第13話 雨下の惨状
私は小さい頃から母と2人で暮らしていた。父は物心がついたときにはすでに棺桶の中で、父との思い出はひとつもなかった。
しかし、父がいなくても不自由することはほとんどなかった。
ひもじい思いをしたことはないし、学校の教材も何一つ欠けることなく買った。流行りものもたまには手に入れることが出来た。
それは幾重に母の頑張りゆえだった。
パートをいくつも掛け持ち、家にいる時すら寝る間も惜しんで内職。体を壊さないことが不思議なほどの働きぶりだった。
そして私はそれを知っていたため、母の期待に応えられるように人一倍努力をした。
学校では常に優秀な成績を修め、中学に入ってからは部活にも入部。他人とのコミュニケーションは得意ではなかったが友達も作った。その上で家事もこなし、可能な限り母に負荷が掛からないようにする日々。
それは私にとって決して楽ではなかった。だが、苦だとも思わなかった。
学校は楽しいし、頑張った分だけ母から誉められる。
人生というのは頑張った分だけ充実する――私は常々そう思っていた。
◇◇◇◇
尼寺山伊吹は最初こそ嗚咽し絶叫する円谷灯を見てニヤニヤ笑っていたが、徐々にその表情は元通りに戻った。
男は床に落ちた万年筆を拾うと立ち上がり、円谷に背を向けた。しばらくの間、尼寺山が反対方向の壁に向かって歩いていく音だけが室内に響く。
そして、負荷武具でもあるベルトを腰に巻きながら告げる。
「今回は見逃す」
手に持っているもう一つの負荷武具――万年筆を床に投げやりに落とすと、思い切り踏みつけた。万年筆は真ん中から真っ二つに割れ、粉砕。インクは元から入っていないため、液体は一ミリリットルすら溢れ出ない。
帯革を巻き終えた尼寺山は、何の変哲もない白い壁の前で立ち止まり、静かに右手を突き出した。
「そこの少年は生きている。つまり、早く処置できればまた戦場に立てるかもしれん」
瞬間、尼寺山の右手が爆発した。正確に言うと、突き出していた右の手の平から激しい火炎が噴出し、前方に向かって爆発したのだ。
粉塵が空気に混ざり視界が開くと、そこから見えたのは外。尼寺山は自分の異能で壁に穴を作ったのだ。余裕で人が通れる程の穴から見えるのは雨模様の空で、暗くどんよりとした空気が漂っている。
穴から素早く銀行の外に出た尼寺山は不意に立ち止まり、注視していなければ気づかないぐらい浅く振り返った。
「――再び会おう、一週間後に」
尼寺山は向かいの建物の2階まで垂直跳びで到達すると、窓ガラスを割って部屋の中へと侵入した。それと同時に、雨粒がポツポツと土瀝青にシミを作り始める。
「…………」
結論から言うと、円谷は先程の尼寺山の言葉を聞いていなかった――いや、聞こえていなかった、とするほうが正しいかもしれない。
なぜなら、
「……お母さん――」
彼女は幻聴をずっと耳にしていたから。
◇◇◇◇
薄暗いアジトの廊下に3人分の足音が鳴り響く。1つは単調な足音、2つは鈍鈍とした足音、3つは消えかけの足音。
「……どうするおつもりですか?」
「どうって?」
「っ……! この惨状をですよ! 人質は全員死亡、金平君は瀕死、挙げ句尼寺山にも逃げられる! 大失態ですよ…………」
外はあれから本格的な雨へと発展し、13時とは思えないほどの漆黒が南区を覆っていた。
「案ずることはない。まだ大丈夫だ」
「まだ大丈夫……? この状況の……この状況のどこが大丈夫だと言うんですか!?」
数時間前と何一つ変わらない調子で話しているのは来見田由賀子。
一方で、感情を上手く押し殺せずに怒りを露にしているのは赤川修一。彼の歩調が少し遅めなのは、『平衡のカルマ』の戦闘員である金平進をその背中に乗せているからだった。
金平は依然として意識不明の重体だが、心臓は動いており辛うじて生きている。もし彼がただの人間だったのならとうに死んでいただろう。
「赤川、今日はやけに私に歯向かってくるな? 何かあったのか?」
「今日の由賀子さんは何かおかしい。まず、予定にない模擬戦はいつもなら却下するはずなのに今回は承諾しましたし――」
「それは円谷の咎人としての素質が見たかったからだ」
「金平君の作戦への飛び入り参加は?」
「それはあいつの情熱に動かされたのさ」
「そんな情動的な……! あなたらしくない!」
「……まぁまぁ、落ち着け。変に盛り上がっても馬鹿になるだけだ」
赤川はまだ何か言いたげだったが、ため息を吐き出す代わりにそれを飲み込んだ。
「……由賀子さんはいつだって正解の道を選ぶ。それがあなたの強さであり、僕があなたについてきた理由。だから、これもきっと……作戦成功のために必要な過程なのだと、信じます……」
「……いい子だ」
「……それで、犯人――尼寺山伊吹にどう対処するんですか?」
「東区と南区の咎人と襲ったから順番通りにいくなら次は西区かな。西区に行ってしまったのなら我々南区の咎人特殊部隊の管轄ではない。仮にまた南区に現れるとしても周期的に考えて半年後後位だろうから、対策は練れるだろう」
なんにせよ、と来見田は天を仰ぐ。
「とりあえず2人の治療だ。また活躍してもらわないといけない」
「しかし、この状態では……」
言って、赤川は視線を後方に移した。その視線の先にいたのは、自身が背負っている全身ボロボロの金平ではなく、3つ目の足音をひっそりと奏でている少女。
「お母……さん……お母……さん……」
円谷灯は無傷だった。スーツに多少の汚れはついていたものの、着ていた彼女自身にはかすり傷一つもついていなかった。金平と比べると、天と地ほどの差がある。
しかし、それは外傷の話。
「お母……さ……おぇ、ぉぇえ」
円谷が負った心傷は計り知れなかった。赤川が銀行で見つけた時にはすでにこうなっていた。
「この子は中々強いね。普通、肉親を喰ったなんて聞いたら自殺するんじゃないか? くっくっく」
「由賀子さん!」
来見田は無表情のまま笑う。抑揚などない。
「……今回あなたは本当にどういうつもりで――」
「赤川、お前は円谷を部屋まで送れ。私が金平を医務室まで運ぶ」
「…………はい」
赤川は背負っていた金平を来見田に預け、虚ろな表情の円谷と共に階段を登って消えていく。
◇◇◇◇
薄汚い白色が目覚めた彼――金平進を出迎えた。
(……どこだぁ、ここぉ…………)
黒いシミが点在している白い天井、中途半端に柔らかい地面、そして薬品と煙草の臭いが混ざり合った空気。
(……そうだ)
しかし、金平はこの部屋がどこであるかを認識するよりも先に、自分が気絶する寸前のことを思い出していた。
銀行に侵入し、雑魚を突破、その後尼寺山と対峙。しかし、人質を皆殺しされた挙げ句、負荷武具に気をとられて異能を行使された。
(ちっ! まだ戦闘は続いてんのか? あいつは無事なのか!?)
「起き上がらないほうがいいと思うが」
思わず体を起こそうとした金平を制したのは、煙草を気怠げに吸うスーツの女。少し錆びた会議椅子に腰かけ、硬めのベッドに横たわる少年の目をじっと見ている。
「……医務室で煙草を吸う馬鹿がいるとはなぁ。呆れたもんだ」
「それだけ喋れるなら問題はないだろう」
金平は爆発に巻き込まれ全身に大怪我を負ったはずなのに、不思議にも現在痛みを感じていない。また、首から下が白い布団で隠されているため、どのくらい怪我をしているのか、どんな処置を施されたのか彼には分からない。ただ、来見田は医療をかじっているため、怪我の処置をしたのは来見田だろう、と金平は考えた。
「さて、金平。“残念なお知らせその1”と“残念なお知らせその2“がある。どっちから聞きたい?」
「……はっ、くそったれが」
救いのない選択肢に思わず失笑し、ぼやく。
「どっちからでもいいから早く言え。少しでも早く回復しないといけないのに、てめぇがいたら休まらん」
そして、投げやりにそう言った。それに対してそうかい、とだけ来見田は応え、咥えていた煙草をいつもの携帯灰皿に入れた。
「まず1つ目は、尼寺山を逃がしてしまったってことだ」
「外にはてめぇと赤川さんが待機していたってのにかぁ?」
「実は1度目の大きな爆発が起きた時、赤川に裏口から銀行に入るように指示したんだ。お前らを助太刀させるために、な。しかし、それが裏目に出てしまったわけだ」
「…………」
「私の失態だ。謝罪しよう」
口では謝意を表するものの、やはり淡々としている。
「2つ目は……見てもらったほうが早いな」
「あ?」
来見田はおもむろに金平にかけられている布団を丁寧に剥いだ。
「っ……」
右腕がなかった。肩から綺麗にスッパリと切断されているところを見ると、来見田が処置したのだろう。そして、全身大怪我を負ったはずなのに不思議と痛みを感じていなかったのは、麻酔がまだ体に残っているからだった。
「仕方がなかった。それに、赤川が発見した時にはすでに肘から先はなかったそうだからな」
咎人の驚異的な治癒力でも完全に失ったものを再生することはできない。
要するに、金平の右腕は永遠に失われたままなのだ。
「…………」
「まぁ、死なないだけよかったな。それでその右腕なんだが――」
「足は」
金平は食い気味に言った。
「……右足は骨折しているが、1週間もあれば完治するだろう」
「ならいい。腕なんてどうでもいい」
右腕があった箇所から目を離す。興味が失せたと言わんばかりの表情を浮かべ、彼は自分の足をほんの少し動かした。
「足がありゃあいい。一本でも足がありゃあ、それでいい」
「足さえあれば俺は動けるし、俺は闘えるし、俺は誰かを救える」
「腕の一本ぐらいくれてやらぁ……その代わり、たっぷりお代はもらうがよぉ……」
「足がある限り――いや、生きている限り俺は闘う。罪のない人間を救ってやる」
そう言いきった金平の瞳の奥で、執念に似た闘志が燃えていた。
「…………おいてめぇ、何をニヤついてやがる」
その横では、苦笑とも微笑みともとれる曖昧な笑みを片手で隠している来見田がいた。
「いやいや、何でもないさ。くくっ、続けてくれ」
金平はベッドから起き上がって来見田をしばこうとするが、麻酔のせいで力が入らず上手く起き上がることができなかった。
「くっくっく、腕についてはまた後で話そう。お前にとってはさほど重要ではないらしいからな」
「けっ……」
「ということで、そこまで元気なんだからさっさと聞いておくことにしよう。銀行で起こった全てを、な」
「……あぁ」
金平は寝そべったまま先程の銀行での闘いについて――主に尼寺山のことを――嘘偽りなく来見田に報告した。
「負荷武具【帯革】と爆発の異能か……厄介だな…………」
来見田はどこからともなく取り出したノートパソコンに文字を打ち込みながら、尼寺山の予想以上のスペックの高さに頭を抱えているようであった。
近づくと炎の異能に焼かれ、遠ざかっても帯革の的になる。つまり、どの間合いにいても有利なのは尼寺山なのだ。
来見田のキーボードを打つ手が止まり、やがてこめかみを指でトントンと叩き始める。
「……策士め…………」
「てかよぉ、話を聞くなら俺よりあいつの方がいいんじゃ……まさか……!」
「ん? あぁ、円谷なら大丈夫。死んではいないさ」
「……別に心配なんかしてねぇよ」
「ま、精神はどうだか分からないけどね」
「…………は?」
◇◇◇◇
「――円谷さん、着きましたよ」
「……お……母さん…」
「円谷さん」
「……お母……さん……」
「…………」
円谷灯と赤川修一は、とある部屋のドアの前に立っていた。とある部屋、というのは、つい数時間前に円谷に割り当てられたあの部屋のことである。
しかし、円谷は一向に自室に入ろうとしなかった。そもそも、ここに着いたということに気づいているかどうかも怪しかった。
下を向き、母を呼び、そして時々嗚咽する。それが今の円谷であった。とても正常と呼べる状態ではない。
「…………失礼します」
赤川はそんな少女の青白い左腕を自分の元まで手繰り寄せ、鍵を開けるために扉の横の液晶に押し当てた。
「…………」
「…………」
円谷は左腕を捕まれたためか、ゆっくりと顔を上げた。そしてやっと自分の部屋の存在に気づいたのか、暗澹たる足取りで部屋の中へと入っていく。赤川もその後ろを追う。
「円谷さん、水いりますか?」
「…………」
「…………」
赤川がコップに水を汲んでいる間に、円谷は完全に塞ぎこみ動かなくなっていた。彼女は部屋に入るや否やシングルベッドに腰をかけ、床を見始めた。そして今もその体勢を維持している。何事にも無気力で無関心、どんな呼びかけにも全く動じない。
昨晩から円谷の母親は行方不明である。それが何を表しているのか、赤川は当然知っている。
(尼寺山に何をされたのかは話してくれないので分かりませんが、言動から察するに咎人になる条件――なってしまう条件を知ってしまったのでしょうね……)
咎人になってしまう条件――咎人と呼ばれる所以を知ってしまったときに彼女がどんな反応をするのか、赤川は真実を教えるのが嫌だった。だからあの時――円谷に咎人という呼び名の由来を聞かれたときに躊躇った。躊躇ってしまった。
「…………すみません……でした……」
水を汲んだコップと負荷抑制剤をベッド付近の机に置くと、彼は速やかに部屋を去る。
扉が閉まり、廊下を歩き、階下に行くための階段まで来て、
「くそっ!」
赤川は無意識のうちに壁に拳を打ち込んでいた。頑丈なはずの壁には亀裂が入り、ボロボロと欠片が崩れ落ちる。
どんな時でも冷静沈着な彼には似合わない激しい感情の昂り。
「――何が最善だ………何が平衡だ………」




