7話 推しと好き
その日、月が顔を見せ始めた頃。
診療所の扉には"close"の看板がかけられていた。
「おつかれさまー!先生たち!」
ハンナは元気よく帰っていったというのに。
「うぅ……全然終わんない……」
クラリスは休憩室のカルテの山を前に、頭を抱えていた。
(明日、シュヴァンと出かけるのか……)
あの微笑みを思い出すだけで、手が止まる。
(長年の推しとお出かけ……推し扱い、やめないと……でも……)
今日は終始この調子で、診察の合間にカルテを書き終えることができなかったのだ。
そうして閉院した今も残務に追われていた。
ことん、と音がして、クラリスの前に湯気の立つカップが置かれる。
南国の茶葉を仕入れたらしく、トロピカルな香りが鼻をくすぐった。
「ありがとうヴィル」
クラリスが顔を上げると、ヴィルは小さく笑って、またテーブルを拭き始めた。
部屋の隅ではルスカが本を読み、ミュラーも頭を掻きながら書類を睨んでいた。
その時、クラリスの正面の椅子が引かれる。
「まだ終わんないの?」
アニだった。
すぐさま目の前の紅茶をひと口飲む。
「まあね……やっと半分終わったとこかな……電カルが懐かしいよ……」
「電……?」
アニは眉をひそめたが、すぐに興味をなくしたように肩をすくめる。
「早く終わらせなよ。明日デートなんでしょ」
「デ……!?」
その言葉に、診療所の空気が凍る。
ヴィルの手が止まり、ルスカの視線の動きも止まった。
アニはその反応を満足そうに眺めると、クラリスへ視線を戻した。
「ち、違うよ!護衛もいるだろうし、ただの学校見学。仕事だよ」
「でも、あのお忙しい第一王子殿下が、わざわざ君のスケジュールにあわせて予定を作ってくださったんだよ?」
アニはカップをゆっくり置く。
「普通じゃない」
クラリスはペンを置いて目を彷徨わせる。
「でも。デートとかじゃないよ。医学校が、気になるんでしょ。だってあの日だって……」
思い出そうとして、ずきりと頭がいたむ。
(なにかを、思い出しそうなのに……?)
クラリスはこめかみを抑える。
「ねえ。なにがあったの?あの日。あれから明らかに変じゃん」
「なにがって……」
クラリスは書いている途中のカルテに視線を落とす。
「目が覚めたら、シュヴァンを腕枕してて……」
「ぶっ……」
ミュラーが吹き出し、顔を上げた。
「なんだそりゃ?」
「笑わないでくださいよ。わたしだってわけわかんなかったんですから」
クラリスはむくれながらも話を続ける。
「目を覚ましたシュヴァンにナイフ突きつけられて、休んだらって言われて、どっちが休むかじゃんけんしてわたしが勝って……ルスカがきてくれた」
「わけわかんないんだけど」
眉を寄せるアニとミュラー。
「それがなんで名前呼ぶことになるわけ?」
「あ、それは……」
クラリスはぽんとこぶしで手のひらを叩く。
「王子様の話になって……」
ちら、とルスカをみる。
目があったルスカはすぐにページに視線を戻した。
「ひょっとして、だれも名前呼んでくれなくて、寂しかったりするのかなって」
「……それは、そうなのかもね。特に、殿下は」
アニは小声で呟くと紅茶の液面を見つめ、くるりとカップを回す。
が、すぐに顔を上げた。
「それで、好きなの?」
一瞬の静寂。
ばさばさっ。
「あっ!!ご、ごめんなさい……!」
慌てるヴィルの声。
ミュラーの書類の山が崩れ、ヴィルはそれを拾い始める。
「あのねアニ。推しと好きは違うの」
クラリスはペンをアニに向ける。
「推しはね、雲の上の人なの。顔見たら幸せになるし、声聞いたら耳がふわっと浮く。きゅんとする。幸せであれって思う。みんなの幸せ」
「もうこの時点でわかんねえ」
ミュラーは眉を寄せる。
「でもさ、好きは……」
クラリスは視線を上に向ける。
(わたしだって、前世では告白してもらって、付き合ってた人くらいいたよ、でも……)
クラリスはペンを強く握る。
(仕事があまりに忙しくて考える余裕もなくて……気づいたら結婚してたんだよな……相手)
ゆっくりと視線を戻す。
「バグだよ。……どうでもよくないことが増えるじゃん」
クラリスはカルテの端にぐしゃぐしゃと黒丸を描く。
ペン先が紙に引っかかり、かり、と乾いた音がした。
――一瞬、何かが浮かびかける。
けれど。
次の瞬間、ペンを強く走らせて塗り潰す。
「は?」
アニはぽかんと口を開け、
「どういう感情なのそれ?おじさんわかんなくて怖い」
ミュラーは追い詰められた小動物のような顔でクラリスを見る。
「最年少の僕もわかんないけど」
アニはため息をひとつつく。
「でも、その推しとやらが好きって言ってきたらどうすんのさ」
「そんなことはありえないよ、わたしだよ?」
クラリスはへら、と笑いカルテに"再診指示"と書き足す。
「推しと好きは違うの。推しと自分がどうこうなるなんて考えないよ。おこがましいっていうかさ。推しは一生幸せでいてほしいし、そういうもの」
「若い子こわ……なにその感情……」
ミュラーが呟くのを他所に、アニは視線を走らせる。
ヴィルは書類を拾ったまま顔を上げず、ルスカは本を開いたまま視線を止めていた。
「まあいいけど。クラ、気をつけなよ。国で初めての女医で、かつあのシュヴァン王子殿下に目をかけられてるって評判なんだから」
アニは真っ直ぐクラリスを見つめた。
クラリスは息を呑む。
「……シュヴァン王子殿下の元婚約者たち、みんな自ら辞退したんだから」
「ねえフラグ立ててる?わたし死ぬ感じ?」
震える声が診療所に響く。
クラリスは書き終えたカルテを脇に寄せた。




