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14話 始まりの夜




翌朝、まだ日も昇りきらない早朝。


診療所に姿を見せたアニに、クラリスは迷いなく手を差し出した。


「今日からよろしくね、アニ!」


アニはその手をしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐き、そっと握り返した。





診療所の休憩室、その片隅の椅子に、アニはちょこんと腰を下ろす。


約束していたのは夜からだったはずで、こんな時間に姿を見せた彼に、クラリスもヴィルも思わず目を丸くした。


「でも……本当によかったの? アニ。せっかく早く来てもらったけど、わたしたち、仕事しないといけないから」


ハンナと並んで床を掃除しながら、クラリスが声をかける。


(本当は、すぐにでも魔法陣の研究に取りかかりたかった。けれど――)


ちらりと視線を向けると、ミュラーが眉間に皺を寄せ、カルテの整理をしていた。


『お前たちがいないせいでな、俺とハンナは地獄を見たんだぞ。今日は逃がさん』


圧を全身で放ちながら、ミュラーは先ほどまで、クラリスとヴィルの手首をがっちり掴んでいたのだ。


二人にできたのは、黙って頷くことだけだった。


なお、ルスカは溜まった公務を片付けるため、今日は診療所には来ていない。




「いいよ。本も持ってきたし」


アニは膝の上に置いた本を軽く叩く。


「それに……どんなふうに力を使ってるのか、ちゃんと見ておきたいしね」


「そんなふうに真剣に取り組んでくれるなんて、嬉しいよ、アニ~!」


思わず声を弾ませたクラリスは、ぽん、と彼の肩に手を伸ばした。


だが。


「や、やめてよ!」


ぱしっと、その手を払われる。


「子供扱いしないで」


ぶっきらぼうな言い方だったが、どこか照れたようにも聞こえた。


クラリスとヴィルは顔を見合わせ、思わずくすりと笑う。


アニは少しだけ居心地が悪そうに視線を逸らしたまま、本のページをめくった。








「つ、疲れた……」


その日の診療は、荒れに荒れていた。


通常の通院患者に加え、どこから嗅ぎつけたのか……

“戻ってきたらしい”という噂を聞きつけた人々が、クラリスの脱毛や黒子取りを目当てに押し寄せてきたのだ。


とどめに、近隣で起きた外傷事故の患者まで運び込まれる。


(時間が欲しい時に限って、混んでしまうのが外来なのよね……)


昼食を取ることもできず、ようやく診療時間を終えたのだった。


同じく"透視"の力を多用し消耗したヴィルもソファにどさりと身を沈めている。

その隣に、クラリスも力尽きるように倒れ込んだ。


「……死にそうじゃん。いつも、こんななの?」


どうやらずっと待ってくれていたらしいアニが、ぱたんと本を閉じ、片肘をつく。


「まあね……でも今日は、激しめかな。脱毛とか、断らなきゃいけない人もいたし」


机の上に置いてあるパンに手を伸ばした。

長時間置かれていたそれはすっかりパサパサで、口の中の水分を容赦なく奪っていく。


「でも、この研究がうまくいけばこんな苦労ともおさらばなんだから……」


パンをごくんと飲み込むと、クラリスは勢いよく立ち上がり、アニの前に立った。


「よし!アニ、よろしくお願いします!」


その目には、疲労の奥でなお消えていない、確かな火が宿っていた。







「じゃあ、いくよ」


アニはどこにしまっていたのか、杖を出す。

ヴィルとミュラーは遠巻きに見守っていた。


「いいなあそれ。かっこいい」


「うるさいな。これがある方がやりやすいだけだから」


アニはクラリスに向けて杖を構えると、すいすいと杖で空中に何かを描くように動かしていく。


「わっ……」


クラリスの足元に、淡い光が溢れ出す。

丸い輪郭が浮かび、その内側に次々と形が刻まれていく。


線、四角、三角。

重なり合い、組み合わさり、ひとつの円を形作っていく。


「おぉ……」


ヴィルとミュラーの感嘆の声が上がり、やがて光は静かに収束した。


「か……かっこいい……!!魔法使いじゃん……!!」


クラリスが目を輝かせながら近づくと、アニは恥ずかしそうにぷいと横を向いた。

そして机にあったペンをとると、さらさらと描いていく。


「お、覚えてるの!?」

「当たり前でしょ」


三人は思わず目を見合わせる。


そこに描かれていたのは、容易に再現できるような代物ではなかったのだ。


「はいこれ。このまま魔力をこめても使える。魔石はただの蓄積装置だからね」


「やってみる!!」


クラリスが目を輝かせ、魔法陣の上にペンを置いた。

そして、いつもの魔法と同じように魔力を込めた、その瞬間。


――ふっ。


ペンだけではなく、魔法陣を置いていた机も消えた。


「俺の机!!今金ないのに!!」


ミュラーは頭を抱えてうずくまり、ヴィルは反射的にクラリスの手首を掴んだ。


「……っ、クラ、危ない!」


クラリスは自分の指先を見下ろす。

魔法陣に近い指先では、一瞬空気が揺れたように見えた。


「……今、一瞬……」


「触れてたら、消えてたね」


アニの低い声に、室内が静まり返る。


「……魔法陣に触れたものが消える。

これは……危険すぎる」


「そう、だね……。特定のものだけ消せるように、しないと……」


アニは小さく頷く。


「ベースは崩さず足す形にはなると思う。文字なのか、形なのか……前例がないか父上にも聞いて文献も漁ってみる」


「助かるよ!ありがとう」


クラリスが礼をした、その時。


バァン!!


扉が開かれる音に皆の肩が揺れる。

カツカツと勇ましげな足音が休憩室に近づいてきた。


「なに…?患者さんかな……?」


ヴィルが小さく口を開いたが、そこに現れたのは……


「ルスカ!?」


息を荒くし、眉を寄せたルスカだった。

その腕には、大きな荷物。


「どうしたの? 今日は公務じゃ……?」


クラリスの言葉を遮るように、

ルスカは荷物をどさりと床に置き、息を吐く。


そして、顔を上げた。


「城を出た。俺は戻らん!」


簡潔な宣言。


「え……ええっ……!?」


皆の驚愕の声が、診療所に響いた。


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