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16話 自分のこと、考えて



「こ、国軍……!?」


月が照らし始めた診療所に、綺麗に四つの声が重なる。ルスカでさえも、本から瞳を上げた。


荷物を鞄に詰め込んでいたヴィルの手が止まり、小さく笑う。


「うん。国軍。遠征先で、国の医官について勉強させてもらえることになったんだ」


ヴィルは視線を落としたままだ。


「う、うそでしょ……」


クラリスが呆然と呟いた。


「まあ……軍は勉強にはなる。俺もそうだったが、なんせ外傷が多いからな……で、いつからだ?」


ミュラーはがしがしと頭を掻く。


「明日です」


「明日ぁ!?」


またも声が重なる。

ヴィルは視線を落としたまま、もう一度笑った。


「おまえ、また急だな……」


「ついさっき決まったんです。……シュヴァン王子殿下の、御命令で」


その声に、わずかに息が混じる。







あのあと。


『提案がある』


シュヴァンの話は、ヴィルにとっては青天の霹靂だった。


『国軍の遠征に従事しないか?国軍には国の最高峰の知識を持つ医官たちがいる。必ず君の学びとなるだろう』


国軍はヴィルとて知っていた。


医師の中でも、最高峰の知識を持つと認められた者のみが従事できる。

しかし民間の医師の殆どは該当しないし、そもそも希望しない。


『君はミュラー医師とクラリス嬢の下で勉強してきただろう?その資格はあるはずだ。それに……』


シュヴァンが、ヴィルの瞳を覗き込む。


『君だって、望んでいるんじゃないか?いつまでも、彼女の下にいたくはない、そうじゃないか?』


ハッと息を呑む。


(それは、ずっと考えてた……)


シュヴァンはその様子を見て、楽しげに笑みをこぼした。


『職場に迷惑がかかると考えているのかな。それならば、僕の命令と言えばいい。なに、嫌われるのには慣れている』


穏やかな声。


けれど、その瞳だけはまっすぐヴィルを射抜いていた。


『返事はyesだね?——じゃあ、明朝』


そう告げると、シュヴァンはくるりと背を向ける。


赤いマントが翻り、その姿は兵たちの間へと消えていった。






ヴィルは最後に白衣を鞄に詰めた。


「わ、わたし、ヴィルがいなくなるなんて、考えたことも……」


クラリスは目を泳がせながら、落ち着かないように指を弄る。


ようやく顔を上げたヴィルは、少しの間その様子を見つめ、それから静かに鞄のチャックを閉めた。


「いつまでなの?危険はないの?大丈夫なの?」


「わかんない。でも……医官は最前線には行かないってきいたことあるよ」


「でも……っ!」


ばん、と机を叩く音が響く。


はらりと床へ落ちた紙を、ミュラーが拾い上げた。


「大丈夫だ。俺も国軍は従事した。医官は最後方に配備だ。貴重な資源だからな。それに今は内戦もねえ。危険なことはねえだろうよ」


ミュラーはクラリスと、それからヴィル、それぞれの頭に片手をのせて荒々しく撫でる。


「……よく決断したな。ヴィルの門出だ。決意を揺るがしちゃ、可哀想だろ?」


「そうだけど……!」


「なんだお前、寂しいのか?十年以上も一緒だったもんな!」


バシリ、とミュラーの手がクラリスの背中を叩く。


「大丈夫だ!男にはな、やらなきゃなんねえ時がある!ヴィルはやれる男だ!」


豪快に笑うその背を、クラリスは乱れた髪を整えながら、じろりと睨んでいた。







翌朝。


猫一匹いない通りに、冷えた朝の空気が満ちていた。


「クラがこんな時間に起きられるなんて思わなかったな」


診療所の前には、ヴィルとクラリス、ふたりの姿。


ヴィルは大きなリュックを背負い、静かに診療所を見上げていた。


「おかあさんに頼んだからね。起こし方が、それはもう怖かった」


「それは怖いだろうね」


おどけながら両腕をさするクラリスに、ヴィルは笑みをこぼす。


けれど、その視線は診療所から離れない。


「ルスカも来られたら良かったのにね。寝坊なんて珍しい」


「そうだね……」


ヴィルはそっと目を伏せた。


(きっとルスカは、もう起きてるよ、クラ)


リュックの肩紐を握る手に、わずかに力が入る。


ヴィルは小さく息を吸うと、ゆっくりクラリスへ振り返った。


「じゃあ、僕行くよ。ちゃんと、ご飯たべるんだよ?夜更かしもだめ」


「わ、わかってるよ。わたしのことなんかより、ヴィルでしょ!……怪我、しないようにね」」


途中から声が震える。


クラリスは思わず顔を上げた。


いまにも涙がこぼれそうだった。


ヴィルは何度か瞬きをして、それから優しく微笑んだ。


「うん。……ありがとう」


ぐす、と鼻を啜る音が響く。


ヴィルは少しの間視線を泳がせ、それからクラリスを見つめ、一歩前へ出た。


「あのねクラ。ちゃんと、考えなきゃダメだよ?色々」


「え……?なんのこと……?」


クラリスが顔を下ろす。


ぱちぱちと瞬きを繰り返すその様子に、ヴィルは小さく息を吐いた。


「クラはさ、昔から忙しくしてるよね。やだ、働きたくないって言いながら、誰よりも人のために頑張ってて。僕、本当に尊敬してるんだ」


「ヴィル……」


「だからこそ、ちゃんと逃げないで。自分のこと、考えてほしい。このままだと、きっとクラは傷つくよ」


「だから、なんの……わたし、ちゃんとやれてるし、考えてないことなんてないよ」


「考えてない」


「考えてる!」


思ったより大きな声が出たことに気づき、クラリスはさっと目を逸らした。


ヴィルは眉を下げ、困ったように笑う。


それでも、ゆっくりとクラリスへ歩み寄った。


そして右手を上げ、そっとクラリスの頬へ触れる。


クラリスの瞳が、わずかに揺れた。


「君がいたから、僕はここまでこれた」


ヴィルの声は静かだった。


「傷ついてほしくないんだよ。君のことが、誰よりも大切だから。好きだから」


ヴィルはさらに一歩近づく。


そして、その唇を、クラリスの頬へそっと寄せた。


「……っ!?」


クラリスの目が大きく見開かれる。


ヴィルはゆっくりと唇を離すと、真っ直ぐクラリスを見つめた。


「僕の言ったこと、忘れないで」


ヴィルはくるりと背を向ける。


朝の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくりと一歩を踏み出した。




その背後で、クラリスはただ動けなくなっていた。

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