25話 神のみぞ知る
「あしが……あしが……」
なんとか這い寄ったクラリスは、男の様子に息を呑む。
呼吸は浅く早い。
焦点の合わない目は虚ろで、呼びかけにも反応が鈍い。
手首に触れると、脈は明らかに早く、その手は熱くじめりと湿っている。
「敗血症性ショックだ……」
クラリスは男の右足へ視線を落とす。
膝から下は赤く腫れ上がり、異様なほど浮腫んでいた。
「ねえ、わかる?いつからこうなの?」
「わかんねぇ……朝食の、あとから……猛烈に、いたくなって……」
男は苦しそうに顔を顰める。
クラリスは眉を寄せた。
「これはまさか……」
胸の奥がざわつく。
「診断に、もうひとつ確証がほしい……そうだ、なにか刃物は……!」
脱ぎ捨てられた袖のない白衣のポケットを漁る。
だが、紙屑や小銭しか出てこない。
「クラリス、刃物が必要なの?」
「うん……あれば確定診断に助かるんだけど……!」
その言葉に、セレンはドレスの胸元をごそごそと漁り、数秒。
その手には手のひらに収まるサイズの小さなナイフ。
「あんな家で、これくらいないと不安でしょ?」
セレンは苦く笑みを浮かべ、差し出す。
クラリスは二、三度瞬きをすると、小さく笑った。
「ふふ、さすが」
ナイフを受け取ると、赤くなったふくらはぎの外側に刃先を添える。
セレンは息を呑んだ。
「切るの?」
「うん。少しだけ……少し痛みますよ」
クラリスは躊躇うことなく、ナイフを刺し動かす。
しかし男に反応はない。
「普通、この筋膜は弾力があるんだよ」
2本の指で傷口を開く。
「でも、もし、わたしが考えてる通りなら……」
クラリスはナイフの柄を傷口へ差し込んだ。
ぐずり。
嫌な感触と共に、柄が沈む。
クラリスは目を閉じた。
そして静かに告げる。
「やっぱり……。これは壊死性筋膜炎だ」
クラリスは拳を握る。
ぐらりと視界が歪む。
が、セレンがその肩を支えた。
「壊死性筋膜炎?」
「うん。足にある筋肉を包む膜、筋膜に起きる感染なんだ。進行が極めて早くて……」
一瞬だけ言葉を飲み込み、それでも続ける。
「死亡率が高い。まず細菌を消さないと……!」
セレンは息を呑む。
「け、けれどどうやって?」
「わたしの魔法は"消去"なんだ。対象の名前と形が分かれば消せる」
クラリスは男の足に右手を添えた。
「起炎菌で多いのはA群溶血性連鎖球菌っていう、人食いバクテリアってやつなんだ」
「それなら……!」
クラリスは唇を噛み、首を横に振る。
「でもそれだけじゃない。……ルスカがいてくれたら……なんの菌なのか"顕現"でわかって、消せるのに……」
しかし、ルスカどころか今は魔法陣すら手元にない。
「魔法でアンプタ(切断)するしかないかもしれない。でも、わたしの魔法じゃ止血ができない」
クラリスは拳を握りしめた。
「それじゃ結局、助けられない……」
牢の中に沈黙が落ちる。
男の荒い呼吸だけが響いていた。
「……とりあえず、当てずっぽうでも細菌を消す治療してみよう。なにかしないと、この人は死んじゃうんだから」
ゆっくりと目を開く。
その手は僅かに震えていた。
セレンは黙ってクラリスの手に、そっと手を重ねる。
その瞬間。
「あっ!」
クラリスはパッと顔を明るくし、セレンの肩を掴んだ。
セレンは目をぱちくりとさせる。
「セレン!この赤くなってるところを"染め"てくれる!?菌が広がっていく範囲を追えるかもしれない!治療が効いてるかもわかる!」
「え、ええ。なんだかよくわからないけれど……」
セレンは男の膝の少し上、赤みの境界へ手を添えた。
光がふわりと溢れる。
やがてすらりと動く指を追うように一本の線が刻まれ、その光は静かに消えた。
「できたわ」
そう言った瞬間だった。
「……っ」
セレンの身体がぐらりと傾く。
「セレン!?」
慌てて支える。
「大丈夫……!」
だがセレンは何度か小さく頷きながら、男の足を震える指で指し示した。
クラリスも頷き返すと男の足に手を添える。
(昔、教科書で読んだ、あの団子みたいな形でありますように……!)
頭の中に菌の姿を思い描く。
そして口を開いた。
「右足のA群溶血性レンサ球菌、消去」
光が溢れる。
白い輝きが男の足を包み込み、やがて静かに消えた。
その瞬間。
「……っ!」
ぐら……!
回る視界。
身体を支えきれずクラリスはずしゃりと倒れ込んだ。
「クラリス……っ!」
焦ったようなセレンの声。
「だい……じょうぶ……」
床に手をついたまま目を閉じる。
吐き気がする。
頭の中がぐるぐると回る。
数秒。
ようやく呼吸を整え、クラリスは再び男へ視線を向けた。
「寒い……いてえ……」
男は顔を顰め続けていた。
魔法が効いたのかどうか、定かではない。
クラリスは袖のない白衣を男の上半身に被せた。
「今やれることは、やった……あとは、神のみぞ知るってやつだ……」
「大丈夫、きっと、きっとなんとか……」
セレンはクラリスの手を握った。
それから、数十分は経っただろうか。
セレンは、男の隣にぐったりと横になっている。
松明の火が揺れるたび、クラリスは男の足へ視線を向けた。
地下牢には荒い男の呼吸が響く。
「大丈夫……なんとかなる、なんとかなる……!」
クラリスが目を閉じた時だった。
「……って!!どうして踏み込んできやがったんだ、いくらなんでも早すぎる!!」
遠くから焦ったような怒鳴り声。
「わ、わかりませ……!」
「クソッ!クソッ!!このままじゃ、このままじゃ……!!」
ガチャガチャ、と錠を乱暴に開く音が地下牢に響く。
「さっさと女を引き摺り出せ!!移植先は決まったんだ、早くしろ!!」
セレンがびくりと肩を震わせる。
クラリスは庇うようにその前へ身を寄せ、鉄格子を睨みつけた。
「やりやがったな、このクソ女!!さっさと出ろ!!」
怒鳴り声と共にゲオルグが姿を現す。
先ほどまでの余裕は消えていた。
額には汗が浮かび、目は血走っている。
その隣では、部下の男が錠に手をかけていた。
「まだだ、今ならまだ間に合う……!」
ゲオルグは唾を飛ばしながら叫ぶ。
あまりの様相に、クラリスは目を見開き、息を呑む。
ガチャ……!
錠が開くと同時に、ゲオルグは牢の中にズカズカと踏み込み、クラリスの左腕を乱暴に掴んだ。
「来い!!」
そのままゲオルグはクラリスを引き摺っていく。
「……っ!」
クラリスも反射的にその手を掴み返した。
「やめて!!あなた、やめなさいよ!!」
セレンの叫びが地下牢に響いた。
セレンはゲオルグの手を振り解こうと、腕につかみかかる。
「こんなことして……!!貴族としての矜持はないの!!」
「バカ女!!こうでもしないと、この家は終わるんだ!!」
ゲオルグは片手でセレンの頭を掴む。
が、セレンもまたその手を掴み返した。
「こんな家終わればいいのよ!メイド達に手をかけて、恥ずかしい!!わたしはあんたを許さないわ!!死んでも地の果てまで追いかけてやる!!」
「この……っ!!」
ゲオルグは手を振り上げ、セレンの頬を打った。
「……!」
セレンは言葉にならない声を上げ、そのまま倒れる。
「セレン!!」
クラリスの声に、倒れ込んだセレンは顔を上げゲオルグを睨みつける。
その口角には血が滲んでいたが、その瞳は炎のように燃えていた。
「急げ!!」
クラリスの身体が、牢からずるずると引きずり出される。
(まずい、まずい、このままじゃ……!!)
ぐらりと歪む視界の中、顔を上げゲオルグの顔を捉える。
(名前と、形がわかる……!!こいつを、消すしか……!!)
クラリスが口を開きかけた、その時だった。
「クラ!!」
遠くから響く声に幾つもの足音。
同時に、ゲオルグの身体が奥へと吹き飛ばされ、その手がクラリスの腕を離す。
「……っ!」
ぐらりと身体が傾く。
もともと立っているのもやっとだった。
クラリスはそのまま膝から崩れ落ち――
床にぶつかる前に、誰かの腕がその身体を受け止めた。
「おい!!しっかりしろ!!クラ!!クラリス……!!」
腕に添えられた手。
腰を支える手。
そのどちらも僅かに震えている。
ぐるりと回る視界の中。
「……ルスカ……?」
見えたのは、黒髪と焦った顔だった。




