【リメイク】第三話:灰かぶりの書庫、運命は埃の中に
──「救世主」とは誰か?
この国では、勇者とは聖剣を抜き魔王を討つ者と定義されていた。
だが、もし聖剣が「文字も読めない元奴隷の少女」を選んだら?
もし魔王が「図書館で小説に熱中する毛玉生物」だったら?
これは「定義」と「本質」が激突する物語である。
灰かぶり姫の童話が予言となり、
誰もが忘れていた「勇者の本来の意味」が
一本のガラスのような聖剣を通して明らかになる──
異世界の勇者カズキが王となり、彼の現代日本で培った価値観は、王国に根強く残る奴隷制を見て見ぬふりをすることを許さなかった。
人権、自由、民主――現代社会では空気のように当たり前のそれらは、未だ中世の域を出ないこの王国では、貴族階級の“特権”に他ならない。
奴隷に堕ちた者は家畜よりも卑しい。カズキはそれを我慢できなかった。
「彼らは俺たちと同じ人間だ! 家畜のように使役し、売買するのは間違っている!」
本来、そんな言葉が通れるほど、この社会は甘くない。
しかしカズキは勇者であり、今は王である。魔王を倒した功績により、民間からの支持は厚い。
さらに、かつての仲間たちも彼の思想に共感し、今は重要な職務についている。
奴隷制廃止の波は、王都から全国へと広がっていった。
そして七年前、王都で起きた“田舎貴族の三男が自身の奴隷に殺された事件”をきっかけに、その流れはさらに加速する。
ついに辺境を含め、奴隷はこの王国から永遠に姿を消した。
しかし、多くの奴隷が解放されたものの、今の社会には彼らの働き口が十分にあるとは言えなかった。
これまでただ働きさせられていたが、雇用関係となれば相当なコストが発生する。もちろん、雇い手の質と数は限られる。
何より、何の技能も持たない彼らは、この“自由”な社会において、かえって生きる術を失ってしまった。
そこでカズキ王は、『学校』を建てることを立案した。
元は奴隷だった者たちに、基本的な技術や教養を教え、卒業後は働けるようにするためだ。
男子には戦闘技術を、女子には家事全般を習わせる。
数年という歳月を経て、卒業することができれば、男子は冒険者に、女子は使用人として働くことができる。
そしてセリナも、その中の“ごく普通”の一人だった。
*
「ミーナおばちゃん、おはようございます。」
「おはよう、セリナちゃん。今日も元気だね。今日も『学校』かい?」
「いいえ、今日は日曜日ですので、働く日です。」
メイド服をまとい、私は王都の街へ歩き出す。
七年前のあの事件で、私は世界でたった一人の家族を失った。
孤児院へ行くはずが、王様が『学校』を建てたおかげで、私はこちらにお世話になることができた。
今はメイドの技能を学んでいる。うまくいけば、将来どこかの貴族の屋敷で奉公できるかもしれない……そのはずだった。
学生たちは週四日、授業を受ける。そしてその義務として、残りの三日は町の労働に無償で参加しなければならない。
そして今日の私の仕事は、図書館の掃除だ。
「行ってきます……お母さん。」
途中、お母さんの墓へ少しだけ立ち寄った。
七年前、セリナはお母さんの最期の姿を見ることができなかった。
衛兵のおじさんたちに、“その下”にお母さんが眠っていると言われた。
あの頃の私は、その意味を理解していなかった。眠っているなら、いつかまた起きるかもしれない――そう思っていた。
でも、徐々にわかってきた。ここに埋めた者とは、もう二度と会えないのだと。
それが『死』。
セリナも死んだら、お母さんにまた会えるのだろうか。
「でも、それはきっとお母さんが怒っちゃいますよね。セリナはもう二度と、お母さんに打たれたくありません。いい娘になるって決めましたから。」
祈りを捧げ、セリナは今日の奉公へと向かった。
*
学校からそれほど離れていないので、少し歩けばもう国立図書館へ着く。
ここには王国のあらゆる知識が収められているが、そもそも文字を読める者自体が珍しい。
だからここは、人が滅多に来ない。埃も溜まりやすく、本なんてネズミにかじられそうだ。
ネズミか……それは苦手だ。
「セリナ、読み書きできるのは大事なことよ。」
昔、お母さんがいつも言っていた。知識は運命を変える、と。
セリナに文字を教えてくれた。だけど不器用な私は、自分の名前を書けるのがやっとだった。
後からもっと学びたいと思ったが、周りに教えてくれる人はいない。
読み書きは貴族の特権。知識はお金持ちの財産。平民が持つものではない――それは今も変わらない。
この一面を見渡すほどの本の海も、セリナにとっては見えない壁に阻まれ、拒絶されているように冷たく感じる。
「では、掃除を始めましょう!」
悩んでも仕方ない。セリナが諦めなければ、きっと本たちもいつか私と仲良くしたいと思ってくれるはずだ。
「お掃除♪ お掃除♪――あれ?」
本棚の上の埃を払おうとした時、変なことに気づいた。
本棚は予想通り埃まみれなのに、棚の中の本は丁寧に拭かれていて、きれいなままなのだ。
まるで、少し前まで読まれていたかのように。
「きっと本が好きな貴族様が、さっきまで読んでいたのでしょう。どんなお話でしょうね。セリナも文字が読めたらなぁ……はうっ。」
本を開き、中を覗いてみる。
『セ』、『リ』、『ナ』――この三文字以外は、何も読めない。
その三文字でお話が通じるわけがない……
ため息をつき、本を閉じた。セリナには、まだ早い世界なのだろうか。
しかし、これ一冊だけではない。隣の本も、その隣の本も、本棚全体の本がきれいなまま。
すごい。図書館には昨日、そんなに人が来たのだろうか。
「おのれ! くたばれ、なんと卑しい豚野郎! これだから――!」
セリナが考え込んでいると、突然の怒声で現実に引き戻された。
びくっ――
この本を読んでいた貴族様だろうか。
音のした方へたどり着き、本棚の陰からこっそり中を覗くと、魔法使いの装束をまとった、中年くらいの男の人がいた。
手にした本を、今にも破り捨てそうな勢いでページをめくっている。
何を読んでいるのだろう。私は文字が読めないので、おじさんが何に怒っているのかはわからない。
でも、本の表紙の絵を見る限り、たぶんあの有名な『勇者ハラルド戦記』だと思う。
ハラルド様の鎧は、歴代勇者様の中でも特に派手な方なので、町の旅紙芝居でもとても目立つ。
正統派ヒーローとは違って、何でもありの戦い方から、子供たちの中でも大人気だ。
きっと、あの方もハラルド様の話が好きなのだろう。
……でも、いくら周りに人がいないとはいえ、あんな大声はマナー違反だと思う。
ちょっと注意してみよう。貴族様が怒るのは少し怖いが、本を読める方ならきっと話も通じるはずだ。
思い切って声をかけてみた。
「あの……すみません、図書館ではお静――」
「死ね!! ハラルド、オークの餌にでもなれ! それが貴様の運命だ!!」
……豚野郎は、まさかのハラルド様だった。
*
目が合った。
途中まで言いかけた言葉を、どう繋げばいいのか。セリナの頭はパンクしそうだ。
この人、もしかして危ない人なのでは……どうしよう、今、周りには誰もいない。
少しの沈黙の後、魔法使いのおじさんは急に優しい表情になり、ぺこりと頭を下げた。
「これは失礼しました。私は“マオウ”と申します。旅を好む魔法使いです。先日ほど王都に着きまして、すっかりこの街に魅了されてしまいまして。いや、実は私、『勇者ハラルド戦記』の大ファンでして、そして断然マーシャ推しでして……その……最後にハラルドが幼馴染のマーシャを選ばず、姫と結ばれるエンディングがどうしても気に入らなくて。つい、大声をあげてしまいました。いやはや、これ失態。――ところで、お嬢さんはここで何をされているのですか? ここは滅多に人が来ないはずですが」
「あっ、はい。私はここの清掃を任されていまして……セリナと申します」
気のせいだろうか。マオウと名乗ったこの男性から、不穏な気配が漂っている。
マオウで魔王……? いやいや、まさか。魔王がこんな埃っぽい図書館に来るはずがない。来るとしても、真っ先に魔王と名乗るはずがない。
きっとセリナの気のせいだ。きっと。たまたまそんな名前の人なだけだ。
「なるほど。あなたもマーシャ様の恋を応援する仲間なのですね。」
確かに、勇者ハラルド様が姫様と結婚し、幼馴染の魔法使いマーシャ様が悲恋に終わる結末は、私もたまに城にいるお嬢様たちから何度も聞かされたことがある。
あの方たちも、マーシャ様が報われないのが不満だと言っていた。
でも、それよりも気になるのは。
「あの……マオウさんは、読み書きができるのですよね?」
「ええ、まあ。一応、魔法使いですから。文字や言語の扱いは得意ですよ。……そうですね、もしよろしければ、教えて差し上げましょうか?」
「えっ、本当ですか?」
まるで私の心を見透かしたように、向こうから“教える”と言ってくれた。
本来は私からお願いするつもりだったが、なかなか言い出せずにいた。
……もしかして、この方、すごく優しい良い人なのかもしれない。
でも――
「私、お金はあまり持っていませんし……でも、来年卒業して正式な奉公先が決まれば、必ずお返しします!」
全身の思いを込めて、深く頭を下げてお願いした。
セリナにはわかる。これは、私にとって一生に一度しかないチャンスだ。
もし逃したら、もう……二度と来ないだろう。それは嫌だ!
「いいんですよ、お嬢さん。私は“知識を授ける者”です。知識をお金で売るような真似はしたくありません。だから――交換しましょう。」
マオウさんは、優しく微笑みながら言った。
でも、何も持っていないセリナに、何を交換できるというのだろう。
っ! もしかして、噂の悪魔のように、セリナの魂が欲しいとかじゃ……
「変なことを考えないでください。ただ、この町のことを教えてくれるだけでいいんですよ。私はね、人付き合いが苦手で、ずっと引きこもって魔法の研究ばかりしていました。気がついたら、もう社会とすっかりズレてしまって……これは困りましたね。」
「……あの、私でよろしければ、お手伝いします!」
やっぱり、マオウさんはいい人だ。
そんな優しい方が困っているのなら、交換とは関係なく、セリナは力になりたい。
「しかし、本当にそれだけでいいのですか。一生尽きない財産、強敵を滅ぼす力、お望みであれば私にどうにかできますが。こういうのもなんですけど……読み書きを学びたいというのは、あまりに地味なお願いではありませんか?」
「いいえ、セリナはこれで十分です。セリナが欲しいのは、ここの――いろんな世界へ行けるチケットです。」
手を広げ、周りを見渡す。
数えきれない本たちは、セリナにとって、未知にあふれる魅力的な世界そのもの。
誰かに与えられた結果よりも、道具を手に入れて自分で探索し、手に入れたものこそが、本当に自分のものになる。誰にも奪われないものになる。
「本の中に、いろんな世界がある……か。いやはや、面白い。今日はお嬢さんに出会えて、本当によかった。――そうだ、そのお礼に、これをプレゼントしましょう。」
そう言って、マオウさんから渡されたのは、一冊の小さな本だった。
とても古そうな装丁で、紙も少し黄ばんでいる。だけど、どこか温かみがある。
「何というか……異世界――勇者カズキがいた世界で語られていた童話です。“灰かぶり”の女の娘が魔法にかけられて、夢のような変身を遂げるお話です。では、私もお嬢さんに魔法をかけましょう。明日から、これを使って読み書きを学んでみませんか?」
「はい! ありがとうございます!」
いただいた本を抱きしめる。
今が現実とは信じられないほど、夢のような時間を過ごしている気がした。
まさか、セリナみたいなただの普通のメイド候補生が、こんなふうに運命と出会うなんて――
あのときのセリナは、まだ何も知らなかった。
ただ、マオウさんからもらったその本のタイトルだけは、後から知ることができた。
今でもはっきり覚えている。
――『シンデレラ』
灰かぶり姫の、ものがたり。
その出会いは、あまりにも静かだった。
ただの掃除の日。
ただの図書館。
ただの、どこにでもいる少女。
――だが。
その日、少女は“世界”を手に入れた。
文字を知ること。
物語を知ること。
そして、自分の知らない“可能性”を知ること。
それは、剣よりも鋭く。
魔法よりも強く。
やがて――神すら覆す力になる。
だが、忘れてはならない。
そのすべてを与えたのは、誰だったのか。
優しい魔法使い。
知識を授ける者。
そして――“魔王”。
その種は、まだ誰にも見えない場所で、
静かに、確実に、芽吹き始めている。




