【リメイク】第四話:勇者誕生の前夜、それぞれの思惑
――その日、少女はただ“宿題”をもらっただけだった。
落とした十冊の本。
並び替えるだけの、些細な問題。
けれどそれは、
彼女にとって“初めて自分で考える世界”への扉だった。
一方その頃。
同じ場所、同じ時間で――
“世界を壊そうとする者たち”は、静かに動き始めていた。
笑い声の裏で、策謀が巡り、
無邪気な日常の影で、運命は確実に組み替えられていく。
これはまだ、嵐の前の静けさ。
だが――
その静けさこそが、
最も残酷な“始まり”であることを、
まだ誰も知らない。
聖剣が選んだのは、
文字も読めない元奴隷の少女セリナだった。
図書館で出会った謎の魔法使いマオウは、
なぜ彼女に『シンデレラ』の童話を授けたのか?
これは、
「誰もが主役になれる物語」の始まりである。
「セリナ君、問題です。今、ドジなセリナ君はうっかりして本の片付けで10冊の本を落としました。」
「しません! セリナはそんなドジな娘じゃありません!」
「問題を出すための設定です……まあ、それはさておき。この10冊の本は本来、2行5列に並んでいました。5冊が緑色の表紙、5冊が赤色の表紙です。そして緑色の表紙の本の作者名の最初の文字を『あ』、『い』、『う』、『え』、『お』、赤色の表紙の本の作者名の最初の文字は『さ』、『し』、『す』、『せ』、『そ』とします。」
「偶然ですね。」
「そうですよ。それでセリナ君はこれだけ覚えている。
① 第一行の緑色の表紙の本の数は、第二行より多いこと。
② 『す』の本がある列の番号は、『あ』の本と『そ』の本の列番号より大きい。しかし『う』の本の列番号は『す』の本の列番号より大きい。
③ もしその位置に本来緑色の表紙の本があれば、その同じ列のもう一方の行の本は赤色の表紙。逆もまた然り。
④ 『お』の本の左隣は『さ』の本、右隣は『せ』の本。『え』の本の左隣は『し』の本、右隣は『い』の本。
⑤ 第一行最初の本と第二行最後の本の表紙の色は同じ。
さて、正しい並び方は何でしょうか。」
「はい! 管理人さんに聞いてみます!」
「戻って来い! 問題を解くのが重要だ。そもそもこの図書館にそんな本はないぞ。」
「酷いです! マオウさん、セリナのこと騙しましたね!」
「騙していない。これは問題を作っただけだ。もう……この娘、真面目なのか、真面目じゃないのか。いいだろう、これを宿題とする。次に会う時までに解けるように。」
「はい! 今日もありがとうございました!」
*
図書館から出て、セリナは鍵を閉めた。
マオウさんはまだ本を読みたいらしく、中で泊まるそうだ。大丈夫だろうか。
名残惜しいが、寮の門限の時間が近い。歩く足を徐々に走る足に変え、何とか寮が閉まる前に戻った。
「セーフです。」
「いや、アウトでしょ。食材の買い出しは?」
「あうっ……忘れてました……」
部屋へ戻り、ようやく思い出した。明日の給食当番はセリナだった。
なのにマオウさんの授業が楽しみすぎて、すっかり忘れていた……どうしよう、今の時間は市場も閉まっているし、そもそも寮から出られない。
「もう、あたしが代わりに買っておいてあげたよ。もう、ドジな娘だね。なんかいいことでもあったの? 男? 男でしょ?」
ルームメイトのマリさんが、いたずらっぽい笑みを浮かべながら声をかけてきた。
「セリナはドジな娘じゃありません。でも、ありがとうございます。あの……違いますよ。ただ……マオウさんというとても親切な方が、読み書きを教えてくださっているだけです。」
「ふーん、そのマオウさんがセリナちゃんの“いい人”ってわけね。お姉さん寂しいなあ、まさか年下に先を越されちゃうなんて。しかも相手が玉の輿だなんてさ、憎いね、このこの!」
「だからそういうのじゃありません! マオウさんはそういう方じゃありません。とても立派で、親切な方です。マリさんも一緒に授業を受けてみたらどうですか? きっともっと真面目な生き方を学べるはずです。」
「あたしは遠慮しとく。文字が読めなくても、今まで特に困ったことなかったし。そういうのはお坊ちゃまとお嬢様たちが頑張ればいいの。あたしたちは家事を覚えるだけで手一杯よ。」
マリさんはセリナより一つ年上で、メイドの学校に入ったばかりの私をずっと助けてくれた、大切な先輩だ。その優しさには感謝しているが、不真面目なところだけはなかなか直りそうにない。
「でも、文字が読めれば、きっといいことがありますよ。」
「へえ、例えば?」
「……本が読めますよ。きっと、いざという時に役に立ちます。」
「セリナちゃん、本ってものはね、すごく貴重なものなのよ。あたしら使用人が触れられるものじゃないの。あんたが特別なのは、その“素敵な彼”がいるからでしょ。」
「か、彼じゃありません! あの……マオウさんって、やっぱり身分の高い方なんでしょうか。」
「そりゃそうよ。文字を読めるのはこの国じゃ貴族たちの特権だよ。王様がどんなに庶民に教育を広めようとしても、貴族たちが権力を握っている限り、それだけは簡単に変わらない。だからこの学校でも、文字や学問を勉強する授業はないでしょ。セリナちゃんの彼はきっとどこかの名家の方だよ。いいなあ、私もどこかの貴族様に見初められたいな。妾にでもなれたら、一生安泰なのに。」
そう言いながら、マリさんはベッドの上でクッキーをかじっていた。もう~あれだけ寝室で食事をするのはダメって言っていたのに、行儀が悪いんですから。
思い出した。
「マリさん、ちょっと聞きたいことがあります。」
「え? なに?」
私はマオウさんが出した課題を、マリさんに聞いてみた。
「図書館の管理人に聞いたらよくない?」
「ですよね! セリナもそう思いました。マオウさんの方が変です。」
「あんたたち、毎日そんなことやってたの……ああ、もっと危ない遊びかと思ってたのに。ただの変な学者か。」
「危ない遊び?」
「男女の火遊びとかさ、誰もいない図書館で、いけないメイドさんにお仕置き、いやん♡」
「ダメですよ! 図書館で火遊びをしたら、本が燃えます! それにセリナはいけないメイドじゃありません。できるメイドです!」
「あ、そういう話はセリナちゃんにはまだ早いか……まあ、変な奴じゃないなら、お姉さんも安心、安心。」
「???」
マリさんの話はちょっとわからない。そうだ、明日マオウさんに聞けばいい。マオウさんはなんでも知っているようだし。マオウさんならきっと……
私はメイド服を脱ぎ、丁寧に畳んで、部屋の奥に仕舞った。今日いただいた本をもう一度読み返す。明日はどんなことを教えてもらえるんだろう。そう思いながら、私は素敵な夢を見られそうな気がした。
*
「聖剣の儀は明日か。そろそろ我々の計画も動かす頃合いだな……ところで、その格好は何だ、モリア。ふざけているのか?」
「あら、お嫌いかしら? お気に召すと思いましたのに。
――マオウ先生、先ほどの問題の答えは
『あ』『そ』『し』『え』『い』
『さ』『お』『せ』『す』『う』
この順番で合っていますか? ふふふ。」
閉じられた図書館の中、一人で読書にふける魔王の対面。いつもならセリナが座る席に、月のような淡い金色の髪を優雅に揺らす、高級感あるメイド服を身に纏う女性がそこに座っていた。
誰も彼女がいつからそこにいたのか知らない。いつの間にか、彼女が図書館に入った瞬間を目撃した者もいない。ただ、目を開けた次の瞬間にはそこにいた。まるで最初からそこにあったかのように、自然に。
服装と容姿の釣り合いは不思議なほど取れていない。それでもなお、彼女の気品を損なうことはなかった。
「正確だ。君にそんな問題は簡単すぎて、問題として成立しなかったな。」
「随分と、あの人間の娘には優しいのね。あの娘に無防備な姿を見られた時、てっきりその場で殺すかと思ったわ。なのに、読み書きまで教えるなんて、あの娘をそんなに気に入ったのかしら。ふふふ。妬けちゃうわ。……これは、ささやかな対抗心、お好きでしょ。」
「そんなわけないだろ。優しい? いいか、魔王は姿形を変えられるが、いきなり王都であちこち聞き回るのは怪しすぎて目立つ。今一番重要なのは、最小の接触で最大の情報を得ることだ。掃除でいろんな場所に出入りできるメイドなら、より自然にできるだろう。まさに適任だ。しかもあの娘は純粋で利用しやすい。仮に何か喋ったとしても、誰も本気で取り合わないだろう。『メイドの世迷言』で済まされる。脳筋はすぐに殺すが、賢者は使う。殺すのはいつでもできるが、駒は多いに越したことはない。――ところで、ルーはどうした? 君一人とは珍しい。」
「あのおバカな天使なら、『人間の町はどこなのだ!』と私に聞いてきたわ。せっかく親切に正しい方角を教えて差し上げたのに――『悪魔の言うことなんか信じるもんか!』って、真逆の方向に飛んでいったわ。ふふふ。まあ、世界は丸いですから、一周して戻ってくるでしょう。」
さすがに笑いを堪えきれず、モリアは小さく噴き出した。しかしその声音にも品は失われていない。
「……君、それを分かっててやったな? まあ、ルーならそんなに時間はかからないだろう。――それはさておき、次期勇者はおそらく、前勇者――勇者カズキの息子、マサキ・アルセリオンだろうな。あれは良い。英雄の血筋にしては思想が甘いし、感情的だ。挑発にも弱そうだ。見事なまでに利用しがいがある。しかもあのプライドの高さときたら……ふん、仲間が自分より優れることを許せないほどの心の狭さだ。醜い嫉妬心がその器に収まりきらず、外にあふれ出そうとしている……内部分裂も狙える。ふふ、明日が楽しみだ。」
「果たして、そんなに上手くいくかしら。もしかしたら、他の者が勇者になるかもしれないわ。例えば、先ほどまでここに座っていたあのメイドの娘とか。」
「悪い冗談はよせ。私は今まで、歴史上すべての勇者の資料を集めて研究した。メイドが勇者になった者など一人もいない。例えあの王子じゃなくとも、計画に支障が出るほどの影響はないだろう。」
「だといいのにね。ふふふ。」
深夜、王都の図書館にて。
世界の誰よりも、魔王は勇者の誕生を心待ちにしていた。
*
一方、王都の酒場では、また別の光景が広がっていた。
「店主! シュワシュワのビール、もう一杯くださいっす。」
ヤケ酒をしている、ピンク色の髪の魔法使いの女性がいた。年は若く、十七歳くらい。隣の酒のグラスが小さな山を築いている。顔はもう真っ赤で完全に出来上がっている。ちゃんと意識があるのかも怪しいくらいだ。
「ねえちゃん、大丈夫か? 俺が介抱してやろうか。」
可愛らしい顔立ちにナイスバディ。そんな女性が酒に潰れていれば、周囲のチンピラたちが獲物を見つけた獣のように這い寄ってくる。いやらしい手つきで彼女に触れようとしていた。
そんなピンチの時。
「……リリに触るな。」
一人の青年が、彼女を襲おうとするチンピラの手を強く握った。
「ガルト!」
背中に弓と矢を背負い、服装は動きやすい動物の革でできた狩人の格好。剣聖の息子――ガルド・ファルケン。無口な性格だが、その目には殺気が宿っている。普通のチンピラがそんなものを浴びれば、足がすくんでしまうほど萎縮した。
「俺……はただあのねえちゃんを介抱したくて……決してやましい気持ちは……」
「……俺がいるから、失せろ。」
短い一言で、彼女に群がる男たちは逃げるように散った。
「よう、さすがガルド、格好いいっすね。ははは。」
「リリアンヌさん、明日は聖剣の儀ですよ。そんなに飲んでいたら、起きられなかったらどうするんですか。」
ガルドの後ろに立っているのは、シスターの装束をまとった金髪の天使。今まさに手の中の酒を一気飲みしようとするリリアンヌの手を止めようとした。
「うるさいっすね。だからこんなに飲んでるっすよ。あのアホ王子が勇者になるところ、見たくないっすね。うち、明日はパスで。」
「ダメですよ。聖剣の儀は勇者を選ぶ大事な儀式です。欠席は許されません。神もそうおっしゃっていました。」
「ははは、来たっす。神の電波を受信する痛い信仰系。神が正気なら、明日あのアホが聖剣を抜けないようにしてほしいっすね。」
天使の手を解いて、リリアンヌは酒を飲み干した。
「……そんなにマサキが勇者になるのが不満か。」
ガルドはその隣に座り、少し悲しそうな表情でリリアンヌを見つめた。
王子マサキは三人とは親の関係で、幼い頃から仲の良かった幼馴染だ。ガルドも彼のことを親友とずっと思っていた。でもリリアンヌは違った。
「気に食わないっすね。ガルドも思うでしょ。勇者になるべきなのはレンだって。うちは悔しいっす。あの娘がみんなに孤立していた時、味方になってやれなかったことが。それに、レンの信頼を裏切ったあのクズ野郎を絶対に許さないっす。店主、もう一杯!」
「……マサキにも、きっと事情があったんだ。」
「なんの事情があって、妹から大好きな『剣』を奪ったっていうんすか。うちにも教えてほしいっす。知ってるっすか? あのアホ、ガルドの人気に嫉妬して、あんたの悪い噂を流したんすよ。うちはあんな奴について行けない。仲間になりたくないっす。」
新しいビールを飲み干そうとした時、天使はそのグラスを奪って自分で飲んだ。
「うっわ、苦いです。リリアンヌさん、よくそんなもの飲めますね。」
「信仰系、あんた教義で酒を飲んじゃいけないんじゃ……」
「内緒ですよ。」
人差し指を口の前で小さく“し”のポーズを取った。
「レンさんのこと、残念だと思います。ですが、それでマサキさんを見捨てるのは可哀そうじゃありませんか。私たちが彼を見捨てなければ、きっといつか彼を正しい道へ戻せるはずです。これが友達というものです。今、私がリリアンヌさんの体のために酒を飲んでいるように。」
「フィロメナさんに言いつけるっすよ。」
「それは勘弁してください。」
二人が笑い合って、先までの緊張した雰囲気は嘘のように消えた。
ほっとしたガルドは、彼がずっと気になっていたことを話し出した。
「……最近、変な視線を感じる。」
「変? ガルドは格好いいから、見られるのは普通っすよ。」
「いつもと違う。素人じゃない。実際に痕跡はなかった。でも直感が俺に教えてくれる。見られていると。」
「ガルドさん、きっと神があなたを見ていますよ。いいことです。それはあなたが神に期待されている証拠です。」
「信仰系は黙ってっす。」
「酷い……」
「それで、噂があった。最近、図書館にずっと誰かがいるらしいと。」
「掃除するメイドとかじゃないの? うちは魔法関係の書物を読み終わったから、ずっと行ってないっすね。うち以外の物好きがいるなら……行ってみたら面白いっすね。」
「聖剣の儀の前だ。何があってもおかしくない。公爵が何かを企んでいるかもしれない。」
「クセリオス公爵ですね……」
その名前を口にした瞬間、空気は一気に重くなった。酷く酔ったリリアンヌも、一気にしらふに戻った。
「魔王より、うちはあのおっさんが苦手っす。」
「これ以上言うべきじゃないな。壁に耳あり、障子に目あり。今でも――」
ガルドの目が細くなり、店の外の枝がわずかに動いた。風がないのにもかかわらず。
「もう夜は遅い。リリ、送ってやる。」
「送りオオカミっすか。」
「襲わない。リリは大事な――」
「大事な!」
目をキラキラさせて、リリアンヌは次の言葉を期待した。
「――大事な幼馴染だ。」
「……」
失望をありありと表す、リリアンヌの今の表情を形容するのにこれほどぴったりな言葉はなかった。
「リリアンヌさん、ドンマイですよ!」
「マーリンも送ろうか。」
「いいえ、大丈夫ですよ。師匠から教わりましたので。」
天使マーリンは一つの槍を取り出し、見事な構えを決めた。
「自分の身は自分で守ると。それに、馬に蹴られたくありませんから。また明日。」
ガルドは珍しく苦笑いして、三人はそこで別れた。
こうして、様々な想いが交錯しながら、聖剣の儀の日は静かにやってくる。
日常は、こんなにも穏やかだった。
笑って、からかわれて、悩んで、眠る。
それだけで終わるはずの一日。
けれど――
その同じ夜に、
魔王は計画を語り、
悪魔は微笑み、
勇者候補たちはそれぞれの想いを抱えていた。
すべてが、同じ一点に向かっている。
明日。
“聖剣の儀”。
そこで選ばれるのは、誰か。
そして――誰が、壊れるのか。
少女はまだ知らない。
自分がその中心に立つ存在になることを。
物語は、ここから一気に動き出す。




