22話 あんなに近くにいるのに
指揮者が息を吸う音さえ響いたホールには、今は優雅なワルツが流れる。
舞台を囲むように見守る貴族、とりわけ令嬢たちが、その中心を舞う二人を見る温度は様々だ。
(……綺麗)
フィーリアはそっと頬に手を添える。
視線の先にはいつものように微笑むシュヴァンと、笑顔がぎこちないクラリス。
(お姉様、本当に、お綺麗ですわ……)
目の前を、クラリスがくるりと回りながら通り過ぎる。
魔物を倒すことができるほど勇敢で、平民の女性にも優しい王子様と、魔法陣の開発に寄与し、なお身を粉にして働く民間初の女性医師。
誰が見ても、美しい物語。
けれど、なにかがちくりと胸を刺す。
(お姉様、緊張していらっしゃるわ……けれど、それだけではないみたい)
フィーリアはクラリスから目を離さなかった。
クラリスはどこか必死だった。
失敗してはいけない、恥をかかせるわけにはいかない。
まるで、そんなような。
(わたくし、お姉様のことが、本当に大好きだわ。
あの方のためだけに、女王になりたい。ですから、お姉様が、お兄様と結ばれることをお望みならば身を引きましょう。けれど……)
視線の先のクラリスの笑顔は、フィーリアが見てきたそれとは違っていた。
(お姉様、楽しそうには見えないわ……)
脳裏をよぎる、診療所でだらけるクラリス。
ローストビーフがおいしいと両頬を膨らませたクラリス。
カレルに叱られしゅんとするクラリス。
そしてなにより、自分をおんぶして毎日庭に運んでくれたクラリス。
あの笑顔に、何度救われたのだろう。
(お兄様は、きっとご存知ない……)
シュヴァンの視線は確かにクラリスに向いている。
(お兄様は、なんだかお姉様を見ていらっしゃらないようだわ)
あんなに近くにいるのに。
どこか別の何かを見ているような。
(わたくし、いやだわ。こんなの、見たくない……)
フィーリアが目を伏せたその時。
音色は止まり、ホールは拍手に包まれた。
クラリスはほっとしたように一礼する。
その瞬間。
「殿下」
一人の令嬢が進み出た。
「わたくしとも、踊っていただけますか?」
シュヴァンは穏やかに微笑む。
そして、迷うことなくその手を取った。
舞台を足早に降りたクラリスは、息つく間もなく取り囲まれていた。
「お初にお目にかかります。わたくし、クレーフェ家当主のアドルフと申します。何卒お見知りおきを……」
「わたくしはモンベリアル家当主ニコラウスにございます。いやはや、お目にかかれて光栄です」
「レンズブルク家といえば昔から薬草を取り扱っておりまして。どうぞ御贔屓に……」
次々と交わされる挨拶。
クラリスは笑顔を貼り付けながら、口元をひくつかせていた。
(さっきまで存在を無視というか、平民だなんだ悪口言ってたくせに……)
取り囲む貴族たちはうっすらと笑っている。
(ど、どこかから逃げなきゃ……)
クラリスは見回しながら、一人の男性に目が止まった。
(あっ、股間染め男だ!)
視線が合った瞬間、男の顔がぱっと明るくなる。
(まずい……!)
クラリスが目を逸らした時には既に遅く、男は前にいた男を半ば押し退けるようにして、クラリスの前へ進み出た。
「ヴェサリアン家の当主代行、ゲオルクにございます。以前、学校でお会いしましたな?」
ゲオルクが差し出したその手には、いくつもの大きな宝石が光を受けてきらきらと輝いている。
(あれ……学校って……まさか……)
脳裏に浮かぶ、真っ赤な絨毯、燃え盛る暖炉、そしてシャンデリア。
「あ、あなた、あの時の……!」
クラリスが目を丸くすると、ゲオルクは満足げに頷いた。
そして、その手を強引に取る。
「これは光栄ですな。まさか次代のお妃様候補に顔を覚えていただいていたとは」
ゲオルクは周囲の貴族を牽制するかのように視線を走らせる。
「それで……進んでおられますかな、あの件は」
「え、ええ。おかげさまで」
強く握られた手に、クラリスは一瞬眉を寄せた。
(あなたの奥さんのセレンがその第一号候補です、なんて言えるわけないよね……)
苦笑いを浮かべた、その時。
「おやおや、クラリス様。わたくし目にもお目にかかるお時間をいただけませんかな」
隣から恰幅のいい男が割り込むように声をかける。
その瞬間、ようやくクラリスの手が解放された。
クラリスは小さく息を吐くと、ゲオルクへ一礼し、今度は隣の男へ向き直った。
それから、何人もの、何十人もの貴族たちと挨拶を交わし、もはや貼りついた笑顔すら戻せなくなり。
「クラリス嬢、本日は御立派でした。……では」
気づけばカレルに馬車に放りこまれ、クラリスははっと我に帰った。
(肉なんて全然食べられなかったじゃん!!!)
どさりと座席に倒れ込む。
髪飾りがかしゃんと音を立てた。
(疲れた……もう、何にも考えたくない……)
瞼を閉じる。
あのダンスの後。
シュヴァンはクラリスと顔を合わせることはなかった。
『クラリス、ここへ』
あの声が、すぐ耳元で聞こえた気がして、クラリスはぎゅっと瞼に力を込めた。
(まさか……いや、そんな訳……)
否定したい。
けれどできない。
客観的に見れば、誰がどう見ても、"そういうこと"だった。
(もうやだ……医学校だって魔法陣だって診療所だって、やること、いっぱいあるのに……)
クラリスはそっと瞼を開ける。
ランプの中で燃える炎が、馬車の揺れに合わせて揺れていた。
(いまは考えられない。……考えたくない)
けれど。
『ちゃんと逃げないで。自分のこと、考えてほしい。このままだと、きっとクラは傷つくよ』
『ちゃんと、考えておけよ』
二人の言葉が何故か頭から離れない。
クラリスは大きなため息をついた。
(ああもう。今は恋愛なんて、してる暇ないのに)
けれどその音は、車輪の音に混じって消えた。




