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24話 慈善事業



「……ぃ、おぉーい……」


反響したような老人の声が耳に入る。


「……っ……」


クラリスは瞼を開けようとして、眉間を押さえた。


目を閉じているのにぐるぐると回る視界。


それに加えて、


「なに、このにおい……!!」


鼻に飛び込む臭気に顔を顰める。


卵が腐ったような匂い。

糞尿がしばらく放置されたような匂い。


クラリスはふらふらと身体を起こすと、白衣の袖を引き裂き、鼻と口に当てた。


ゆっくりと瞼を開くと、ぼやけた視界が徐々にはっきりとし始める。


すぐそばに、赤い髪が広がっているのが見えた。


「セレン!!」


クラリスは慌てて身を寄せる。


ぐったりと目を閉じたセレンの口元に耳を近づけ、首筋へ指を当てた。


「呼吸も脈もある……」


クラリスはほっと息を吐く。

そして白衣のもう片方の袖を引き裂き、セレンの口元に被せた。


まるで船酔いのようにぐるぐると揺れる視界の中で、目を凝らす。


3面の壁はカビだらけの石で覆われ、唯一開いた側は太い鉄格子で塞がれていた。


その向こうには、どこかの松明の明かりがゆらゆらと揺れている。


(鉄格子を消す……?けど……)


『……敵の数が読めない。ここで扉を消すのは、少し賭けが過ぎるかな』


以前同じ状況で耳にしたシュヴァンの言葉が脳裏をよぎる。


(今は得策じゃない。目も回るし、セレンだっている……)


ちらと視線を走らせるが、セレンは未だぴくりとも動かない。


その時。


「……ぃ、おぉ~い……たすけてくれぇ……」


再び遠くから聞こえる老人の声。


「だれか、いるんですか……!?」


クラリスはゆっくり立ち上がる。


ぐらりと揺れる視界と戦いながら、それでもなんとか鉄格子を掴んだ。

ぬるりとしたカビの感覚。

けれど鉄格子はびくともしなかった。


「なに、ここ……」


格子の向こうを覗くと、向かいの牢屋が目に入る。

よく目を凝らすと、赤い刺繍がふんだんに入った服。

その中には、人が倒れているようだった。


「ちょっと……大丈夫!?ねえ!!」


返事はない。

それどころか、ぴくりと動きもしない。


この匂い、そして動かない人影に、嫌な汗が背を伝う。


その時だった。


「……なに、この匂い……」


背後からの声にクラリスが振り返る。


ぐるりと回る視界の中、セレンは眉を寄せ額に手を当てながらゆっくりと身体を起こしていた。


「大丈夫?それを鼻と口に当てて。ゆっくりでいいから」


クラリスはよろよろと近づくと、セレンの肩に手を添える。

セレンは布を鼻に当てながら、顔を上げ、眉を寄せた。


「ここ、どこ?それに……なにが……?」


クラリスは首を横に振る。


「閉じ込められてることしかわからない……セレン、何か心当たりある?」


「いいえ……わたし……屋敷の全てに入れてもらえないの……いたのはほとんどあの小屋だったから」


セレンがこみあげるものを堪えるように口元を抑える。クラリスがその背を撫でた時だった。


どこか遠くでがしゃんと金属の音が響く。


同時に、バタバタといくつもの足音が近づいていた。


「……おい、殺してないだろうな」

「問題ないはずです。そこに」


聞き覚えのある男の声に、セレンはびくりと肩を揺らし、クラリスの肩に手を寄せる。

クラリスは目を鉄格子から離さぬまま、背で庇った。


「……やあ、お目覚めでしたか」


鉄格子の隙間から、宝石だらけの指がぬるりと現れる。

手にもつライトに照らされたその顔は、上機嫌に口角を歪めていた。

その背後には、恰幅の良い口髭を蓄えた初老の男性が表情もなく見下ろしている。


「あなた……それに、お義父さま……!」


セレンの声が震える。


クラリスの脳裏によぎる風景。

シミひとつない真っ赤な絨毯に、暖炉には燃え盛る炎。


(こいつ、医学校の理事長……!)


クラリスは拳を握った。


「ちょっと、なによここ……向こうの人、死んでるんじゃ……」


クラリスの言葉に、ゲオルグは肩をすくめ、宝石を撫でた。


「治療の一環ですよ。我が偉大なる貴族医学校で、最善を尽くしたのです。……けれど」


ゲオルグはにやりと口を開く。


「残念ながら途中で金が尽きたそうで。金の切れ目が縁の切れ目ってやつだ」


「それで治療の途中でここに捨て置いたってわけ?大した医療技術だね!」


クラリスが睨みつける。

が、ゲオルグは気にする風もなく、宝石を穏やかに撫で続けていた。


代わりに、理事長が口髭を撫でながら口を開く。


「お妃様候補ともなると、さすがは立派な志ですなぁ……ですが、困るんですよ。民間に医学校なんて作られちゃ」


「な、なんで……」


理事長は肩を竦めた。


「安い授業料の学校なんて作られたら。市中にまともな医者なんて増えたら。どうなるんですか?我が偉大なる医学校は。医療は慈善事業じゃなりたたんのです」


「でも!市中の人は貴族の医者なんてかかれない!皆死んじゃうんだよ!?」


幼い頃、自身が発熱をだして運ばれた診療所では除霊をされ、胸の痛みを訴えて市中の診療所を受診した祖父は、祈祷を受けてそのまま旅立った。


市中の医者はまじないのレベルにすぎない場所がほとんどだった。


クラリスは立ちあがろうと腰を浮かしかける。

が、ぐらりと視界がゆがみ、立つことはかなわなかった。


「可哀想ですなぁ」


理事長の声には欠片ほどの同情もない。


「ですが、それが私に何か関係が?」


ゲオルグが吹き出す。

理事長もまた、薄く口元を歪めた。


「なんてこと……」


セレンが口元を抑える。

その声にゲオルグは顔を上げると、冷めた目でセレンを見下ろした。


「お前とも終わりだな、セレン。高位貴族との縁のための婚姻だったが……大して使えなかった」


床に唾を吐いた、その時。


「失礼します、一名入れてもよろしいでしょうか!」


焦った男の声。

それと同時に複数の足音が牢に近づく。


ゲオルグはそちらを一瞥すると、舌打ちをした。


「それはもうダメだな。いれておけ……そうだ」


そして牢の中のクラリスを見て、口角を吊り上げた。


「ここには国王陛下直々に認められた大先生がいる」


ゲオルグは高らかに笑う。


「治療でもしてもらえ」


「はっ!」


牢の扉が開かれる。


担がれていた男が、どさりと投げ込まれた。

ゲオルグは冷たく牢の中を見下ろした。


「あの時、やめておけばよかったんですよ。まさかあれが王子殿下だったとはね。だからこそ見逃したというのに」


「あ、あの誘拐もあんたが……!」


「ですが今回は違う」


ゲオルグはゆっくりと舌舐めずりをした。


「お前たちの使い道はもうすぐ決まりそうだ。それまでせいぜい、慈善事業に励んでくだされ」


ゲオルグは踵を返す。

笑い声だけを残して、その姿は闇へ消えた。


理事長はしばらくクラリスを見下ろしていたが、やがて何も言わずに後を追った。


投げ込まれた男は、苦しそうに呻いていた。

クラリスは這うように近づく。


「あしが……あしが痛いんだ……」


クラリスはその足を見て、息を呑んだ。

異様な赤みが、膝の上まで広がっていた。

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