23話 ただのメイドです!
「俺とも、楽しいことしようよ?」
その言葉とともに腰を抱かれる。
気づけばクラリスは、先ほど着替えたばかりの、広間前の小部屋に立っていた。
「おーい。メイドちゃん。違うか、クラリス嬢?」
王子が目の前で手をひらひらと振り、クラリスははっと我に帰った。
「な、何が起きたかわかんなかった……軽薄な男にナンパされる夢だったか……」
「夢じゃないよ~?失礼だね?きみ」
王子は軽く肩をすくめながら、クラリスの腰に手を添えたまま、もう片手をその頬に添え、すすっと手を滑らせる。
かっと、頬に熱が集まった。
(ひ、近、ぜ、前世でもこんな……!!)
「あぁ、ごめんね?経験ないんだ……可愛いね」
顎をくい、と持ち上げられる。
その瞬間、部屋の隅で、がたん、と何かが落ちる大きな音がした。
けれど王子は、そちらに目を向けることもなく、ただクラリスの瞳を覗き込んでいる。
「それでさ。何をしてたの? さっき」
低く、探るような声。
「それに、君って……あのシュヴァンの、何?」
「な、なん……」
クラリスは思わず視線を泳がせた。
(ま、まさかワタンボの生食食べたら感染するから消した、とは言えないし、下手したら戦争だし……!!シュヴァン王子は最推しですが……あ、それか!!)
肌をぱちとわずかな刺激が走る。
クラリスは意を決して、まっすぐに王子の瞳を見返した。
「わ、わたしは、シュヴァン王子のファンでして…ウインク送ってたんです」
「なるほどね……?」
王子は少しだけ目を細めた。
「もしかして君。シュヴァンが言ってた、医者、かな?」
「えっ……!?」
思わず、声が裏返る。
(ば、ばれてる…?なんで…!?戦争……!?)
「そ、そんな馬鹿な、ただのメイドですよ。仕事が推し活兼ねてるなんて最高でしょ?」
王子はふっと笑った。
まるで、全てわかっているとでも言わんばかりの、不敵な笑み。
「……知ってる?」
王子は、少し声を落とす。
「シュヴァンが、この国への“ある投資”を、強く勧めてる。一大プロジェクトだそうだ。金になるって」
ちらりと広間の扉へ視線を投げ、すぐにクラリスへ戻す。
「医療分野、だと思うけど。心当たりは?」
「……へ?」
口が、ぽかんと開く。
が、王子は構わずクラリスの顔に近づいた。
まるで、キスしてしまいそうなほど近くに。
(シュヴァン王子に、抗菌薬魔法陣のこと話してたっけ…?そもそも最近ミュラー診療所にはきてないよね……?というか、金になる……?……じゃあ、違うな……金には、ならなそうだもんね悲しいことに……!!)
ぱちり、とまた微かな刺激。
クラリスはぶんぶんと首を振り、王子の肩を押して一歩下がった。
「ただのメイドですから……わかりません!」
クラリスがきっと睨みつけると、王子は肩をすくめ、楽しそうに笑った。
「オーケー。じゃあ、明日会いにいくよ」
くるりと背を向ける。
「ただのメイドの、クラリス嬢。ミュラー診療所で、ね」
ひらひらと手を振り、部下たちを引き連れて去っていく背中。
(え……なに、こわ……!?)
クラリスは、その場に立ち尽くしたまま、ただ見送ることしかできなかった。
一方、その小部屋の隅では、ルスカが拳を強く握りしめていた。
王子の身分から逃げている身で、見知った顔に姿を見られるわけにはいかなかった。
(……まあ、俺の顔など、どれほど覚えられているものか)
七歳の、あの日までは。
大切に扱われ、過剰なほどに持ち上げられていた。
自分でも、随分と偉そうだったと思う。
だが、魔法の能力に見切りをつけられてからは、家臣たちは潮が引くように去っていった。
残ったのは、血筋にしか興味のない下位貴族だけ。
上位貴族は、揃って兄に夢中だった。
(子を為し当たれば、一発逆転……か)
王族として割り当てられる公務。
クラリスたちと整えてきた公衆衛生の仕事。
それらを、確かにこなしている。
だが、彼らの関心は、そこにはない。
派手で目立つ業績だけ。
(俺は、雑務をこなす種馬ってわけだ)
ふ、と鼻で笑った、そのとき。
小部屋の奥から、歓声が漏れ聞こえた。
(……無事、終わったか)
胸の奥に溜まっていた息を、ようやく吐き出した瞬間。
ぎぎ、と扉が開く音。
ルスカは、はっと目を見開いた。
(な、なんであいつが……)
ぽかんと呆けたクラリスが、腰を抱かれ出てきた。
相手は、ヒポクルス国第一王子、カイロン。
よく知る、あまりウマの合わない相手だった。
そのままクラリスは顎を寄せられ、顔と顔が、耐え難いほど近づいていく。
背を冷たいものが流れる。
(やめろ、そいつは、そんな風に扱っていいやつじゃ……!!)
脳裏をよぎる、診察に向かうときの、彼女の真剣な横顔。
不機嫌そうに眉を寄せる表情。
『話したくなったらさ、聞くからね。わたしたち、仲間なんだから』
夕焼けに染まる、少し照れ臭そうな、あの笑顔。
思わず手を伸ばしかけて、
近くに積まれていた鎧に、肘が触れた。
がしゃん、と鈍い音が響く。
ルスカの手が、空中で止まった。
(俺は、王族の身分を捨てた。会を欠した今の俺が奴を、止めれば外交問題に……!)
その背に、重たい現実がのしかかる。
(だが、あいつが、あんな風に扱われるくらいなら……!!)
深く息を吸い込み、足を踏み出そうとした、その瞬間。
「ただのメイドですから……わかりません!」
クラリスの声が響いた。
彼女は、カイロンの肩を押し、距離を取る。
王子は何事もなかったかのように言葉を交わし、そのまま去っていった。
(俺は……俺は……)
ルスカは、拳を硬く握った。
その手は、真っ白に染まっていた。




