第百七十四話:焦熱地獄の王座──黒ずきんちゃんは喰らう
九つの地獄のうち、六つを越えた。
残されたのは、
ただ強い魔王ではない。
喰らう者。試す者。祝福と死を分ける者。
ここは焦熱地獄。
炎は罰であり、食卓であり、終わらぬ飢えの証明だ。
黒ずきんを被った赤髪の王が待っている。
――これは、おとぎ話では終わらない。
焦熱地獄
世界が燃えている。
暴飲暴食に耽った者たちは、焦熱地獄の一角に特設された区画に堕ちる。
ここでは、彼らが生前に貪ったものが、そのまま罰へと変わる。
赤く滾る鉄板と、それより熱い炎しか存在しない。罪人たちは鉄串に貫かれ、鉄板の上で焼かれ、皮が剥け、脂が溶けては燃え上がる。絶叫は炎の轟音に吞まれ、肉の焦げる臭いが空気そのものと化す。
その灼熱の中心に、彼女が立っている。
炎よりも赤い髪が、熱風に逆立ち、踊る。髪の襞一つ一つが炎舌のように揺らめき、彼女自身が燃えているのか、それとも炎が彼女の形を借りているのか、見分けがつかない。口を開けば、鋭くギザギザとした鮫の歯が、油光りする肉片を噛み千切る。
黒いローブは、灰とも煤ともつかない物質で織られており、炎に舐められても焦げず、ただ暗く燻びた光を吸い込む。その手には、巨大なデスサイズが握られている。が、その刃は魂を刈るためではなく──鉄串に刺さった罪人の肉体をひっくり返し、焼き加減を確かめ、こそげ落とす「調理道具」として使われる。
ベリアルは動く。
黒いローブの裾が炎を払い、赤熱する鉄板の上を平然と歩く。デスサイズの柄で、焼け爛れた罪人の腹を突き、中まで火が通っているかを確かめる。通りかかった罪人の腕を、素手でむしり取り、そのまま鮫歯で噛み砕く。
「……足りないデース。」
彼女が呟くと、地獄の炎がさらに激しく燃え上がり、罪人たちの再生速度が速まる。焼け焦げた肉が剥がれ落ち、その下から新たな生肉が膨らみ、また焼かれる準備が整う。
彼女は死神ではない。
死神は魂を刈り取るが、彼女は喰らう。デスサイズは魂を刈る鎌ではなく、無限に続く食欲を満たすための「膳立ての道具」でしかない。焦熱地獄自体が、彼女のための巨大な厨房であり、罪人たちは尽きることのない食材なのだ。
炎が彼女の髪と同化し、デスサイズが影を落とすその先では、次の「料理」が、もう焼き上がろうとしている。
*
一方、毛玉たちは何十回もの転移を繰り返し、ようやくこの地へたどり着いた。九つの地獄のうち六つを既に制したことで、残るはより困難なものばかりとなっていた。タイムリミットはあと一週間を切っているというのに、残された魔王はまだ三人。しかも、どれも厄介極まりない者ばかりだ。
「ベリアルさんって、どんな方なんでしょうか? 暴食の悪魔なら、美味しいものを作ってあげたらコインをくれませんか? セリナは料理が得意です」
「セリナ君、君は『赤ずきんちゃん』の話を聞いたことがあるか?」
「はい。赤ずきんはおばあさんのお見舞いに行く途中でオオカミに出会います。先回りしたオオカミはおばあさんに化け、赤ずきんを食べてしまいました。でも猟師に助けられて、オオカミは退治されてハッピーエンドです。でも……なんで今それを聞くんですか?」
「千年後、その話はそう変わったか。ならば、君にこの話の原本——『黒ずきんちゃん』の話をしよう」
昔々、オオカミは人の家に忍び込み、老人や子どもを食べることがよくあった。
獣が種族の中の弱い個体を狙うのは、なにも人間に限った話ではない。
ある日、一匹のオオカミが一人暮らしの老婆の家にこっそり潜入し、晩餐を楽しもうとした。村人に見つからぬよう、人間の服を着てしっかりと偽装を整える。
だが、今日はいつもと違った。そのおばあさんはベッドに寝込んでいて、布団で顔を深く隠している。ただ、被った黒いずきんだけがひときわ目立っている。
オオカミはためらった。獣の本能が、危険を告げている。勇気を振り絞り、オオカミは問うた。
「まあ、おばあさん。なんて黒いずきんをしているんだい?」
「それはね、汚れ仕事をしても汚れが目立たないためデース」
布団を少しずらすと、鮮血のような赤い髪がのぞいた。
「まあ、おばあさん。なんて赤い髪をしているんだい?」
「それはね、おしゃれに見えるためデース」
さらに布団を下ろすと、鋭い目つきがオオカミを睨みつけていた。
「まあ、おばあさん。なんて鋭い目つきをしているんだい?」
「それはね、老眼だから、あなたをよく見えるためデース」
ついに顔全体を現したそれは、老婆の顔ではなく、黒ずきんを被った赤髪の少女だった。口を開くと、オオカミより鋭い牙が二列に並び、涎が垂れそうになっている。
「まあ、オオカミさん。なんて震えているのデースか」
逃げる——オオカミは悟った。今の自分はもはや狩る側の捕食者ではなく、狩られる側の獲物なのだ。必死でドアへ走ろうとするが、足が動かない。なぜなら、それはもう鎌によって胴体から斬り落とされていたからだ。
しかし、オオカミはその痛みすら感じることはなかった。黒ずきんちゃんに布団の中へ引きずり込まれるままに。黒ずきんちゃんのひ弱そうな手に押さえつけられ、オオカミはいくら足掻いても無駄だった。
「いただきますデース」
布団が二人を覆う。オオカミの目に最後に映ったのは、黒ずきんちゃんの、ギザギザの歯が並んだ、血に飢えた大口だった。
骨が砕ける音、肉が千切れる音、獣の断末魔の悲鳴。
今日も黒ずきんはご馳走になった。
周囲の村人たちが駆けつけたとき、おばあさんの部屋にはもう何もなかった。
ベッドの上には、なにかが必死に抗った跡と、血に赤く染まったシーツ。そして、一瞬で影に消えていく黒いずきんだけが残されていた。
*
毛玉の『黒ずきんちゃん』の話が終わり、全員が少なからず苦い表情を浮かべた。
「おとぎ話じゃないよ、暗すぎる。子供が泣いちゃうよ。ほら、はいはい、作り話だからね」
レンは抱き合って震えるエンプラとザガンをなだめようとした。
「いや、本当の話だぞ。だって、あの黒ずきんちゃんこそベリアルだからな」
「うち、ウサギだから食べられちゃうのですか……ブルブル」
「吾輩は鋼鉄で出来ているから、美味しくないでありますよ……ブルブル」
「あの……」
しかしセリナだけは動じていなかった。恐怖よりも、彼女には別に気になることがあった。
「おばあちゃんは、どうなりましたか?」
「さあね。暴食の彼女だから、とっくに食べられたんじゃないのか」
「いいえ。セリナは、黒ずきんちゃんはおばあちゃんを守るためにオオカミを狩ったと思います。でなければ、そんな回りくどいことをしません」
「あの食欲の権現が?」
「無限地獄のとき、彼女はそうしてヴェネちゃんを守ったじゃないですか。だから私は、黒ずきんちゃんの優しさを信じたいです」
「ふん~……姉さんが言った通りの甘ちゃんデースね」
突然、毛玉たち五人以外の声が会話を遮った。
焦熱地獄の火の灯りが映す彼らの影から、もう一つの影が切り離れた。
黒いずきん、赤い髪、鋭い目つき、ギザギザの歯。
おとぎ話から迷い出たように、黒ずきんちゃんは今ここに降臨した。
左手でデスサイズを回し、右手はセリナの首を掴んで軽く締め上げる。猟師が獲物のウサギを持ち上げるように。
「人間って脆いデースね。こんな首の骨、ベルが少し力を込めればグキッと折れちゃいそう。よくもそれでここまで来られたデースね。でも、ベルは甘くないデース」
ベリアルは容赦なく、セリナの首をへし折らんばかりに指先へ力を込める。
「させない!」
閃光より速く、レンが斬撃を放ち、ベリアルの右手を見事に両断した。
毛玉は続くように、セリナの首を締めるベリアルの断手を凍結。
エンプラは閃光弾を投げると同時に、ガトリング砲をぶち放つ。
「これがザベルトを出し抜く神速の剣? 大したことないデースね」
切り落とされた右手を淡々と見つめ、左手のデスサイズを回して飛来する銃弾を弾いていく。しかし突然、地面が崩れ、大きな穴がベリアルを飲み込もうとした。
「へえ、対戦士用の罠デースか。ザベルトがこれでやられただけある」
ベリアルは泰然自若、背後に六つの黒翼が生え、空中に静止した。さらに余裕で右手を再生させ、肉眼で捉えられないレンの二度目の斬撃を、指二本で止めた。
「うそ……!」
戦士の頂点ザベルトでさえ『風』を使っても捉えきれなかったレンの一閃を、ベリアルは見もせず素手で止めたのだ。親指と人差し指で強く剣身を握り、レンの力では刺すことも抜くこともできない。
「まずはササミから食べるのデース」
左手のデスサイズを大きく振りかぶり、レンへ切りかかる。
キーン!
そのデスサイズの先を拒んだのは、セリナの聖剣だった。ベリアルの支配から逃れた彼女は即座に天使化し、戦いに加わっていた。危ないところだった。あと少しでその刃がレンの首に届く。
「次々と、鬱陶しいデース。そういえば、剣士のガキ、お前は飛べるデースか?」
握ったレンの剣ごと、レンを大穴へ投げつけた。
「レン君!」
「余所見できるほど、ベルがなめられているデースか?」
空いた右手をデスサイズに加え、両手の力を込めると、聖剣にひびが入り、あっという間に粉砕された。
「終わりデース!」
さらにデスサイズを逆手に振り、セリナにとどめを刺そうとする。
瞬時、数万の鎖がデスサイズと彼女ごと縛り上げた。
セリナのメイド服から毛玉が現れた。ずっとタイミングを計り、潜伏していたのだ。下から追尾弾が打ち上げられ、ベリアルに命中する。しかし、少しのダメージさえ与えることはできなかった。ベリアルは体に縛りついた鎖をちぎり、再びデスサイズを構える。
「──審判の時は来た。神々の楽章を、この剣に刻む」
「歪んだ世界に、終焉の調べ(アリア)を捧げよ」
「熾天使の炎で焼き浄め、ハープの調べで切り裂け──」
「天壊聖唱──ッ!!」
しかしその前に、セリナは詠唱を終え、彼女の最強の技を放っていた。
「Abyss Harvest」
口元に不敵な笑みを浮かべ、デスサイズが振りかざされた。漆黒の一撃は黒い炎を帯び、その先のすべてを喰らい尽くす。セリナの最強の天壊聖唱さえ飲み込み、その勢いは止まらない。その速さは、セリナの反応が間に合わない。このままでは、彼女は両断されてしまう。
その時、斬撃は空中で止められた。まるでストップボタンが押されたように。
「時間停止……よくも姉さんの能力をパクりあがったデース」
焦熱地獄の時間は止まった。燃え上がる炎も、焼かれゆく罪人も、空中で守りの構えをしたセリナも、一瞬前の状態で静止している。ただ二人を除いて。
「やはり、王クラスの実力を持つ者には時間停止が効かないか。まあ、あの斬撃を止められただけでよしとすべきか」
暴食の王ベリアルと、毛玉だけが動いていた。
時間を止めたのは毛玉だ。それはベリアル本人にはさほど意味をなさないが、彼女の遠距離攻撃を止めるくらいはできる。あのままではセリナが両断されてしまう。
「ベリアル、私と一対一で勝負しろ。彼女たちに手を出すな」
「いやだと言ったら、どうするデースか?」
「彼女たちをかばいながらでは、私は全力を出せない。そんな私に勝っても、君の目的は達成できないだろう」
沈黙。停止された世界で、時は流れないが、その沈黙はいつもより長く感じる。ベリアルは目を閉じて思いにふけった。悩みに悩んで、彼女は決断を下す。
セリナの前まで飛び、デスサイズを高く掲げ──そして、重く下ろした。
切られたのは、先ほどセリナへ放ったAbyss Harvestだった。黒い炎が燃え上がり、彼女自身の攻撃さえ喰らい尽くした。それが、彼女の答えだ。
「ベルはお前の底を知りたい。姉さんにふさわしいかどうか、男を試す。弱いやつなら喰らう、強いやつなら祝福する。それだけデース。だから──」
ベリアルの手がセリナの顔に触れ、彼女の時間が動き出す。
「殺さなくてもいいやつなら、ベルも殺したくないデース」
意識を取り戻しすぐに聖剣を構えるセリナは、目の前のベリアルの雰囲気の違いに気付き、ゆっくりと剣を下ろした。
「甘いやつ。まだベルがお前の首をへし折るのが怖くないデースか?」
「今のベリアルさんは、セリナを敵として見ていません。だから、そんなことはしないと信じていますから」
「信じる……お前もあのじいさんばあさんと同じ、人が良すぎて食欲がわかないデース。もういい。お前の死期は今日じゃない。下の仲間を連れて行け」
「でも、マオウさんが……」
「私は大丈夫だ。『力を示せ』──そうしなければ先へ進ませない。これがこの戦いの意味だ。そうだろ、かつての死の天使、サリエル」
「その名はもう捨てた。今のベルは、暴食の悪魔、ベリアルデース」
かつて天界で「死の天使」と呼ばれ、今は悪名高き暴食の魔王となった彼女。堕天する前、一体何が起こったのか──
焦熱地獄の止まった時間が再び動き出した時、毛玉とベリアルの一騎打ちは始まる。そしてその結果やいかに。
溶岩が滾る王座の間で、二人だけが向き合う。背後には、誰もが手の届かぬ高みに──かつて彼女がただ一人で座り続けた、孤独な王座があった。
依頼期限まで、残り7日。
暴食の王は、ただ喰らうだけの怪物ではなかった。
弱き者を喰らい、
強き者を試し、
生き残った者だけを認める。
焦熱地獄の王座は、
炎に囲まれながら、
ずっと一人で空いていた。
時は止まり、
世界は静まり、
王と王だけが向き合う。
次に動くのは、剣か、鎌か。
残り七日。
地獄巡りは、いよいよ核心へ。




