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16話 小さな異変



その朝の診療所には、大きな変化が起きていた。


アニの高位貴族としての財力と行動力が惜しみなく発揮され、診療所の休憩室は、いつの間にか研究室へと様変わりしていたのだ。


大きな棚には、アニがこれまで集めてきた魔法陣研究の論文や専門書がずらりと並び、壁一面には、魔法陣らしき図や走り書きの考察が、所狭しと貼られている。


昨日消えてしまった机の代わりには、豪華な装飾がふんだんに施された新しい机が、当然のように据えられていた。

ミュラー曰く腰をいためるソファーも、見るからに高級な革張りのソファーに変わっていた。


「俺の休憩室……」


ミュラーが力なく呟く。


「ローン組んで診療所を広くして、広げたばっかだったのに……」


めそめそと項垂れるミュラーに、アニはちらりと視線を向けた。


「うるさいな。この研究が進めば、この診療所も国一番にだってなるでしょ」


「……そうしたらまた、勲章もらえますよ」


ヴィルが、慰めるようにそう付け足す。


「……勲章」


その一言に、ミュラーはぴたりと動きを止め、やがて、しぶしぶといった様子で首を縦に振った。


「僕はここで魔法陣の改良にあたるよ。聞きたいことあったらすぐ聞けるし」


「じゃあ、わたしも昼休憩とか外来落ち着いた時とかすぐ来るから!お願いねアニ!」





クラリスは甘くみていたのだ。

外来と研究、どちらも回せるだろう、と。





「大変だ……外来が繁盛しすぎてる……」


昼食も取れないままカルテにペンを走らせながら、

クラリスは、廊下の向こうの研究室から漏れ出す魔法陣の淡い光に、ちらりと視線を向けた。


「くぅ……参加したい……!」


思わず腰が浮きかける。

あの光の向こうで、研究が進んでいると思うと、どうしても心が引っ張られてしまう。


だが。


「先生!次の患者さん、お願いします!」


「……はい」


無情にも、ハンナが差し出した問診票が、その欲望を正面から叩き潰した。


(ええと……26歳、男性。腹痛。昨日から下痢と嘔吐……)


クラリスは一瞬だけ目を伏せ、深呼吸をひとつ。


(食あたり、かな?)


診察室から声をかけると、日焼けした、がっしりした体格の男が入ってきた。


「こんちは。あんたが噂の女医さんですか!いやぁ、嬉しいなぁ」


「はは……どんな噂でしょうね。どうぞ、こちらへ」


(笑顔で冗談を言える余裕がある。ひとまず、重症ではなさそう)


男をベッドに横たえ、手早く問診と診察を進める。

一通り終えると、クラリスはペンを取った。


「腸炎ですね。食あたりかな?何か心当たりあります?」


「うーん……あ~あれかな。あの燻製。ヒポクルスにいってて、家あけてたんですよ。腐ってたのかな~」


「ヒポクルス……使節団が来るっていう?」


クラリスの手が、ふと止まる。

ちょうど今朝、ヴィルから聞いたばかりの話だった。


「そうそう!よくご存知ですね!俺はその使節団をお迎えするルートの下見ってやつで!いや~いいとこですよ!ワタンボが名産なだけあってやっぱうまいの!先生も是非!」


「はは、ありがとうございます。今は忙しすぎて」


「そうでしょうな!ハハハ!さすがは国一番と噂のミュラー診療所!」


豪快に笑う男を尻目に、カルテに《ヒポクルス》とだけ書き留め、処置と注意点を説明する。

男はにこやかに礼を言い、診察室を後にした。


(ヒポクルスか……港町なんだっけ……?)


魚料理のイメージが、ふっと頭をよぎり、涎がたれかけたそのとき。


「はい先生!次!おねがいね!流石ね、診断がはやい!」


ハンナが間髪入れず、次の問診票を差し出す。


(褒めてくれる……!育て上手、好き……!)


クラリスは涎を拭いて問診票に視線を下ろした。







そしてすっかり日も落ちた頃、ようやく閉院した診療所では、クラリスとミュラーが椅子にしなだれかかっていた。


ハンナはこのあと飲み会があるらしく、「じゃ、お先!」と元気に手を振って帰っていった。


「……体力あんな……」


ミュラーがぼそりと呟く。

向かいで、ぼそぼそとパンを噛んでいたクラリスも、小さく頷いた。


「今日な、一人ちょっと大変だったんだ。すげー下痢で、おまけに血便まで出ててな」


「診察中も、かなり辛そうでしたね……」


ヴィルはそう言いながら、焼き菓子に手を伸ばす。


「ああ。ヴィルにも見てもらったが、透視じゃ異常は出てねえ。腸炎だろってことで、今日は帰した」


ミュラーは肩をすくめた。


「明日も来させることにはしたが……

やっぱりな、今の時期は長く置いた食いもんが一番あぶねえ」


(……あれ?)


クラリスは、ふと眉を寄せた。

同じような話を、どこかで聞いた気がする。


だが、その思考は続かなかった。



ドンドンドン!!



突然、激しく扉を叩く音が響く。


「ルスカ王子殿下!どうか、お話だけでも!!」


切羽詰まった叫び声が、夜の診療所に突き刺さった。


「……うるさいやつらだな」


ルスカは低く呟き、ため息をひとつつくと、ゆっくりと扉へ向かった。


「大変だな、ルスカ」


ミュラーは立ち上がりながら、苦笑する。


「俺は庶民の生まれで正解だったわ。あんなの、無理無理」


鞄を手に取り、肩にかける。


「まあ、この後に研究なんてしようとしてるお前らも大概バケモンだけどな。じゃ、また明日」


ひらりと手を振り、ミュラーは診療所を後にした。


ぱたんと扉が閉まると、クラリスはくるりと背後のヴィルを振り返った。


「ヴィルとルスカは帰ってて?わたし、遅くなったらここに泊まればいいし……危なくないから」


ヴィルは小さくため息をつく。


「ここまできて、ほっとけないよ。ルスカだって、きっとそういうよ


椅子を引いて近くに腰掛けた。


「ヴィル~……」


クラリスが目を潤ませていると、


「……で、いけるの?」


文献から顔を上げて、アニが尋ねる。


クラリスはパンを一口かじり、コップの水を一気に飲み干した。


そして、ぱん、と両手を叩く。


「よし!始めよう!!」


そう言って、アニの向かいの椅子にどしりと腰を下ろした。


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