17話 薔薇の香り
「おい。おーい。クラリス?だめだこりゃ」
ミュラーが大きくため息をつく。
ぽかんと口を開けたクラリスは、カップを手にしたまま一点を見つめていた。
『傷ついてほしくないんだよ。君のことが、誰よりも大切だから。好きだから』
ヴィルの言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返される。
(いやいや、まさか……だって、わたしだよ?)
クラリスはカップを口元へ運ぶ。
(だらしなさで近所でも名を馳せてる、このわたしだよ?……そんなわけない)
ずず、と紅茶を飲み――
「あつっ!!」
びしゃりと胸元に紅茶が落ちた。
「うわっ、最悪……!」
慌ててスクラブを引っ張る。
その瞬間。
(いつもなら、こんな時……)
『も~、クラ大丈夫?気をつけないとだめだよ?』
優しく差し出されていたタオル。
けれど、もうない。
クラリスはぐいとカップを傾けた。
自分で淹れた紅茶は、妙に熱くて、おまけに渋かった。
(ほんとにヴィル、行っちゃったんだ……)
込み上げるものを誤魔化すように俯き下唇を噛んだ、その時。
ぽん、と頭に手が置かれる。
「……お前にも人間らしい感情あったんだな」
「どういう意味!?ミュラー先生!」
「そのまんまの意味だ」
豪快な笑い声をあげながら診察室に向かうミュラーを、クラリスはじとりと睨む。
ルスカとアニはちらと目を合わせ、それから小さくため息をついた。
夕焼けの光が優しく診療所の窓から差し込んでいる。
診療を終えたルスカは橙に染まった廊下を歩きながら、ふとクラリスの診察室の前で足を止めた。
(あいつ、あんな様子だったが……)
そして中を覗き込み――
「お前、なんだこれは……」
絶句した。
デスクの上には未記入のカルテの山に、何個も置かれたカップ。それに、キャンディの包み紙。
その真ん中で、クラリスは机に頬を押しつけたままぐでんと潰れていた。
ルスカに気づくとひらひらと手を振る。
「あ、ルスカ。……おつかれー。早いんだね」
「早いんだねじゃない。なんだこのザマは?」
「えー?あー……ヴィルが片付けてくれてたもんな、いつも」
ゆっくりと身体を起こし、カップを手に取ると、少しだけカップを寄せた。
「貴様の腑抜けた生活は、前から気になっていたんだ……」
「へ?」
ぼそりとおちた声に、クラリスが顔を上げる。
ルスカは口角を吊り上げた。
その笑みを見た瞬間、クラリスの背中を冷たいものが走る。
「ヴィル不在の今、貴様のその根性――叩き直してくれる!!」
クラリスは息を呑み、じり、と後ずさった。
「さっさとカルテを書け!!」
「はいっ!!」
「書類は整理しろ!!」
「どこに何あるか分かってるもん!!」
「黙れ!」
「白衣はハンガーだ!!」
「椅子の上でもいいじゃん!!」
「袖が床についている!!」
「うっ……」
「カップを洗え!!」
「ひえぇぇぇ……」
ようやく診察室が片付き、いつもより厳しめなダンスの練習も終わった頃。
ようやく戻ってきた休憩室には、ミュラーもアニもいなかった。
「お腹すいたよぉ……」
クラリスがどさりとソファに倒れ込んだ、その時だった。
ふわり、と薔薇の香りが漂う。
「失礼いたしますわ、お姉様!」
鈴を転がすような声に、クラリスが顔を上げる。
そこには満面の笑みを浮かべたフィーリアが立っていた。
フィーリアはすぐにクラリスのもとへ駆け寄り、ソファの横へしゃがみ込む。
背後ではカレルが静かに礼をしていた。
「フィー!どうしたの?」
「夕食をともにしたくて。お姉様のお気に入りのローストビーフサンドをお持ちしましたの!」
「えっ、ほんと!?」
がばりと身体を起こすクラリス。
フィーリアがにこりと微笑み片手を上げると……ぞろぞろと入ってくるメイド達。
(何度見ても慣れないな……)
クラリスはルスカと目を合わせ、それからただ口を開けていることしかできなかった。
「ご馳走様~」
クラリスは最後の一口を飲み込んだ。
「いつもながらなんて美味しいんだろ……ルスカの鬼シバキのあとだから余計沁みたよ」
「鬼……?」
フィーリアは不思議そうに首を傾げる。
その時。
ごほん。
ルスカの咳払いが響き、クラリスは慌てて背筋を伸ばした。
「あら、お姉様」
フィーリアは嬉しそうに目を細めると、そっとナフキンを手に取った。
そして自然な仕草で、クラリスの口元を優しく拭う。
ふわり、と薔薇の香りが鼻先をくすぐった。
「あ、ありがとう。ねえ、この香り……」
クラリスが尋ねると、フィーリアはぽっと頬を染めた。
「お気づきになられましたか?」
「最近よく嗅ぐんだよね。この香り。流行ってるの?」
フィーリアは目を丸くする。
「あら、わたくし、存じませんでしたわ」
「患者さんでも何人かいてさ。もっと強い香りだったけど」
「そうなのですね」
フィーリアはくすりと笑うと、椅子へ座り直した。
「これは、わたくしが特別に作らせたものですの。以前、お姉様がいらした時に、薔薇がとても綺麗に咲いていたでしょう?」
頬に手を添え、うっとりと目を細める。
「あの日、とても楽しかったわ。だから、思い出を残したくて……薔薇の香水を作らせましたの」
「そ、そうなの……!?」
「ええ」
屈託なく笑うその姿に、クラリスはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
ちらりとルスカを見るが、特に驚いた様子はない。
(普通なんだ……さすが国家の中枢……)
クラリスは頬を引きつらせながらも、ふと思い出したように口を開く。
「でも、同じ香りだったよ?もっとこう……きつい感じだったけど」
クラリスが首を傾げたとき、カレルが静かに前に出る。
「フィーリア様は社交界の華です。フィーリア様が身につけられたものは、社交界の貴婦人達がすぐに手に入れたがるのです」
「でもさ、フィーが使うようなものでしょ?相当高いんじゃないの?」
脳裏に浮かぶのは、あのメイドたちの姿。
フィーリアはきょとんと首を傾げた。
「そうなのかしら。どうなの?カレル」
「……王室御用達です。それだけでお分かりでしょう」
「……だよねぇ……」
クラリスは顎に手を当てる。
(それを、一介のメイドが買えるものなのかな……?それとも、セレンがメイドに与えたとか……?)
脳裏に浮かぶセレンの姿。
化粧気のない彼女からは、香りもしなかった。
「そんなことより、お姉様」
フィーリアがそっとクラリスの手へ触れる。
「ヴィルさんのお話、聞きましてよ。寂しくなりますわね……」
「……うん、寂しいよ。七歳からずっと一緒だったしね」
そのまま手を返し、フィーリアの手を握り返す。
「でもさ……」
クラリスはちらりとルスカを見ると、そっと腰を浮かせた。
そしてフィーリアの耳元へ顔を寄せる。
「ルスカが、“貴様の生活を正してやる”とか言って鬼みたいに怖いんだよ。フィーからもなんとか言ってよ」
「まぁ……!」
フィーリアは目を丸くしたあと、堪えきれず笑い声を漏らした。
その隣で、ルスカが盛大にため息をついていた。




