第5話 無知の暴虐
「――…………ん……ぁ、ここは…………」
目が覚めたとき、私は灰色を見ていた。しかし、天井、壁、床、全てが灰色であることに気づき、この場所があの空間であることを察する。同時に、自分が倒れていることも。
「大丈夫ですか?」
不意に、上から声が降ってきた。
「はい……でも一体何が……」
私がズキズキと痛む頭を抑えながらゆっくり起き上がると、そこには赤川さんが立っていた。なぜか沈鬱な面持ちで、起き上がった私と目を合わせようとしない。
「…………あのぉ……?」
「落ち着いて聞いてください……実は――」
「赤川、円谷はいいから金平を治療してやってくれ」
「…………分かりました」
少し遠くから聞こえてきた女性の声にどこか物憂げな赤川は返事をすると、その声の方向へと早歩きで行ってしまった。
(……治療…………?)
半覚醒状態の眼を、赤川さんが向かっていった方向に向ける。
「え」
そこには惨状が広がっていた。
所々に点在する血溜まり。剥がれ、削れ、壊されている灰色のタイル。何よりその奥には、壁に背を預けて座っている血まみれの金平さんがいた。長袖のTシャツは深紅に染まり、ズボンは無惨なまでに破け散ってしまっている。
「どうして……何が…………」
「どうしても何もお前がやったんじゃないか」
私の大きすぎる独り言に返答する者がいた。来見田さんだ。
「私が……?」
来見田さんは顎で私の右腕を指す。それを見て――
「ひっ!?!?」
唖然とした。なぜなら深紅に染まった血がべったりと右腕を覆っていたからだ。それも右腕だけじゃなく左腕にも服にもズボンにも靴にも鮮烈な真赤が付着している。
私は一体金平さんにどれほどの傷を負わされたのか。
「最高の模擬戦だったよ。あーあ、録画しておけばよかった」
私の心境をよそに、来見田さんは心底愉しげにかつ口惜しそうに話す。
「あの金平を一方的に打ち負かすとはな、くっくっく」
一方的? じゃあこの血は? 私についているこの血は何?
朦朧とした意識の中で辛うじて覚えているのは槍のようなもので右手を貫かれたところだ。あそこで気分が悪くなり完全に意識が途切れた。……そうだ、右手を貫かれた。出血多量どころの騒ぎではなかったはずだ。感覚が無くなっていても、壊死していてもおかしくない。おかしくはないはずなのだ。
それなのにどうして私の右手に穴の1つもないのだろう。
「…………いいストレスだ」
私の右腕から黒い煙のような何かが噴出した。
「ひぃ!!」
思わず悲鳴を上げて、自分の腕から放出され続けている黒い煙を左手で払おうとする。しかし、噴出は止まるどころか勢いを強めた。
「そう慌てるな。慌てれば慌てるほど放出量は増える」
「ななな! なんですかこれ!?」
「何って……ストレスだよ」
「スト……レス?」
「私たちにとっては切っても切れないモノ、さ」
思い出したのは金平さんの脚だ。彼の両脚を包み込んでいたそれは現在私の腕から絶えず放出されているこれとそっくりだ。
「こ、これはどうやったら止まるんですか!?」
「だから、心を落ち着かせればいいんだよ。あれだ、深呼吸でもしろ」
そう言われて一生懸命深呼吸をする私を見てか、来見田さんは軽くため息をつく。
「で? 本当はもうさっきのこと、思い出しだんだろ?」
「っ……」
当然のように心を見透かした。
◇◇◇◇
「あ?」
無。金平進が過負荷黒槍を撃ち込んだ先にあるのは灰色のタイルとそこに残された僅かな血痕のみ。
(手と腹にそこそこのダメージを負っているんだぞ? 咎人とはいえ俊敏には動けねぇはずだ。それに俺があいつから目を離していた時間なんて――)
気づけば、金平の脳に衝撃が走っていた。
「があっ!?」
「――――」
金平には何が起こったのか理解できなかった。
「速い……動きがほとんど見えなかった……」
その一部始終を見ていた審判役の赤川修一から零れた声が金平の耳に入る。
「……くっくっく、こりゃあ決まったか?」
このとき、金平は側頭部を思い切り殴られたせいで軽い脳震盪を起こしていた。だが、円谷は躊躇なく金平の身体に追撃の連撃が浴びせた。
円谷は虚ろでしかし血走った目で金平を殴り続ける。どれだけ相手に叫ばれようが、どれだけ相手の体から鈍い音が聞こえようが、どれだけ血反吐を吐かれようが、決して手を緩めることはない。
金平もどれだけ叫ぼうが、どれだけ自分の体から鈍い音が聞こえてこようが、どれだけ血反吐を吐こうが、決して白旗を振ろうとはしなかった。その理由がこの模擬戦で降参が認められていないからなのか、それとも彼自身が敗北を認めていないからなのかは分からない。
「く……そがぁ…………――」
だが顎に何発目かのアッパーカットが入ったのが決め手となり、金平の意識は途切れる。白目を剥き、力なく倒れゆく少年。素人目から見ても、試合終了だと解る。
そこに勢いよく右ストレートが放たれた。
漆黒を纏った一撃の威力は凄まじく、金平の体は風を切る音と共に吹っ飛んでいく。
その光景に傍観していた大人2名が目を剥いた。
「――……もしやっ!? 暴走しているんじゃ!?」
「あぁ、そのようだな…………」
動揺する赤川。来見田も煙草を乱暴に灰皿に押しつけた。
金平は音を立てて壁にぶつかる。灰色の壁が少し崩れ、そこにもたれかかるようにボロボロの少年が倒れた。
「――――」
一方、円谷は獰猛な獣のように息を荒げながら、声にならない声を呟いている。また、右腕のボクシンググローブは霧散し、全身から黒煙が暴れるように噴出。
「――あは、あっははははははははははははははははははははははははははははは!!」
彼女は左手で前髪を抑えながら、返り血のついたその体を大きくのけぞらせて笑った。
その不気味で異様で惨烈な少女の姿はもはや人間ではなかった。
「あは…………あはっ!」
円谷の血走った目が、遠くで気絶している金平を捉える。次の瞬間にはすでに身を屈め、標的の元へと止めを刺しに向かっていた。その速さは、先程までの比ではない。
「すいません、円谷さん」
そこに立ちはだかったのは赤川。金平の前に盾になるように颯爽と現れた男を、円谷は一切躊躇せず攻撃する。ストレスの塊が赤川を襲った。
「――なるほど、良いパンチです」
しかし、無防備で胸部に攻撃を受けたにも関わらず、赤川は眉間少しシワをいれるだけ。それどころか間髪を置かずに反撃の蹴りを少女の体に打ち込んだ。その威力は両腕で防御しても体を5メートル後方まで押し戻す程のものだった。
「――――」
それでも円谷が怯んだのも数秒、金平を襲うべく再び身を屈める。対する赤川はネクタイを緩め、その顔からは微笑みが消える。
「いいですよ、いくらでも受け止めてみせましょう。貴方が楽になるまで」
瞬間、円谷によるおぞましい黒煙の放出がスッとなくなり、それと同時に彼女は膝から力なく崩れ落ちた。
◇◇◇◇
(私が…………あの人を…………)
記憶が少しずつ浮かんできて、じんわりと右腕に付着した血の感触に吐き気を覚える。
これが私の血ではなく、金平さんの返り血だ。
「少しはストレスの放出も落ちついてきたな」
私は金平さんを見て、次に自分の右腕を見て、そして来見田さんの目を見た。
「金平は11歳でに入隊、メキメキと頭角を表していった。異能の練度は少々未熟だが戦闘経験は豊富。それをボコボコにするなんてなぁ…………」
「違います! あれは私じゃ――」
たしかに私だ。でも私じゃない。
記憶はある。金平さんを殴った。赤川さんを殴った。
でもそれは私の意思じゃない。私は殴りたくなんて、戦いたくなんてなかった。
「あれはお前だ。あの暴走はお前の内に潜むストレスが暴れた結果だ」
「っ……でも私はあのとき――!」
「赤川が割り込んでいなければどうなっていたことか…………あ、そうだ、ほらこれ」
来見田さんはズボンのポケットをまさぐり、何かを引き当てると、それを私に向かって放り投げた。それは見慣れた2錠のカプセル剤であった。
「負荷抑制剤……」
「ほら水、とりあえず飲め」
「は、はい」
「うっ……くっ……」
私がカプセル剤を水で流しこんだとき、遠くからうめき声が聞こえた。その声の主は、つい先程まで白目を剥いて気絶していた金平さんだった。
「金平君、急に動かないでください……!」
「ちっ……くそが……」
起き上がろうとした傷だらけの少年を制止したのは、数秒前まで彼の手当てをしていた赤川さん。
「14箇所の打撲、2箇所の骨折。咎人の回復能力があるとはいえ、しばらくは絶対安静です」
「分かっています……よぉ……」
そう言いながらも勢いよく立ち上がった。
「ずいぶんボロボロじゃないか、金平」
「…………」
「あの威勢も今思えば滑稽だな」
そこに話しかけたのは、少し離れた場所に立っている来見田さん。
この人とは出会って十数分しか経っていないが、お世辞にも性格が良いとは言えなそうだ。
「お前の必殺技だったんだろ? 過負荷なんちゃら」
「…………」
「なんにせよ、咎人になって1日も経っていない奴に負けるなんて減給ものだな。まぁ、今回はそういう条件ではないし――」
「おぃ……」
金平さんの声は少し震えている。それは痛みからくるものなのか、それとも侮辱に対する怒りからくるものなのかは分からない。
「…………」
しかし言葉は続かず、しばしの静寂が訪れた。
「……まぁ、いい。とりあえず円谷は『平衡のカルマ』に入隊、教育係は金平……ってその有り様じゃなぁ……んじゃ、金平が治るまでは赤川が教育係な」
「承知いたしました」
「んじゃあ、私は円谷の入隊に関する手続きとか諸々あるから、2人を部屋までよろしくな」
「……はい」
言いながら、来見田さんはポケットに手を突っ込んで部屋のど真ん中を歩く。半口を開けたままの私の目の前を横切り、会釈している赤川さんの脇を通り、虚ろな目でどこかを見つめる金平さんを尻目に、灰色の部屋から出ていった。
「……円谷さん、僕は先に金平君を部屋に連れていくので、ここで待っていてください」
「は、はい……」
「ほら金平君、大丈夫ですか?」
「…………」
赤川さんが差し伸べた手に目もくれず、金平さんは1人で立ち上がって部屋の出入り口へと向かおうとする。だが、力が入らないのか身体がよろめき、尻もちを着いた。
「無理をすると治りが悪くなりますよ」
赤川さんは颯爽と駆け寄り、もう一度手を差し伸べる。金平さんは下唇を少し噛んでからそれに応えた。
「――それじゃ、すぐ戻ってきますので」
私は静かに頷き、去りゆく2人の後ろ姿をただ眺めていた。




