27話 いつもの毎日
ぱち。
クラリスは目を覚ます。
部屋を満たす焼き上がったパンの匂い。
そしてようやく回らなくなった天井に、思わず頬が緩む。
「朝かぁ~……」
いつもより静かな朝。
なにより、ヴィルがいなくなってから続いているルスカの鬼シバキの声がしない。
ぐい、とひと伸びし外に目をやると、まだ空は薄紫色でどこか静かだ。
けれど。
「よーし!起きるぞ!」
クラリスはベッドから飛び起きると、そのまま部屋を飛び出そうとし……
『布団は整えろ!』
あの声が聞こえた気がして、いそいそと布団を整え静かに部屋を出た。
「あら……あんた珍しく早いじゃない。体調はいいんでしょうね!?」
リビングに入ると、母が焼きたてのパンを大皿に並べているところだった。
「うん、もういいみたい」
「無理は駄目よ。仕事復帰したとはいえ、ずーっと寝込んでたんだから」
「は~い」
クラリスがダイニングチェアに腰掛けると、母はパンを手際良く取り分けていく。
クラリスはそれを手に取り、もそもそと口に運ぶ。
ふとテーブルの上に視線を落とすと、そこには隅に魔法陣が描かれた紙。
魔法陣は勝手に光ったかと思えば、つらつらと紙に文章が刻まれていく。
最近アニ認可の元登場した、新聞紙の代わりのようなもので、一日で内容が変わるそれは、いま市井の民の間では大人気だった。
『ヴェサリアン家、否認へ』
刻まれた見出し。
「あっ!来たの!?どうなったの?それ!」
母は紙を覗き込む。
「とんでもない悪党だよ、女たらしで、奥さんも酷い目にあってたらしいでしょ……」
母は水差しから水を注ぎ終えると、どん、と乱暴にコップを置いた。
パン屋を営む母のところには、色々な人が集まる。
それによるとセレンのあの家での待遇、そしてあの地下牢への事件は随分と噂になっているらしい。
「夫も義父もいない家を一人で切り盛りしてるんだって、奥さん。健気だよ」
「そうだねぇ……」
クラリスはのんびりとパンを食べる。
「裁判なんか待ってないで、さっさと処刑すれば良いんだよ!」
「はは……」
ぷりぷりと怒る母。
「シュヴァン王子のお妃様候補を誘拐するなんて。お可哀想な未来のお妃様。怖かっただろうね」
(誘拐されたお妃様候補とやらは、わたしですけどね……)
クラリスは苦笑いを浮かべる。
なんせ母は何も知らず、クラリスは過労で倒れたと聞かされているのだ。
あの事件は、瞬く間に噂が広がった。
攫われた妃候補の名だけが匿名のまま。
『保護のためです』
数日前にクラリス家を訪れたカレルは飄々とそう告げた。
『本罪の主題は妃候補の名ではありません。貴族達も、推測はしているでしょうが……口には出さないでしょうね』
珍しく疲れた表情のカレルに、クラリスはなぜかその背後にあの人物の微笑む顔が浮かぶ。
『患者を地下牢に打ち捨てていた件についても罪に問いたいのですが、現状法では……』
カレルは小さく首を横に振った。
『けれど、どちらにせよゲオルグはもう社交界にも居場所はありません。誰が広めたのか……メイドたらしの噂、ご存知でしょう?』
意味深な言い様にクラリスが笑う。
突然カレルははっと思い出したように鞄に手を入れる。
『これは……主からです。あなたにと。……心配、しておられましたよ』
差し出された箱を開けると、そこには両袖がついた新品の白衣が綺麗に畳まれていた。
「それで、あんた今日は晩御飯いるの!?」
母はパンをかじりながらクラリスに尋ねる。
その目は新聞にくぎづけだ。
「あー……今日はいらないや。診療所のあと、夜はちょっと遅くなる」
「無理しちゃ駄目だからね!!過労で倒れたってのに、全くこの子は!!」
「はあい……」
あの事件の後、数日眠っていたらしいクラリスは、目覚めてすぐ、這ってでも壊死性筋膜炎の患者の元へ駆け寄ろうとした。
けれど、
『薬の後遺症だな。寝とけ。俺を信用しろ』
『魔力使いすぎ。寝るしかないね。ほんとバカ』
ミュラーにアニに散々言われ、挙句
『お前は自宅謹慎だ。診療所への立ち入りも禁止する』
ルスカには看板まで作られてしまった。
そのためクラリスは眠っては起きて目眩に苦しみ、といった療養の日々を何日も繰り返した。
見舞いに訪れたルスカ曰く、あの患者は翌日には意識を取り戻し、一命をとりとめたそうだ。
「もうすぐ産まれる孫を抱きたいですからな!」
そう言って、今では義足のリハビリもスタートしている。
(助かってよかったなぁ……)
クラリスはコップの水を飲む。
果実が混ぜられた水は妙に甘くてぬるい。
その時。
トントン。
玄関が叩かれる音。
「あっ!ルスカくん!入っていいわよ!」
「はい。失礼します」
静かに開けられたドア。
「ルスカくん、毎日ありがとうね~。こんなバカ娘のために」
「いえ、俺は……」
そう言いながら顔を上げたルスカは、クラリスを捉えると、目を丸くした。
クラリスは笑いを堪えながらひらひらと手を振る。
「……珍しいな」
「おはよ~、ルスカも食べる?」
「……あまり時間ないぞ。ミュラーがカンファをすると言っていた」
「え!?もうそんな時間!?」
クラリスは窓の外を見る。
すっかり白みを帯びた空。
窓から差し込んだ光は、窓辺に飾られた黄色い花を優しく照らしていた。
「や、やばい!待ってて~!すぐやるから!」
クラリスはがばりと立ち上がり、どたどたと洗面所へと駆け出す。
「……廊下を走るな」
ルスカと母のついたため息が小さく重なった。
窓から差し込む光がすっかり橙色を帯びた診察室。
「では、それでいきましょう。お大事に~」
クラリスはひらひらと手を振るとペンを取る。
「ねえ、終わった?これ今日の分」
ひょいと顔を覗かせたアニは、机の上に瓶を置いた。
「うえぇ……これまだ飲むの?」
「文句ある?」
「……ありません」
クラリスは瓶を掲げた。
魔力切れに効くとかいう紫と黄緑が混ざったそれは、斜めにするとどろりとゆっくり動く。
クラリスは鼻を摘むと瓶に口をつけた。
「苦味、くさみ、そしてざらりとした中に混ざる固まり感……この世の全ての苦痛みたいな味だよ」
「それはありがとう」
アニが笑いを堪えながら、クラリスの隣の椅子に腰掛けた時だった。
「クラリス~!」
歌うような声とともに診察室に飛び込む赤毛。
セレンだった。
その背後には一人のメイド。
「げっ、また来た」
アニは顔を引き攣らせる。
「あらアニ、大層なご挨拶ありがとう。御用済んだならどいてくださる?わたし、"クラリスに"教えて欲しいことがあってきたのよ」
「ん?どれ?」
クラリスが椅子をぐるりと回す。
セレンは嬉しそうに机の上に本を置いた。
「あのさ、何で呼び捨てなわけ?僕高位貴族なんだけど?」
「あらごめんなさい?だってみんなそう呼んでるもの」
セレンが口元を抑えてくすくす笑うと、アニは腕を組み、セレンをぎろりと睨む。
「それにそんなの、入学してから医学校の先生に聞けばいいでしょ」
アニは腕を組み顔を顰めるが、
「あら、現場のことは現場の人が1番詳しいわよ」
セレンは聞く耳をもたず、ずいっとクラリスに顔を寄せた。
あの事件のあと、ヴェサリアン家の貴族医学校は国にお預かりとなった。
高額な学費ゆえに貴族しか通えなかった学校は、国立として再編されることになったのだ。
学費は大幅に引き下げられ、今後は民間にも門戸が開かれる。
そしてセレンは、その一期生となることが決まっていた。
「セレンは頑張ってて偉いよ。屋敷の管理大変なんでしょ?」
「まあね。けれどわたし、実家ではずーっと当主になる勉強していたんだもの。苦ではないわ」
「すごいなぁ……あ、ここ。これが違うみたい」
「あら、本当」
クラリスがペンで指すと、セレンはすぐに書き直し始める。
「彼女もいてくれるしね。ヤツがいた時より大変だけど楽しいわ」
セレンは隣のメイドをちらりと見る。
彼女は染まらなかった唯一のメイドだ。
『染まってた子たちはみんなクビにしてやったわ!』
セレンの得意げな顔は、クラリスの記憶に新しい。
「それでクラリス」
セレンはきょろきょろと見回しながらクラリスの耳に口を寄せる。
「今日は例の食事会なんでしょ?」
「そうなんだよ~……」
クラリスが頭を抱えていると、アニがにやりと悪い笑みを浮かべる。
「あ、ルスカ」
びくっ。
クラリスもセレンも肩を揺らす。
「嘘だよ~、馬鹿じゃないの?」
「もう!アニ!!」
紙屑が飛ぶ。
アニはひょいと身を逸らした。
「ていうかさ、ルスカはなんでシュヴァン王子にあんな怒ってるわけ?」
「うーん……そうだねぇ……」
「別にシュヴァン王子のせいって訳でもないでしょ」
アニは肩を竦めた。
「ま、そのお食事とやら、せいぜい楽しんできなよ」
アニは立ち上がると、窓の外を覗いた。
「あ、ほら来たみたいだよ、馬車」
「えっ!?もう!?やばい、着替えなきゃ!」
クラリスは慌てて立ち上がると、そのまま診察室を飛び出して行った。
「廊下を走らないのよ!転ぶわ!」
どこかで聞いたような台詞が、診察室に残った。




