序章 精霊との出会い
完全無視界、完全無音のこの世界で、泣き声とな。
しかも、声は可愛らしい女子の声。
ここで行かなくては男子ではないだろう。
気分は全速力、しかし、現実は海面を漂う藻屑並みのスピードで声の方向へ近づいていった。待っていろ、どこかのハニー。
次第に大きくなる泣き声に反比例して、闇の濃さは薄らいでいく。そして声の主と思しき人がいる場所は、淡い光に包まれていた。目というものが今の俺にあるかどうかはわからんが、生きている頃の視界と現状は変わりない。ゆえに死人補正の掛からぬと思われる俺の視界に映ったのは、まさに絶世というべき美少女だった。
うお、目が痛い。だからあるかどうか知らんけど。
ベールのようなものを被り、その美しき白皙の裸体を透けるような衣装で隠すその少女。しかしそこに卑猥さはなく、むしろ神々しいものさえ感じた。食い入るように見てしまうのは、そのためだ。下心はない。
ベールから溢れ流れ出るように肩に注ぐ、黒に近い群青色の髪。
涙に濡れた長い睫。そこに垣間見える湖を思わせる蒼の瞳。
上気した赤い頬。唇は淡い桃色。しな垂れたその肢体の完全なプロポーション。
惜しい。実に惜しい。生きていた頃に会いたかった。せめて身体があればと悔やまれる。
とはいえ、生きていたときにもお見えしたことがないような美少女だ。適度な可愛さならばここぞとばかりに声をかけるが、ここまでの可憐な美しさだと声をかけるのさえ躊躇われる。こんな容姿でごめんなさいと頭を下げたくなる。
が、気付いた。そうだ。今の俺には身体はない。だから声で判断されるしかないのだ。ああ、実に残念。俺のパーフェクトフェイスを見せることができないとは。
それならば、と俺は急に強気になった。
さあ、俺の美声に酔いしれろ。
「どうしたんだい?」
子猫ちゃん、とはさすがに恥ずかしくて言えない。口を塞ぐ。うむ。どもってはいないだろうか。
「……誰?」
少女はその顔を上げ、俺を探しているのだろう。闇の中で目をあちらこちらに向ける。そして、なぜか俺のほうへと視線を定めた。
え? 俺見えているの?
「あ」
少女はそう小さく声を上げ、顔を歪ませ、また泣き出した。
おい、ちょっと待て。それは何か。俺が泣かれるほどの姿をしているということか。生前だってそんな反応をされたことはなかったぞ。
「泣くな、ガキんちょ!」
頭突き、ができるかどうかはわからない。が、イメージとしてそれに近いことをやってみた。多分、体当たりみたいな形になっただろう。少女は「はうっ」と漫画のような声を上げて仰け反った。
「い、痛いじゃないですか」
「そうか。不思議だな。俺は痛くないぞ」
てっきりすり抜けるかと思ったが、限りなく予想通りに攻撃は成功した。そのとき接近した少女の顔にドキドキと胸が高鳴ってしまったのはまあ秘密にしておく。
「何で人の顔見て泣いてんだよ?」
もっと紳士的に振舞うつもりであったが、泣き出す少女に苛立ち頭突きを敢行してしまった今となっては、もう取り返しはつかないわけで。この言葉も「あん?」みたいな声色だった。他意はない。が、少女は「ひっ」と怯えたような声を上げる。
むう。何かイメージと違うな、この子も。
「か、顔を見て泣いたわけではありません。というか、顔ないじゃないですか、あなた」
「ほう。揚げ足取りかね」
やっぱ顔はないのね。
なんとなく、球状ではないかとこのとき思った。
「ち、違います。え、えっと。あなたも、命の灯火を落とされたのだと知って」
そう言うと、少女はまた顔を歪めて俯いた。堪えたような泣き声が、あるかどうかもわからん耳に届く。
泣かせたような心持。非常に複雑である。手を差し伸べたい。が、その手がない。歯がゆい気持ちに襲われながら、声をかけることしかできない俺は、その声もかけないで、ただその少女の傍にいた。
しばらく泣き続けた少女は、ぐす、と一度鼻をすすると顔を上げた。その蒼い瞳の周りが対照的に赤く充血している。「すみません」と一言呟くと、ぎこちない笑顔を俺に向けた。
「泣きたいのは、あなたも同じですのに」
「そうか? 俺は、あまり死んだという実感はない」
「最初はそうでした、私も。でも、だんだんと、もう生きていた世界に触れることができないのだと思うと、悲しくなって。よくわからないですけど、涙が溢れてきました」
「そういうものか」
「そういうものです」
今この少女に対してできることは、声をかけることしかない。しかし、生きている世界の人には、声をかけることさえできない。自意識過剰なわけではないが、俺が死んで泣いてくれる人はいると思う。その人たちに、何もできない。それは、確かに込み上げてくるような悲しさがある、
「あなたは、泣かないんですか?」
「泣かないね。男はそう簡単に泣かないのさ」
「意地っ張りなんですね」
そう言うと、少女は今までの作り笑いではなく、ふんわりと本物の顔で笑った。やっぱり、綺麗な女の子はそう笑うに限る。
だから、せっかくのこの雰囲気を、目がないから泣けないのだという言葉で白けさせるのは何とか我慢した。
それから俺と少女は語り合った。この闇の中では他にすることもない。
もともと、俺はそのために少女に声をかけたのだ。
少女の名前はアクアと言うらしい。外国だろうとそんな名前はなかなか聞いたことがない。アニメならあるがね。不思議に思って出身を聞くと、案の定その土地も聞いたことがない名だった。
首を捻らんばかりのその疑問も、アクアの一言で氷解する。
「私は、水の精霊なんです」
そうか、電波ちゃんか。
と言うと、アクアは「電波ちゃん?」と本気で首を傾げていた。
よくわからないが、俺がその話を信じていないとわかったのだろう。それにアクアは怪訝な顔で「精霊を知らないのですか?」と、まるでそれを知らない俺が非常識人みたいに問いかけた。酷く理不尽だ。
俺と彼女にあるそんな齟齬を質疑応答の形で潰していくうちに、どうも俺とアクアは別の世界の魂らしい、ということがわかった。というか、そう無理やり結論付けた。まるでそれを信じていないアクアだが、それは俺も同じこと。しかし、アクアが居たというその異世界話はなかなかに面白かった。
魔法に剣、竜に魔物。そして精霊。小さい頃に憧れたファンタジーな世界のお話。今の歳なら鼻で笑いそうなものなのだが、アクアの話が妙に生々しかったせいか、こんな状況のためなのか、アクアの言葉を何の偏見もなく受け入れ始めている自分に気付く。そんな世界もあるかも知れんと、思った。
次に俺の番、ということで、俺も自分の世界の話をした。
電車、バス、自動車、飛行機などの乗り物。ガスコンロも今では古いと言い切り、家庭電気機器の話しを終えて、携帯電話からパソコンへ。テレビで話をひと段落させると、アクアの、最初は訝しげな思いを乗せていたその蒼の瞳も、今ではキラキラと輝いていた。
ワクワク、なんて言葉がアクアの口から出そうで怖い。
「凄い世界ですね。いいなぁ。私もそんな世界で生まれたかった」
「俺はお前の世界に生まれたかったがね。俺たちの世界にいる人間なら、誰だって憧れるぞ」
「そうですか? 私たちの世界の人間は、絶対にあなたたちの世界のほうを望むと思いますよ。私も、人間としてならあなたたちの世界がいいです。とても便利ではないですか。日常の様々な雑事が、全て一瞬で終わるのですよ。しかも生きるということに、何の不安もない。素晴らしい世界ではないですか」
「むしろ、生きることに何の不安もないからこそ、鬱屈が胸に宿るんじゃないか。切迫した状況だからこそ、人は生きているという実感が持てるのだと俺は思う」
「そういうものですかね?」
「そういうものじゃないか」
そう言葉を交わすうちに、アクアも俺の世界を信じ始めていることがわかった。通じ合っているとわかるのは、やはり嬉しいものがある。嘘も建前もない言葉の応酬は、なかなかに心地よい。それはもちろん、話し相手が可愛い女の子だからこそなのだがね。むさい男となら、一瞬で会話は終了していただろう。
「あの、提案があるのですけど」
何やら考え込んでいたような様子のアクアはそこで顔を上げ、俺に熱い視線を向けた。何だ。とうとう愛の告白か。もちろん、俺はOKだ。さあ、このどこにあるかはわからん俺の胸に飛び込んで来い。
「私たちの世界、交換しません?」
「ばっちこいだ」
意味がわからないまま、俺はそう答えた。
うむ。愛の告白ではないわけね。




