何度目かの風邪の日
それはとある夕方の診療所。
ぞくり。
クラリスの背に、突然確かな感覚が走った。
「……!こ、これは……久しぶりの……!!」
クラリスはばさばさと本を鞄に詰め込むと、颯爽と立ち上がる。
「悪寒、関節痛、後鼻漏、そして腹部違和感。……年齢、わたしに基礎疾患ないことを考慮すると、これは、ウィルス性感染症による発熱の予感です。……ミュラー先生、わたしが明日出勤していなければ……あとを頼みます」
きりっと顔を整えると、敬礼して、その手をひらりと投げると部屋を出た。
「……どういうことなんだよ……」
ぱたんと扉の閉まった部屋に、ミュラーの呟きだけが虚しく響いた。
その夜。
「ほらね……悪寒は、発熱の一番重要な予測因子なんだから……」
クラリスはベッドサイドのテーブルの上のコップの水を飲み干す。
その頬は赤く、息は荒い。
額には汗が滲む。
「ちょっとクラリス〜?一人でなにぶつぶついってんの、大丈夫なの?」
母の声がドアの向こうから響く。
「大丈夫だよ、うつるから誰も部屋に入らないでね、ヴィルもいれたらだめだからね」
クラリスが弱々しくもそういうと、ドアの向こうからはため息が一つ。
「も〜変わった子なんだから。なんかあったら言いなさい!いいわね!」
「は〜い」
足音が遠ざかるころには、クラリスの瞼はもう重くなっていた。
(熱か……久しぶりだな……そういえば、高梨の頃死ぬ少し前にもあったな……)
その瞼が、完全に閉じた。
がやがやと騒がしい居酒屋の一角。
若手の医師たちの集まりに、高梨も呼ばれていたのだ。
みな顔を赤く染め、饒舌に話も進んだとき。
一人の外科医がドン、とジョッキをテーブルに置いた。
すっかり出来上がった顔で、にやりと笑う。
「みんな、知ってる?」
そのやや据わった目つきに、席の皆の注目が集まる。
「インフルはね、罹ったとしても、検査しなければ罹患したことにならない。つまりは、無限に働きつづけられるんすよ……!!」
「ちょっとなにそれ、そんなんしたら過労死するって」
高梨は笑いながらジョッキに口をつける。
ぬるくなったビールが喉を通る。
だが、気になってはいたのだ。
(こいつ、めっちゃ咳、してるよな……?)
それから五日後。
インフルエンザは若手の医師たちを沈めた。
もちろん、高梨も例外ではなかった。
そしてさらに一週間後、医師全体カンファレンスに現れたのは顔を真っ赤にしたICT(感染対策チーム)の鬼怖看護師長。
「先生たち!!熱出たら、仕事はちゃんと休んでください!!迷惑です!!!」
高梨は顔が見えないようにそっと書類を掲げた。
耳元で響く食器の音に、クラリスはゆっくりと瞼を開く。
「……?」
ぼやけた視界に飛び込む。
頭に白い帽子。
口元には白いマスク。
手首から膝下まで覆うエプロン。
更には手袋まで。
完璧な防備の人影だった。
「あ……」
「あ、起こしちゃった?」
「ICT!!ごめんなさい!!広めたのはわたしではありません!!」
クラリスはがばりと起き上がると、ぺこぺこと頭を下げる。
「……一回おちつこ?」
「隔離期間も厳守します!!解熱後二日は自宅待機!!」
「……なにと戦ってる?」
その聞き慣れた声に、クラリスは目を凝らす。
「……ヴィル?」
そこにいたのは、完璧なスタンダードプリコーションを実施したヴィルだった。
ヴィルは困ったように笑みを浮かべると、頷いた。
「体調はどう?熱、下がった?」
ヴィルは一度クラリスの額に手を当て、それから手袋を外しもう一度手を当てる。
クラリスの額がひやりと冷える。
「わ、まだ熱いね……口開けて?喉真っ赤だよ……後鼻漏もあるし、いわゆる"風邪"だね」
クラリスはこくりと頷く。
ヴィルは以前クラリスが開発したアルコール消毒液、キンキエールを手に揉み込むと、再び手袋をはめた。
「これ、みんなからだよ。みんな、とっても心配してたんだから」
そう言ってヴィルは袋から取り出していく。
「ミュラー先生から、薬。"すげー苦いが苦くないもんは効かねえんだ"だって。これは、ルスカから本。ルスカったら、熱の時こんなの読めないよって言ったけど」
ヴィルは笑いながらベッドの上にいくつかの薬包と分厚めの本を置く。
表紙には『過去の歴史から学ぶ偉大なる帝王学』とある。
クラリスはそっとその本を裏返した。
「アニから栄養ドリンク。凄い高級なんだって。一本でクラリスのとこのパン全部買えるって言ってた。フィーリア姫からはパジャマ。見るからに高そうだよね……」
「あ、ありがたいよ……なんかいただくの怖いけど……」
ヴィルはどろりとした何かが入った瓶と深緑色のパジャマを掲げるように持ち上げ、そっと置いた。
「それから、シュヴァン王子からも届いてて……」
「えっ!?」
クラリスはベッドの上に正座をする。
「スティックディフューザー……?なんかよく眠れる香りらしいよ?」
ヴィルは恭しくそれをテーブルに置き、瓶の蓋を開けるとリードを刺す。
とたんに部屋に香りが漂った。
「なんかわかんないけど花の匂いする……なにこれ一生大事にする……」
クラリスはベッドから降り、テーブルのリードに鼻を近づける。
が、ヴィルにぐいと肩を押されベッドに座った。
「もー、熱あるんだから、大人しくして。それで、僕からは……」
ヴィルはベッドにトレーを置く。
「あっ!いつものやつ……!!」
クラリスの目が輝く。
鍋の中に湯気の立つお粥があった。
「大変だったんだよ?いつもの店にお米なくて、何軒も回ったんだから」
ヴィルは鍋からお粥をよそうと、クラリスの前にそっと差し出す。
「いつもありがとうヴィル……わたしこれないと乗り切れないの」
クラリスは匙ですくうと少しずつ口に入れる。
お米の旨みと塩が体に染みる。
「いい加減パン粥に慣れたらいいのに」
「無理。わたしあれだけはちょっとだめ」
クラリスの脳裏にパンをミルクで煮込んだあのパン粥が浮かび、顔を歪めて首を振る。
ヴィルはマスクの下でくすりと笑う。
(出会ってから、クラが初めて熱を出した日だったな……)
ヴィルの脳裏に浮かぶ幼いクラリス。
彼女の母に
『パン粥食べなさい』
と怒られても、
『胃が受け付けない米しか食べられない』
と頑なに口に入れなかった。
(それで、僕がお米を探しに行って……)
なんせこの国の主食はパンだ。
米は他国からの輸入品であり、なかなか出回らない。
「美味しいな〜、風邪の時はこれに限るよ〜。これのために風邪ひきたいもんね」
クラリスがへらりと笑うと、ヴィルは困ったように笑い、コップに水を注いだ。
「ふざけてないで、いっぱい食べて、寝るんだよ?それから、食べた後は置いておいてね。早く復帰してもらわないと、みんな困るんだから」
「は〜い、ありがと、ヴィル!」
少し張りの出た声を背に、ヴィルは部屋を出る。
(あと、どれくらいこの役割をやらせてもらえるのかな……)
ヴィルは目を閉じ笑みを浮かべると、手袋を外した。




