくめ、床の上を転がっていくペンを追おうと身をかがめた。


――その時だった。透夜の無骨な視界の端に、まるでそこだけ光が差し込んだかのように、白く細い、綺麗に手入れされた指先が滑り込んできた。その指は滑らかな動きでペンを拾い上げると、じっと固まる透夜の目の前へと、そっと差し出された。


「はい、これ。落としたよ」


耳に届いたのは、よく聞き覚えのある、けれど、この静謐な図書館という場所にはおよそ似合わない、少し高めの明るい鈴のような声。見上げると、そこには信じられない人物が立っていた。山咲凛音(やまさきりおん)。同じクラスの、いわゆる「一軍」のトップ。学年トップスリーに必ず名前が挙がる、圧倒的な美貌を持つ少女だった。少し明るく染められた艶やかな髪に、夏らしい爽やかな私服。学校では常に派手な女子たちや、運動部の男子たちに囲まれ、常に世界の真ん中で笑っている彼女が――なぜか今、目の前に立って自分を見つめていた。透夜のような、すべてを失って日陰に生きる人間とは、一生視線が交わるはずのない、遠い存在。


「あ……ありがと、山咲さん」


透夜が戸惑いを隠せないまま、ぎこちない左手でペンを受け取ると、山咲さんは隣の椅子を音もなく引き、当然のような顔をしてそこに腰掛けた。ふわりと、夏の汗や熱気とは無縁の、甘く大人びたシトラスの香りが透夜の鼻腔をくすぐる。しかし、間近で見る彼女の表情は、決して親しみやすい甘いものではなかった。どこか冷ややかで、一軍特有のプライドを感じさせる凛とした佇まい。


「梅原くん、夏休みなのに熱心だね。……あ、それ、左手で書く練習?」


山咲さんの視線が、机の上に広げられたノートに向けられた。そこには、歪で、まるでお化けのような文字がおぼつかない筆跡で並んでいる。透夜の心臓が、ドクリと嫌な跳ね方をした。

まただ。またこの完璧な美少女からも、あの「大変だね」「頑張ってて偉いね」という、反吐が出るような同情の言葉が返ってくるのだ。そう身構え、透夜は奥歯を強く噛み締めた。左手に、爪が食い込むほどに力を込める。しかし、山咲さんの口から飛び出したのは、透夜の予想を根底から覆す言葉だった。


「へえ。結構上手じゃん。線のバランスとか、マジで私より綺麗かも」


「……え?」


透夜は呆然として声を出した。耳を疑った。


「何その顔? 私、見た目の割に字が汚いので有名なんだから。ほら、見てよこれ」


山咲さんは自分のバッグから、派手なキーホルダーがついたペンケースと、一冊のノートを取り出して机に広げた。開かれたページを目にした瞬間、透夜は言葉を失った。そこには、彼女の完璧な容姿からは1ミリも想像がつかないほど、丸くて、雑で、ぐちゃぐちゃに書き殴られた文字が並んでいた。お世辞にも高校生の字とは言えない、壊滅的な羅列。


「ふっ、本当だ。これは酷いな」


張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、思わず本音が口から漏れ出していた。事故に遭って以来、初めて自然に零れた、小さな笑みだった。


「ちょっと、失礼だなあ! 人がせっかく褒めてあげたのに!」


山咲さんは不満そうに唇を尖らせ、ぷいっとそっぽを向く。けれど、その一連の動作のどこを探しても、透夜を傷つけてきたあの『哀れみ』も、息の詰まるような『過剰な気遣い』も、一切存在していなかった。彼女は、透夜の力なく垂れ下がった動かない右腕を見ても、憐れむような目つきなどただの一度もしない。ただの騒がしくてちょっとおバカなクラスメイトとして、あまりにも「普通」に、対等に接してくるのだ。この世界で、今の自分に「普通」をくれる人なんて、もう誰もいないと思い込んでいた。その当たり前のはずの普通さが、今の透夜にとっては、暗闇に差し込んだ奇跡の光のように思えた。彼女の前でだけは、惨めな自分を取り繕う必要がないのかもしれない。そう思った瞬間、透夜の胸の奥底で澱のように溜まっていた、誰にも言えなかった泥のような本音が、堰を切ったように彼女へと溢れ出していった。


「学校の奴らも、先生も。俺のこの動かない腕を見て、かわいそうって顔をする。……親でさえ、俺をもう終わった人間だって、失望してるのに。山咲さんは、怖くないのか? こんな、不完全な男」


言ってしまってから、激しい後悔が襲ってきた。何を初対面に近い一軍女子に、こんな重い話をぶつけているんだ、と。けれど、山咲さんは困った顔をしなかった。それどころか、彼女は少しだけ真面目な顔をして、透夜の右腕を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、同情ではなく、客観的な事実を見つめる冷徹さがあった。


「あのさ、梅原くん。みんなが優しいのは、君をかわいそうと思ってるからじゃないよ」


「……じゃあ、何なんだよ」


「どう接していいか、分からなくて怖いだけ。傷つけちゃったらどうしようって、みんなビビってるの。……もちろん、私もそうだったよ。だから学校では、全然話しかけられなかったし」


山咲さんは少し恥ずかしそうに視線を外すと、テーブルの上で、自分の左手をそっと伸ばした。そして、透夜の机の上に置かれた、感覚のない右手を――優しく、しかし事務的な確実さで包み込んだ。ひんやりとした彼女の体温が、皮膚の感覚を超えて、透夜の凍りついた心の奥深くに直接届いたような気がした。しかし、彼女はすぐにその手を引っ込めた。ベタベタと馴れ合うつもりはない、と言わんばかりに。


「でも、こうして二人で話してみたらさ、ただの梅原くんだ。字が上手で、ちょっとひねくれてて、でも本当は一生懸命な、普通の男の子」


山咲さんは手を離すと、ビジネスライクな笑みを浮かべた。


「絶望して一人で悩んでるなら、私に勉強教えてよ。学年トップクラスの頭脳を持つ梅原くんの知識、こんなところで腐らせてたらもったいないじゃん?」


その瞬間、透夜の視界を覆っていたモノクロの霧が、少しに晴れていくような衝撃が走った。親からの失望も、周囲の冷たい視線も、このシトラスの香りが漂う空間の中では、すべて消え去っていた。


「……山咲さんって、見た目によらず、相当強引なんだな」


「一軍女子を舐めないでよね。あと『さん』付けも禁止。さ、まずはこの数学の微積から。左手で赤ペン持って、バシバシ添削してよ」


それから、二人の奇妙な夏休みが始まった。

連日のように、図書館の同じ席で待ち合わせる。元気のない透夜に気づいて声をかけてくれた彼女は、驚くほど勉強が苦手だった。透夜が左手で不器用に数式を解いて見せるたびに、彼女は「へえ、なるほどね。天才じゃん」と、大袈裟でなく、しかし確実に彼を肯定した。気づけば、閉館を告げる蛍の光のBGMが流れるまで机に向かうのが、二人の決まり事になっていた。


「あー、頭使ったら喉乾いた! ほら、今日の受講料」


そう言って彼女が自動販売機でボタンを押すのは、いつも決まって炭酸のジュースだった。「ありがと」と受け取り、冷えた缶を怪我をした左手にそっと当てると、鈍い痛みが少しだけ和らぐ気がした。すっかり暗くなった夜道を、二つの缶を小さく鳴らしながら駅まで並んで歩く。改札の前で、「じゃ、また明日」と彼女はそっけなく手を振って別れる。好意を匂わせるような甘い空気は一切ない。しかし、その適度な距離感の繰り返しこそが、透夜の冷え切っていた心に、少しずつ、確実に血を通わせていった。


夏休みも終わりに近づいた、ある日の午後のことだった。その日の勉強は、いつも以上にハードだった。新学期の模擬試験を見据えた透夜の容赦ない添削に、山咲は「もう脳みそが限界……」と机に突っ伏しながらも、最後まで必死に食らいついてきた。図書館の閉館を告げるBGMが流れると、山咲は荷物をまとめながら、どこか緊張した面持ちで透夜を振り返った。


「ねえ、今日さ……この後ちょっとだけ寄りたいとこあんだけど。付き合って」


彼女に連れてこられたのは、駅前にある少しレトロな純喫茶だった。店内にはセピア色の照明が灯り、静かなジャズが流れている。いつも行く賑やかなファストフード店とは違う雰囲気に、透夜は少し気圧されていた。冷たいアイスコーヒーのグラスから滴る結露が、テーブルに小さな水溜まりを作っていく。


「……で、手伝ってほしいことって? 改まって、どうしたんだよ」


透夜が切り出すと、山咲はストローをいじる手を止め、少し真面目な、どこか張り詰めた顔で透夜を見つめた。その瞳は真剣そのもので、冗談を言っている雰囲気は微塵もなかった。


「あのさ、梅原くん。……バドミントンの練習、付き合ってくんない?」


その言葉が耳に入った瞬間、透夜の心臓がドクリと大きく跳ねた。全身の血が逆流するような感覚。脳裏に、あの忌まわしい事故の記憶と、激痛がよみがえる。


「……山咲。俺の右手の話、どこまで知ってるんだ?」


透夜は努めて冷静に、けれど明確に拒絶の色を帯びた声を沈めて言った。


「俺の右手はもう動かないんだ。粉砕骨折して、神経も死んでる。ラケットを握るどころか、自分のカバンを持つことすらできない。……そんな俺に、バドミントンの練習に付き合えって言ってるのか? 嫌がらせなら、タチが悪すぎるぞ」


少し鋭い口調になってしまった。周囲の客が微かに振り返る。けれど、山咲の瞳は真っ直ぐだった。逸らすことも、怯むこともない。透夜の目をじっと見つめ返すその瞳には、同情も憐れみもなく、ただ純粋な『要求』だけが存在していた。


「知ってるよ。梅原くんが中学時代、インターハイで準優勝まで行った凄い選手だったことも。そのあとの怪我のことも、全部」


「じゃあ、なんで――」


「でもさ」


山咲はストローから唇を離し、わずかに身を乗り出した。


「バドミントンって、右手だけでやるもんだっけ?」


「な……」


「左手、動くじゃん。フットワークだって、全然死んでないでしょ?」


山咲はそう言うと、足元に置いていた大きなスポーツバッグから、一本のラケットを取り出した。そしてテーブルの下で、透夜の左手にそのグリップを強引に握らせた。


「私さ、実は前回の大会、初戦敗退だったんだよね。ギャルだからって周りからは『どうせ遊びでしょ』って思われてる。でも、私、本当にバドが好きなの。次の秋の大会で、どうしても勝ちたいの。でも、一人じゃどうしても上手くいかなくてね」


山咲の声は淡々としていたが、その奥には硬く、強い意志が宿っていた。


「元インハイ準優勝の、梅原くんのアドバイスが必要なの。シャトル、左手でノックあげるくらいなら、できるでしょ? 私は、梅原くんの動かない右手なんてどうでもいい。君の頭の中にある経験と、その動く左手を貸してほしいの」


手渡されたラケットのグリップから、彼女の確固たる熱量が、透夜の左手を通して全身に伝わっていく。

誰もが、失われた右腕を見て「もう終わりだ」と言った。腫れ物に触るように哀れむか、目を背けるかのどちらかだった。けれど、彼女だけは違った。今も残されている「左手」と「培ってきた経験」を求めてくれている。自分を、まだ価値のある人間だと認めてくれている。甘い同情なんかじゃない。実力を見込んでの、対等なスカウト。

それが、透夜にはどうしようもなく心地よかった。左手に残るラケットの重みが、妙に愛おしく感じられた。


「……右手のこと、言い訳にしないけど、本当に下手くそなノックになるぞ。文句言うなよ」


透夜が小さく息を吐きながら言うと、凛音はふっと満足そうに口元を緩めた。


「言わないよ。実力主義だからね、私は。じゃ、明日から放課後、体育館の裏のコートね」


その夜、透夜は自室で、何ヶ月ぶりか分からない行動に出た。左手でラケットを握り、鏡の前で素振りをしてみる。不器用で、フォームはめちゃくちゃだ。かつての自分が見たら、鼻で笑うくらいに無様だった。


それでも。胸の奥で、冷え切っていた何かがパチパチと音を立てて燃え始めるのを感じていた。


ーーーーーーーーーーーーーーー


夏休みの終わりが近づいている、放課後のざわめきが薄れる頃、二人は市街地の隅にある小さな民間体育館にいた。冷房の効きが悪い古びたアリーナの一角、わずか二時間だけ借りた全面コート。そこで俺は、左手にラケットを握りしめていた。強くスマッシュを打つことも、鋭くレシーブを弾くこともできない。だからこそ、彼はコートの端に立ち、シャトルを山咲に向けてトスする。


「山咲、今のフォーム。右足の踏み込みが少し浅い。それじゃあ体重が乗らないだろ」


指摘する梅原の額に、うっすらと汗がにじむ。右手を使えないもどかしさを押し隠すように、彼の瞳には冷ややかなまでの集中力が宿っていた。しかし、その隣に立つ山咲の表情は、どこまでも柔らかかった。派手な見た目とは裏腹に、彼女は梅原の言葉を一つも聞き逃すまいと、真剣にうなずきながらシャトルを追いかける。


「うーん、こう? これで合ってる、梅原くん」


パァン、と乾いた音が響く。山咲が放ったクリアは、理想的な軌道を描いて奥のコートへと吸い込まれた。梅原はわずかに目を見張り、それから小さく息を吐いた。


「……ああ、完璧だ。今の感覚、覚えていこ!」


「やった! 梅原くんのスパルタ……じゃなくて、的確な指導のおかげだよ」


からかうように笑う山咲の笑顔に恥ずかしくなる。かつては自分がコートの主役だった。教える側に回るなど想像もしていなかったが、自分が動けない分、山咲の体が自分の理想の動きを体現していく。それが奇妙な高揚感と、言いようのない切なさを梅原の胸に呼び起こしていた。


だが、民間の体育館を使えるのは週に数回、限られた予算の時間内だけだった。周囲の目を引くことも増え、これ以上ここで密かに続けるのは難しい。


「……次は、別の場所を探さないとな」


片付けをしながら呟いた俺に、山咲はいたずらっぽく笑ってみせた。


「ねえ、知ってる? 学校の裏、誰も使ってない古いコートがあるんだよ。そこなら、誰にも邪魔されない秘密の場所になると思わない?」


それが、放課後の静まり返った学校の裏、古びた屋外コートへと彼らを導く最初の一歩だった。


夏休みが明け、学校が始まっても、二人の秘密の特訓は続いていた。

放課後、体育館の裏手にある、普段は誰も使わない古びた屋外コート。そこが今の彼らの練習場だ。


「まずは、ルーティンからだな」


左手にラケットを握った透夜は、ネットの向こう側に立つ山咲へ声をかけた。


「ルーティン……? 何それ、おまじない的なやつ?」


不思議そうに首を傾げる凛音に、透夜は真面目な顔で説明を返す。


「試合前の緊張をコントロールするための、決まった動作のことだ。インハイに出てくるような化け物連中は、みんな自分だけのルーティンを持ってる。サーブの前にシャトルを3回バウンドさせるとか、深呼吸のタイミングを固定するとか。そうやって『いつものリズム』を強制的に作るんだよ」


透夜は山咲の目をまっすぐ見据えた。


「山咲は試合中、焦るとすぐフォームが崩れて自滅する。それを防ぐための、脳のハッキングだ」


「へえ、なるほどね。一理あるかも――よし、やってみる!」


山咲は無駄な文句を言わず、透夜の提案をすんなりと受け入れた。慣れない左手でのノックは、最初は狙ったところへ飛ばず、何度もシャトルをネットに引っ掛けた。それでも、インハイ2位という頂点を掴みかけた透夜の戦術眼は、右腕が死んでもなお、研ぎ澄まされたままだった。


「今のショット、打点が低い! あと3センチ高く捉えて!」


「ステップが乱れてる! 左足の軸を意識しろ!」


浴びせられる容赦ないアドバイスを、山咲は凄まじい集中力で血肉に変えていく。一軍ギャル特有のしなやかな身体能力と、負けん気の強さ。彼女のプレーは日ごとに無駄を削ぎ落とされ、夕暮れのコートを舞う鋭い刃へと進化していった。

だが、コートを一歩離れた瞬間に降り注ぐ現実の雨は、透夜の体温を容赦なく奪う。ある日の夕方。特訓を終えて自宅の玄関を開けた瞬間、家を支配する重苦しい空気に胸が塞がれた。リビングを通り過ぎようとした時、ソファで熱心に書類を見ていた母親と目が合う。母の視線は、透夜の力なく垂れ下がった右腕へ一瞬だけ落とされ――すぐに、感情の削げ落ちた声が響いた。


「あ、お帰り」


それだけだった。母は手元の書類をまとめると、そこに透夜などいないかのように、無言で立ち上がって自分の部屋へと消えていく。『もう、この子は終わった人間だから』拒絶よりも冷たい背中が、そう語っていた。腫れ物に触れることすら放棄し、無関心という名の極刑を突きつけてくる。胸の奥がどろりとした冷たい泥で満たされ、透夜はただ、呼吸の仕方を忘れたように立ち尽くしていた。


「おかえり、お兄ちゃん!!」


胸の泥を吹き飛ばすように、廊下の奥から弾んだ声が響く。彩華だけが、この冷え切った家の中で、優しく揺れる唯一の光だった。


「はいこれ、お兄ちゃん! ちゃんとキャップ、緩めといたから!」


差し出されたのはスポーツドリンクのペットボトルだった。


「今日もバドミントンの……あ、ううん、お勉強頑張ってきたんでしょ?」


彩華は気づいていたのだ。透夜が最近、部屋で左手を使ってラケットを振り始めたことに。それでも彼女はあえて核心には触れず、ただ全力の笑顔で応援してくれていた。


「……ありがとな、彩華。助かる」


「もー、水臭いお兄ちゃんだな! 妹をもっと頼りなさいって。お兄ちゃんが頑張ってるの、私、世界で一番知ってるんだからね!」


胸の奥から込み上げるものを必死で堪えながら、透夜は冷たい液体を喉に流し込んだ。視界が滲みそうになるのを、強く目を閉じて誤魔化す。世界中に見捨てられても、この妹だけは自分を信じてくれている。そしてあのコートには、過去ではなく今の自分を、実力だけで評価してくれる相棒がいる。それだけで、透夜の折れかけた足は、まだ地面を踏み留まることができた。


そして迎えた、秋の個人戦予選大会。かつての山咲は、緊張から自滅して初戦敗退が当たり前の選手だった。けれど、今の彼女は違った。コートの隅、第1試合のコールがかかる直前。山咲は、透夜が教えた通りのルーティンを行った。ラケットのガットを、左手でトントンと2回叩く。その後、ゆっくりと深く息を吐き出し、最後にシャトルを3回、手のひらでバウンドさせる。その瞬間、彼女の瞳からギャルとしての浮ついた雑念が完全に消え去った。鋭い、アスリートの目がそこにあった。試合開始のホイッスルが鳴り響く。


山咲の動きは、これまでの不名誉な戦績が嘘のように無駄が削ぎ落とされていた。対戦相手はシード権を持つ実力者。しかし、山咲の瞳は冷徹に相手のステップを見抜いていた。透夜に叩き込まれた戦術眼が、彼女の視界をクリアにしているのだ。


(あいつ、バック奥の処理のとき左肩が下がる――)


山咲は狙いすましたように、相手の弱点へと正確無比なクリアを放つ。体勢を崩した相手が必死に返してきた甘いシャトルを、山咲は前髪を揺らしながら容赦なくネット際へプッシュした。

パシュ、と乾いた音が響き、シャトルが床に落ちる。焦る相手とは対照的に、山咲はポイントが決まるたび、透夜から授かったルーティンを淡々となぞり、自滅の芽を完全に摘み取っていた。規格外のポテンシャルと最高の頭脳が噛み合い、強豪を翻弄していく。


「ゲームセット! 勝者、山咲!」


審判の声が響き渡る。山咲は見事に、学年ベスト8、準々決勝敗退まで上り詰めた。最後は強豪校のキャプテンに体力と経験の差で敗れてしまったけれど、前回初戦敗退だったギャルが、地区ベスト8に入ったのだ。会場は、ちょっとした騒ぎになっていた。


「梅原くん。見てた? 私、ベスト8!!」


試合後、タオルで汗を拭いながら、嬉々とした口調で歩み寄ってくる山咲。会場があれほど騒然としているというのに、彼女は興味を示す様子は微塵もない。


「ああ、見てたよ。最後はちょっと焦ってルーティンが乱れたけど、むっちゃいい結果だ」


「相変わらず厳しいね」


山咲はふっと小さく笑うと、まっすぐに透夜の目を見つめた。


「でも……ありがと。君の戦術が正しかったってこと、私が証明できた。次は、もっと上を狙うよ」


感情を排した、けれど揺るぎない信頼が籠もった彼女の言葉。それが、透夜の動かない右腕のしびれるような痛みを、静かに和らげていくようだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


大会が終了し、熱気が冷めやらぬ体育館を出ようとした時のことだった。夕闇が迫る体育館の裏口、人通りの少ない通路。


「おいおい、そこのネーチャン。すげえじゃん、ベスト8?」


突如、行く手を塞ぐようにして、ガラ公のヤンキーの男たち5人組が現れた。タバコの煙を燻らせ、下卑た笑みを浮かべて山咲を値探るように見ている。


「なにか用ですか。邪魔なんですけど」


山咲は冷たく言い放ち、身を引こうとしたが、一人の男が彼女の細い腕を強引に掴んだ。


「いいじゃん、ちょっと付き合えよ。お祝いしてやるからさ」


「離して」


学校では一軍として君臨する凛音だが、本物の暴力を前にして、身体がわずかに強張っていた。周囲の男たちは、明らかに彼女を「ただの女」として、獲物として見ている。その時、透夜の身体が反射的に動いた。動かない右腕ではない。この数ヶ月、山咲のためにシャトルを打ち続け、ノートに数式を書き続けてきた、左手が。


「――その手を離せよ」


透夜は男の前に割り込むと、鍛え上げられた左手で、凛音の腕を掴んでいた男の手首を掴み、骨が軋むほどの力で捻り上げた。


「あがっ!? 何だてめえ!」


「走るぞ、山咲!」


男の手を強く振り払い、透夜は自慢のフットワークを爆発させた。左手で山咲の手首を強く握り締め、一気に駆け出す。


「待ちやがれ、ガキども!」


背後から怒号が響き、5人の男たちが激しい足音を立てて追いかけてくる。透夜は必死だった。右腕が使えない分、走るときのバランスを取るのが難しい。それでも、左手から伝わる山咲の走りのリズムに自分のステップを合わせ、さらに足に力を込めた。


「こっちだ!」


駅の構内へと滑り込み、改札をすり抜ける。ちょうどホームに入線してきた各駅停車の電車へ、2人は滑り込むようにして飛び乗った。直後、プシューと音を立ててドアが閉まる。ホームに取り残された男たちが、悔しそうにこちらを睨みつけていた。ガタゴトと小刻みに揺れる車内。2人は並んでシートに座り込み、激しく上下する呼吸を整えた。


「はぁ、はぁ……大丈夫か、山咲」


透夜が息を切らしながら、握りしめていた手を離す。差し出された山咲の白い手首には、透夜が焦って力任せに掴んでしまったせいで、かすかに赤い痕が残ってい


「あ……すまん。加減が分からなくて」


「ううん、合理的判断でしょ。助かった」


山咲は赤くなった手首をさすりながら、窓の外へと流れる夕景を見つめた。その表情はいつものようにクールだったが、言葉には確かな実感がこもっていた。


「梅原くん、不思議に思ったでしょ。なんで私が、あんな奴らに絡まれるのか」


ガタゴトと揺れる車内で、山咲がぽつりぽつりと、淡々とした声で話し始めた。


「私さ、こういう見た目だし、ギャルだから。周りの男の人から『男慣れしてそう』とか『誘えばすぐついてきそう』って、勝手に勘違いされやすいんだよね。昔からそうなの。ただ歩いてるだけなのに、知らない男の人に付きまとわれたり、強引に連れて行かれそうになったり。……だから、学校以外で男の人と関わるのは避けてた。無駄なリスクは負いたくないから」


完璧すぎる容姿と、誰にでも壁を作らない明るい態度。それが、悪意を持つ男たちにとっては都合のいい「隙」に見えてしまう。それが、彼女が学校の外で他者と関わるのを、徹底的に避けていた理由だった。


「でも、梅原くんは違った。私の見た目じゃなくて、バドミントンの実力を……私の中身を、ちゃんと見てくれた。それにさっきも、動かない右手の代わりに、左手で私を引っ張って、守ってくれた。それは事実として、すごく感謝してる」


彼女の言葉に、甘い好意は一切含まれていない。

しかし、それゆえに透夜の胸の奥深くへと真っ直ぐに突き刺さった。右手を失い、人生が終わったと思っていた。実の母親にすら失望され、心を閉ざしていた自分。そんな自分が、この冷静な少女にとっては「信頼に値する相棒」になれていたのだ。自分の左手には、まだ誰かを守る力が残されていた。


「これから私と一緒にいたら、今日みたいにまた迷惑かけちゃうかもしれない。怖い思いをさせるかもしれない。……でもね、私、もっと強くなりたいの。梅原くんの戦術があれば、私はもっと上に行ける」


山咲はそこで言葉を区切り、透夜を真っ直ぐに見つめた。


「だから――冬の大会まで、また私のこと、手伝ってくれない? これは私のエゴだけど、梅原くんにとっても悪い取引じゃないはず」


差し出されたのは、山咲の小さな右手。「迷惑なんて思ってないよ」と、素直に言えればよかった。けれど、そんな器手な真似はできなくて、透夜はふっと自嘲気味に笑った。


「わかった」


そう言って、自分の左手でその手をしっかりと握り返した。


「うん、交渉成立ね」


山咲は満足そうに微笑む。2人の関係は、あの夏の図書室から、この冬の冷たい風が吹く線路の上で、より強固なものへと変わっていく。それはビジネスライクでありながらも、互いにとって絶対に代わりのきかない、確かな絆だった。


ーーーーーーーーーーーーーーー


それからの日々は、まさに修羅のようだった。秋の気配が深まるにつれ、冬の大会での表彰台(ベスト3以上)を目指し、俺の指導はさらに熱を帯びていった。


「山咲、あと一歩、踏み込みが甘い! 前に突っ込むんじゃなくて、重心を落として床を蹴るんだ!」


「おっけー!」


放課後の体育館、あるいは部活が使えない日に借りる地区の体育館。そこには、教室での「クラス一の美人ギャル」の姿はなかった。ポニーテールにした髪から大粒の汗を流し、膝を真っ赤に染めながら、山咲は床に這いつくばるようにしてシャトルを追う。俺の左手から放たれるノックは、手加減というものを知らない。右腕を失った俺の分まで、彼女に強くなってもらわなければならないという焦燥感もあった。容赦のない、だけどミリ単位で計算された正確なノック。山咲はどれほど足が動かなくなっても、決して弱音を吐かなかった。そこに甘い好意や、男女としての気遣いはいっさい挟まない。けれど、彼女は俺の指示に100%の信頼を寄せて、貪欲に従った。

「冬は絶対に結果を出す。君のコーチングが本物だって、私が証明するから」

それが、山咲がコートで見せる、無言の、だけど痛いほどの決意だった。


そんな修羅の日常に、ふっと割り込んできたのが、十月半ばに開催される文化祭だった。俺たちのクラスが出し物として選んだのは、ありきたりな「チュロス販売店」と、教室の後ろ半分を使った「即席のフォトスポット」だった。


「おーい、透夜。ちょっとこれ、左手だけでいいから押さえててくんね?」


学級委員の男子に呼ばれ、俺は教室内で背景用のベニヤ板を支えていた。右腕は、いまだ三角巾を外したばかりの頼りない状態だ。長時間の作業はできないが、左手だけで板を固定するくらいなら役に立てる。クラスの連中も、俺の事故については腫れ物に触るような扱いをしなくなっていた。それは、俺が少しずつ、日常というものを取り戻しつつある証拠でもあった。


「うん、ありがと。あ、山咲さーん! こっちの買い出しリストのチェックお願いできる?」


「はーい、今行くー」


教室の前方から、よく通る声が響く。見ると、山咲がクラスの女子グループの中心で、模擬店の衣装の相談に乗っていた。いつも通り、緩く巻かれた明るい髪に、短めのスカート。彼女が笑うだけで、教室のその一角だけがぱっと輝く。


学校での山咲は、間違いなく「一軍の長」であり、高嶺の花だった。あの放課後の体育館で、汗まみれになって床を転がっている少女と同一人物だとは、到底信じられない。ふと、山咲の視線がこちらに向いた。目が合う。山咲は一瞬だけ、いつものクールな、だけど信頼の混じった目を俺に向けた。そして、周囲の女子に気づかれないくらいの小さな動きで、左手でラケットを振るようなジェスチャーをしてみせる。


(今日も放課後、よろしくね)


そんなメッセージが、声にならずに伝わってきた。俺は小さく頷き、ベニヤ板を押さえる左手に少しだけ力を込めた。文化祭当日、校内は喧騒に包まれていた。俺は受付のシフト以外の時間は、基本的に図書室か、人気の少ない渡り廊下で過ごしていた。人混みが得意ではないし、何より、右腕のせいで誰かとぶつかるのが怖かったからだ。


「やっぱり、ここにいた」


紙コップを二つ持った山咲が、渡り廊下のベンチに座る俺の前に現れた。衣装のフリル付きのエプロン姿が、驚くほどよく似合っている。男子たちがこぞって写真を撮りたがっていた理由が、嫌でもよく分かった。


「山咲。シフトはいいのかよ」


「休憩中。ほら、これあげる。チュロスは売り切れちゃったから、ただのオレンジジュースだけど」


山咲は俺の隣にすとんと腰掛け、ジュースを差し出してきた。受け取ると、冷たい結露が左手のひらに心地よかった。


「あいつら、うるさかったでしょ」


山咲が、遠くの体育館から聞こえる軽音楽部の演奏の音を聞きながら言った。


「あいつら?」


「ほら、うちのクラスの男子。梅原くんが右腕怪我してから、なんか遠巻きに見てるっていうかさ。気を遣ってるつもりなんだろうけど、逆にうざいよね」


山咲はストローをくわえながら、淡々と言った。彼女だけだ。俺の右腕のことを「なかったこと」にせず、かといって「可哀想なもの」としても扱わないのは。


「別に、気にしてないよ。実際、何もできないしな」


「何言ってんの。私をベスト8まで連れてった名コーチじゃん。自信持ちなよ」


「……山咲は、なんでそんなに強くなりたいんだ?」


ずっと気になっていたことを、口にしてみた。ただの部活の延長にしては、彼女の執念は異常だった。足の皮が剥けても、筋肉痛で階段が登れなくなっても、彼女は次の日には必ずコートに立っていた。まるで、何かに追われているかのように。山咲はジュースのカップを見つめたまま、少しだけ目を細めた。


「うーん……なんでだろ。ただ、足跡を残したいのかも」


「足跡?」


「そう。私っていう人間が、ここにいて、これだけ頑張ったんだって証拠。それが欲しいだけ」


その横顔は、いつになく真剣で、どこか遠くを見つめているようだった。高校1年生が語るには、少しだけ切実すぎる言葉。ただ、自分と同じように、何かに焦っているのだろうと、思った。


「……冬の大会、絶対に表彰台に連れて行く。お前がその気なら、俺も死ぬ気でメニューを考える」


「ふふ、頼もしいね、コーチ。あ、そろそろ戻らなきゃ」


山咲は立ち上がり、エプロンのスカートを軽くはたいた。


「じゃあね、梅原くん。文化祭終わったら、速攻で体育館ね」


「やる気満々だな」


ひらひらと手を振って去っていく彼女の後ろ姿を、俺はジュースを飲み干しながら、ずっと見つめていた。

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