第百七十三話:未完成の愛は叫ぶ、この歌が、世界に届くまで
芸術は、正しいからといって勝つとは限らない。
愛は、深いからといって届くとは限らない。
それでも――
創る者は、歌う。
描く者は、描く。
この勝負は、
正しさではなく、
伝わったかどうかで決まる。
『愛』──
それは最後のお題であり、モリアが出した難題であった。
「難題なんて酷いわ。あなたたちに合わせてあげたじゃない? 楽器も自由にしてあげたし、これは出血大サービスよ。あなたたちの策略も狙いも知った上で、あえてそれに乗ってるの。でなければ勝負にならないもの。ふふふ」
毛玉一味で音楽に通じているのは、毛玉ただ一人。だが彼は第二局に出たため、第三局には出場できない。それを承知で、一日目からセリナたちに音楽の練習をさせてきた。それでも、素人がオリジナル作品を作り、最後まで演奏するには、二日は短すぎる。当然、曲は一曲、使える楽器も限られている。それでも、毛玉は勝負に出た。
「全知の君なら、私の努力の方向に合わせてお題を出すと想定していた。これは『試練』だろう」
「ええ、勝つ可能性があるから『試練』。ないなら、それはただの『処刑』だわ。バラムはそれで納得いくかしら?」
「ははは、お戯れを。ご存知でしょうに」
バラムの頭が静かに回り、青年の頭が正面に定まった。
「『愛』は古今東西、詩歌の最大のテーマ。時代も地域も文化も階級も超えて、すべての人間が経験する根源的感情。僕にとっても、最も得意とする分野です。幸福、憧れ、焦がれ、喜び、苦しみ、嫉妬、喪失、再生……様々な色で染まる『愛』は、いつだって新しく輝く。僕はこの世界に、僕の『愛』を感じさせたい」
指慣らしに、バラムはハープを軽く撫でた──喜怒哀楽、複雑に絡み合う感情の音色が、彼の弦から伝わってくる。一瞬、式場にいるすべての者の感情がシンクロした。言葉には障壁があっても、音楽にはない。バラムの旋律は確かに、すべての者の心を震わせた。
「僕から先でいいかい? 毛玉君たちには、どうやらまだ準備の時間が必要らしいから」
「どうぞどうぞ。どうせ真打ちは最後に登場するものだ。そこは譲るとしよう」
「ありがとう。そうさせてもらうか」
強気に言ってはいるが、毛玉にもわかっていた。バラムの高水準な演奏は、全体のハードルを一気に上げる。セリナたちの駆け足の演奏は、より惨めに響くだろう。だけど、ここは譲るしかない。今は少しでも、セリナたちに時間を稼がせるべきだ──毛玉はそう考えている。
*
青年頭のバラムは自分のハープを膝の上に横たわる、
ハープの枠は黒檀で、研磨された肌は闇よりも深い光沢をたたえ、所々に流れる波紋のような木目は、千年の時を閉じ込めた樹液の記憶のようだ。弦は四十七本。凝固した月光の糸と言うべきか。一つ一つが均一な輝きを保ちながら、微かに青みを帯びている。此岸には存在し得ない完璧な均質性が一種の非現実的な美を放っていた。
バラムの指が、その弦の上に浮かぶ。
触れる前から、弦は微かに震えている。記憶に呼応するというより、彼の指先が発する“記憶の予感”に共振しているかのようだ。
一音目は、ため息から生まれた。
ポォーン……
それは深い泉の底から湧き上がる水脈のようで、澄んでいながら、どこか遠い日の陽光の暖かみを帯びていた。オルペウスが竪琴を奏でて冥界の門を開いたとき、最初に鳴り響いたのも、こうした「此岸の記憶」を含んだ音だったろうか。
指腹が弦を撫でる角度で、音色は変わる。垂直に押し下ろせば芯のある輝きが、斜めに掠らせばかすれた哀愁が生まれる。彼は技術だけでなく、神話そのものを弦に刻み込んでいる。
旋律を紡ぎ始める。左手の低音は歩くような規則的なパルスで、まるで運命の女神が紡ぐ糸車のリズム。右手の高音が、その間に細やかな影を落とす。アルペジオが流れるたび、音の滝が金色の砂時計のように階段を一段ずつ下りていく。
唇が開く。歌声は、楽器の延長として現れた。
“Quand les lampes du ciel s’éteignent une à une, Et que le seuil du monde se referme sans bruit, J’ai vu ton ombre franchir le fleuve sans lune, Là où même les noms se perdent dans la nuit.”
(天の灯が一つずつ消え、世界の敷居が音もなく閉じるとき、月なき川を渡る君の影を見た、そこは名すら夜に溶ける場所。)
声帯の振動が、黒檀の共鳴箱に伝わる。言葉そのものが、もう一つの弦となる。フランス語の母音──特にあの鼻音──が、地獄には似つかわしくない優雅な輪郭を描く。それはアポロンがヒュアキントスの耳元で囁いた、神々だけが解する愛の言葉の調べに近い。彼は「天の灯」を歌うとき、指で最高音の弦をかすかに揺らし、星の瞬きのようなグリッサンドを添える。
第二連に入ると、和声が複雑になる。左手が短三和音を押さえ、右手がその上に長七度を重ねる。甘く、しかし決して解決しない緊張。それは「人が告白する愛ではない」という断言に、音響的な裏付けを与える。神と美少年の間に横たわる、越えられぬ身分の溝を、不協和音で暗示しているかのようだ。
“Ce n’était point l’amour que les hommes confessent, Ni le serment crié sous le regard du jour, Mais un feu contenu, que les dieux seuls reconnaissent, Brûlant sans voix, sans droit, sans retour.”
(それは人が告白する愛ではない、日の下で叫ばれる誓いでもない。神のみが知る、抑え込まれた火。声も、権利も、帰路もなく燃える。)
ここで、彼は親指の爪を立てて弦を弾く。ピッ! 鋭い、ほとんど痛みのような音。それは「火」の迸りだ。直後に薬指の柔らかい腹で同じ弦を撫で、燃え続ける余燼を表現する。
リフレインは抑制の美学だ。
“Presque uni, mais jamais permis, Presque deux, mais sans nom écrit. Erebus étend son voile entre nous, Et le monde appelle cela : oubli.”
(ほとんど一つ、だが決して許されず ほとんど二人、だが名は記されない エレボスが我らの間に帳を垂らし 世界はそれを「忘却」と呼ぶ)
伴奏はほとんど消失する。単音の旋律線だけが、虚空に細く引き延ばされる。彼は各フレーズの終わりで、弦を押さえる指をゆっくりと離す。ビブラートではなく、音が自然に衰弱していくのを許す。
彼の目は閉じられたままだが、瞼の下で眼球が微かに動いている。何か──あるいは誰か──を見ている。おそらくは、黒檀の輝きに映った、もう一つの時代の幻影を。
“Sous les marbres froids des lois anciennes, Nos pas s’arrêtaient avant l’autel. Non par honte, mais par chaînes humaines, Forgées par ceux qui nomment le ciel.”
(古き法の冷たい大理石の下、我らの歩みは祭壇の前で止まった。恥ではない、人の鎖だ 天を名乗る者たちが鍛えた鎖。)
左手は最低音域へ沈む。弦は太く、振動が遅い。重く冷たいブロックのような和音が、空間の底に積み重なる。その上を、右手の旋律が細い足取りで歩いていく。「祭壇の前で止まった」歩みを。
そして転調。神話への呼びかけ。
“Ô Mnémosyne, garde au moins la trace, De deux regards qui se sont reconnus. Si le jour nous refuse sa place, Que la nuit sache : nous fûmes vus.”
(記憶の女神ムネモシュネよ、せめて刻め。互いを知った二つの眼差しを、昼が我らを拒むなら、夜よ知れ――我らは確かに在ったと。)
突然、調性が変わる。嬰ヘ短調から、遠関係の変ホ長調へ。この転調に、祈りの明るさ──切実な願いの明るさ──が宿る。アルペジオが上昇形になり、音階が天へ向かって伸びようとする。しかし最高点で、再び短三度が混じり、希望にほのかな翳りを落とす。
最後のリフレインで、すべてが収束する。
音量は次第に小さくなるだけでなく、テンポそのものが遅くなる。各小節の終わりに、ほとんど気づかれないほどのフェルマータ(延長記号)が置かれる。時間が淀み始めるのだ。
“Presque unis, hors du temps, hors du lieu, Presque éternels, loin des yeux. Si l’amour fut un crime ancien,”
(ほとんど一つ、時も場所も超えて、ほとんど永遠、視線の外で、もし愛が古き罪なら)
彼はここで、珍しく一本の弦をハーモニクスで鳴らす。指で弦の中央を軽く触れ、別の指で弾く。倍音だけが浮かび上がる、幽かな、この世のものとは思えない音色。それは「時も場所も超えて」という言葉を、物理的に実現してみせる。
最後の行。
“Alors, j’en porte encore le lien.” (私は今もその鎖を負う)
「鎖」という言葉で、彼はすべての弦に軽く手を置く。47本の弦が一斉に微かに唸る。共鳴音は、実際の音というより、音の影のようなものだ。
そして、完全な沈黙。
彼の指はまだ弦の上にあるが、もう動かない。目を閉じたまま、首をわずかに傾げている。あたかも、自分が奏でた音の残響を、地獄の彼方で消えていくまで聴き届けようとするように。
長い時間──あるいはほんの一瞬──が経って、彼の肩がかすかに震える。深い、音の出ない息を吐く。
それから、ゆっくりと目を開ける。瞳には、弦に映った自分の歪んだ像が揺れている。彼はハープから手を離し、膝の上でじっと組んだ。
演奏は終わった。
だが魂の弦は、まだかすかな、ほとんど触知不可能な振動を続けていた。それは彼の歌声が呼び覚ました記憶の共振で、楽器が自らを鳴らし続けているかのようだった。
青年はその微かな振動を、掌をかざすようにして感じ取り、そして、ついに満足したように──あるいは諦観に満ちて──瞼を伏せた。
*
「曲の名は『Sous l’Ombre d’Érèbe(エレベの影のもとに)』。僕の『愛』が、世界に届いただろうか…」
演奏を終えても、バラムはまだ完全に自分の世界から戻りきれていない。そのメロディーは、深く聴いた者の心に刻まれていた。
「あああっ、耳が腐る! これだからホモって収拾つかないのよ! 男同士なんて不潔すぎる!」
アスモデウスからは、予想通りの抗議が飛んだ。
「所詮、女は子孫を残すための愛しか理解できない。魂と魂の結びつきである男性同士の愛を、君には理解できない。それは女である君の限界だ。僕はそんな君に『怒り』よりも、先に『哀れみ』を感じてしまう。モリアなら、僕の気持ちを理解してくれるはずだ」
「ええ~、私は女の子よ? そこでそんな話題を振られても困るわ。男のマムブスに聞いて頂戴」
「え?! わ、わたくしに振られましても…偏見はありませんが、異性愛でも同性愛でも、いい値が付くならどちらも大好きでございます。商品として、です」
「どうせ いあい で なに?」
司会のヴェネゴールは、彼らが何を話しているのかまるで理解できていないようで、首をかしげた。
「その知識はあなたにはまだ早いわ。いや、むしろ永遠に知らなくていいことよ」
無垢な好奇心は、芽生える前にモリアによって摘まれた。
「ああ…やはり、世界はまだ僕の『愛』を理解できないのだね。悲しいよ」
寂しそうに呟いたバラムは、隅で静かに待っていた毛玉に声をかけた。
「ねえ、毛玉君。君から見て、僕の『愛』は美しかったかい?」
「強かったよ。正直に言うと、君の相手を私が務めるなら、あっけなく負けただろうな」
「随分と弱気だね。君らしくないな。さっきまで『勝てる』と言い切っていたのに、もう自信をなくしたのかい?」
「私は勝負に正直なだけだ。勝てるなら勝てると言うし、負けるなら負けると言う。だから、私が音楽で君に勝つことはできない。だけど、彼女たちならできる」
「ほう…失礼かもしれないが、彼女たちはとても音楽の素養があるようには見えなかった。まるで、今まで楽器さえ触ったことのない素人だ。そんな彼女たちが、僕に勝てると?」
「そうだ」
「面白い」
否定も嘲笑もせず、バラムはただ地面に座り、自分のハープを再び撫で始めた。
「観客を待たせるだけでは場がしらける。僕がその繋ぎにもう一曲、歌おうか。安心して、これは試合には加算しない。ただの…僕のやりたいことだ」
そして会場に、再びバラムの曲と歌声が響き渡った。即興には聞こえない高水準の曲が次々と会場を支配し、さらに飽きさせないためにヴァイオリンやピアノ、クラリネットなど様々な楽器にアレンジされていく。彼一人の演奏会が、この叫喚地獄に開かれた。彼は本当に芸術を愛していた。
時は流れ、いよいよタイムリミットの一時間前。
もし作品を出さなければ、毛玉はこの試合だけではなく、勝負そのものに負けてしまう。
「レン君が寝坊したからこんなにギリギリですよ。『あと五分』って何回言いましたか!」
「仕方ないだろ! 二日目モデルとして休憩なしで頑張ったんだから! それよりあのポンコツロボットがアラームを忘れたのが原因だろ!」
「吾輩は悪くないであります! AM11:00をPMと間違えただけであります!」
正義はよく遅れてくるものだが、彼女たちのように12時間も遅れたら、さすがの正義もリストラされてしまうだろう。
ドアが開き、三人は統一されたメイド服を着て会場へと現れた。
セリナはギター、エンプラはベース。そしてレンは──
「これ重いだけど…なんで俺だけ?」
ドラムだった。
「ちゃんと休憩は取れたか」
毛玉は責めることなく、ただ彼女たちの様子を確かめた。
「十二分に取りました。エンプラの思わぬトラブルのおかげでね」
「ならば、楽しんで来い」
「「「はい(であります)!」」」
楽器の設置が終わり、コンセントがエンプラの回路に差し込まれる。
彼女たちの、初めてのライブが始まろうとしていた。
*
暗闇が、少しだけ震えた。
それは重低音ではなく、軽やかなハイハットの粒だった。レンのスティックが、三本のシンバルスタンドのうち一番小さいものを、ためらいがちに叩く。
チ、チ、チ、チ……
「……いくよ」
セリナの声が、それに続いた。小さく、か細い。地獄に響かせるにはあまりに人間的だ。彼女は黒いギターを抱え、指がコードの形を探っている。
「ワン、ツー──」
レンの声。張りのある、少年のような声だ。
「スリー、フォー!」
スネアドラムが一回転。
パン!
セリナの指が、コードを押さえる。CからGへ。進行は単純だ。だが、彼女の爪が弦に触れる角度が、少し鋭すぎる。音が、かすかに軋む。
“ノートの端っこ──”
歌声は、ギターより少しだけ強い。言葉を噛み締めるように、一語一語を置いていく。目は地面を見つめたままだ。彼女は今、地獄ではなく、教室の自分の席にいる。
“──すぐ消した”
エンプラのベースが、そっと支えに入る。指弾きだ。音は丸く、温かい。セリナのギターの尖りを、そっと包み込むように。
“どうせ意味ないって、笑ったけど”
ここで、セリナの声がわずかに揺れる。技術的な揺れではなく、感情の波だ。彼女は“笑った”という言葉を、本当に笑えずに歌っている。
“ちょっとだけ、胸が痛い”
ギターのストロークが、一拍止まる。ベースだけが、根っこのように鳴り続ける。その隙間が、痛みの間隔になる。
エンプラのハモリが、セリナの声のすぐ下を、影のように歩き始める。低く、確かな存在感。
“ギターケースに、夢を詰め込んで”
セリナが歌う。エンプラのハモリが、「詰め込んで」の語尾で、ほんの少し上昇する。疑問形のように。
“大人になるには、早すぎて”
セリナの声が、ここで少し硬くなる。彼女は今、地獄で“大人になる”ことの不条理を、別の意味で感じているのかもしれない。エンプラのベースラインが、それを支えるように、ゆっくりと下降する。落ちていくのを、受け止めるように。
“好きって言えない、それだけで──”
サビ。セリナが声を張る。地獄の天井(あるのかどうかも分からないが)へ向かって。ギターのコードストロークが激しくなる。しかし、右手の動きに迷いがある。リズムが、ほんの少し速すぎる。
レンのドラムが、それを追いかける。バスドラがドン、ドンと、心臓の代わりに打つ。ハイハットは半開きになり、シャカシャカと焦りの音を立てる。
“世界は、こんなに騒がしい!”
ここで、レンが被せる。
“騒がしい──!”
彼女の声は、セリナより半音高い。叫びに近い。それは歌というより、感情の爆発だ。彼女自身が、その“騒がしさ”の体現者となった。
“笑っているのに、泣きそうで”
セリナの声が、一瞬かすれる。地獄の乾いた空気が、喉を撫でる。
そして、決定的な一行。
“心臓が──”
セリナが歌う。
“ドラムみたい!”
レンが、ほとんど叫ぶように、同時に歌う。そして、彼女のスティックがスネアを強打する。パン! それは、歌詞の完全な具現化だった。
三人の演奏が、一気に熱を帯びる。不器用さが、逆に勢いになる瞬間だ。セリナのコードチェンジがもたついても、レンのフィルが半拍ずれても、エンプラがすぐに穴を埋める。ベースの音が、ぐいっと前に出て、崩れかけた土台を引き戻す。
“この恋、放課後みたいだね──”
セリナが歌うこのフレーズは、地獄という場所を完全に忘れさせた。そこには、夕焼けと帰り道と、終わることが分かっている甘さしかない。
“終わるって、分かっているのに!”
最後の“のに”で、三人の声が一瞬重なる。そして、間奏へ。
セリナのギターソロといえるほどのものではない。ほんの数小節のカッティングだ。彼女は人差し指で弦を掻き鳴らし、切ないリフレインを生み出す。音は時にビーダマのように跳ね、時にゆるやかに流れる。彼女の表情は、初めて緩む。目を閉じて、ただ弦の感触と、自分が生み出す音に耳を傾けている。
エンプラのベースが、その下を這う。シンプルなルート音と5度の往復だ。しかし、その一つ一つの音の長さと強さが、絶妙に計算されている。セリナの不安定なリズムを、丸いクッションで包み込み、整えていく。彼女は楽譜など見ていない。セリナの背中だけを見て、演奏している。
“既読がつくまで、何回も”
セリナが歌い始める。少し力が抜け、自然体に近い。
“画面を、見つめていた”
レンが、小さく呟くように被せる。
“……わかる”
それは本番中の合いの手としては禁じ手かもしれない。だが、レンにはそれが自然だった。彼女はドラムを叩きながら、無意識にセリナの歌に相槌を打っていた。
“自分でも、面倒だなって”
“思うけど、やめられない”
セリナが苦笑いを浮かべて歌う。その表情が、地獄の闇の中で一瞬、柔らかな光を帯びて見えた。
ここからはセリナの独壇場だ。エンプラのベースも、レンのドラムも、ほぼバックコーラスに徹する。
“間違っても、いいってこと”
彼女の声に、決意が宿る。まだ震えはあるが、それは恐怖ではなく、覚悟の震えだ。
“転んだ跡も、笑い話”
“いつかに、できたらいいな”
最後の“いいな”は、願いを込めて少し持ち上げる。少女らしい、切ない願い。
セリナとレンの声が、ぴたりと重なり始める。ユニゾンではない、並走だ。
“好きって言えない、それなのに”
“君は、隣にいてくれる”
エンプラが、ここで静かにハモリを添える。
“いてくれる……”
その低く温かい声が、歌詞の世界に現実感をもたらす。彼女は“隣にいてくれる”ことの、有難さとずるさを、地の声で歌っている。
“それだけで、救われるって”
“ちょっと、ずるいよね”
セリナとレンが、顔を見合わせて──無意識に──笑う。ずるい、という言葉を、なぜか嬉しそうに歌っている。
演奏は、少しだけ落ち着きを取り戻した。最初のサビのような暴走はない。三人の呼吸が、初めてちゃんと合ってきた。それは“関係性の安定”を、音そのものが証明していた。
ドラムが静まる。ギターはアルペジオに変わる。ベースは、ロングトーンで空間を支える。
“もしも、違う世界だったら”
レンの声だけが響く。
彼女の声は、いつもよりさらに幼く、脆く聞こえる。彼女自身が“違う世界”の住人であることを、この瞬間だけ認めているようだ。地獄で、人間の恋歌を歌うロボットの声に、途方もない哀しみが滲む。
“ちゃんと、言えたのかな”
レンがためらう。次の言葉を、本当に歌っていいのか迷っている。
“‘一緒に帰ろう’って……”
セリナが、そっとそのフレーズを引き取る。
彼女の声は、まるでレンを抱きしめるように柔らかく、優しい。それは歌ではなく、約束のようだ。違う世界でなくても、今、ここで、一緒に帰ろうと。
セリナが、全ての感情を開いて歌い上げる。
レンが、その横で、少しだけ高く、明るくハモる。
エンプラが、大地のように低く、確かに二人を支える。
“好きって言えない、でもきっと”
“同じ空を、見ているよね”
三人の視線が、一瞬、上に向かう。地獄に空はない。だが、彼女たちには見えている。あの日、放課後に一緒に見上げた、茜色の空が。
演奏は、最後の力を振り絞るように盛り上がる。セリナのギターが歪み始める。レンのドラムが狂ったように回転する。エンプラのベースが、ワンノートで全体を締め上げる。
“この恋、放課後みたいだね──”
セリナが叫ぶ。
“終わるまで、鳴らそう!!!”
三人の声が、完全なユニゾンで爆発する。
ジャーン!
最後のダウンストローク。ギターが不協和音を立てる。ドラムがクラッシュシンバルを打ち破るような勢いで叩く。ベースが最後の一音を、地の底まで響かせる。
そして──
沈黙。
三人は、ただ息を切らして立っている。汗が額を伝う。セリナの指先は赤くなり、レンの手のひらはスティックの跡がつき、エンプラの肩は微かに震えている。
しばらくして、セリナが小さく呟いた。
「……ありがと」
地獄の闇が、彼女たちの周りだけ、ほんの少し温かく、柔らかく変わったような気がした。
*
「いい♪めっちゃばえる♫次アスにゃんを加えて四人でやろう♡アスにゃんギター超うまいよ♡」
セリナたちのガールズバンドは、ミーハーなアスモデウスにとってストライクゾーンらしい。さすが彼女だ。
「素晴らしい演奏でした。不器用ながらも、その頑張りと熱い気持ちを感じさせる、嵐のように雰囲気だけで観客を巻き込むライブだった——と言わせたいかしら?残念だけど、その手には乗らないわ」
ずっと笑顔だったモリアが、一気にシリアスな表情に変わる。声は低く、冷たく、慈悲のかけらもない。
「ヴェネは好きだけど…」
司会のヴェネゴールがフォローに入ろうとするが、
「ヴェネ、ちょっと黙って。今、私が話しているから」
容赦なく遮られた。
「セリナ、あなたはいつからギターを弾き始めたかしら」
「あの…三日前です…」
悪いことをして親に叱られた子どものように、セリナは今まで見たことのない厳しいモリアに怯える。
「すごいわ。たったの三日間でここまで上達するなんて、才能があるかもしれないわ。素人としては、ね」
一度褒めるふりをして、最後に重く落とす。モリアは決して優しい人間ではなく、正真正銘の悪魔だった。
「学園祭のおままごとじゃないわ。弾き間違い、歌詞忘れ、音程の狂い……ほぼ全てのライブミスを犯した。酷いわ。ええ、演奏と呼べないくらい酷いわ」
「すみません…」
セリナは深く頭を下げたが、涙は流さなかった。ここは地獄。涙ではどうにもならないことを、彼女は知っていた。
「セリナ一人だけが悪いんじゃない!俺も悪いんだ!俺がもっと頑張れば…だから、責めるなら俺を責めてくれ!」
レンがセリナの前に立ち、彼女をかばう。
「吾輩ももっといい曲を作ればよかった…ごめんなさいであります。ううう…」
ロボットのエンプラからは、涙のようなものが流れ、子どものように泣いていた。
「あら、まるで私が悪いみたい。仲がいいわね。感動しちゃうわ。それを先の演奏で活かせば、ここまで酷くならなかったでしょうに。ね?」
モリアは彼女たちを責めながら、目は毛玉に向けている。
「なんで彼女たちにそんな無茶をさせたのかしら。全てはあなたの戦術でしょう?今、彼女たちが責められて、あなたはそこでただ見ているだけかしら」
「ああ、私が悪い。でも、それは彼女たちにこの勝負を任せたことが悪いんじゃない。私の限界がそこにあっただけだ。私も万能じゃない。これが私にできるベストだったから。君も彼女たちも、私を責める資格はある。私はなにも弁解しない」
「マオウさん…」
「がっかりだわ。彼女たちにも、あなたにもね。そんな酷い演奏に、私は票を入れないわ。あなたはどうかしら、マムブス?」
「小、小生ですか!?そうですね…小生はただ価値の高い方を選ぶだけでございます。そしてその差は歴然。バラムの演奏が断然価値があります」
「アスにゃんはセリナたちの演奏が好きよ♪技術は後からついてくるから、今の感情が一番大事だよ♡だ・か・ら、アスにゃんはセリナたちに票を入れるね♡」
審査員の投票結果が出た。
バラムに、モリアとマムブスの2票。
セリナたちには、アスモデウスのたった1票だけ。
残りはリスナーの投票のみ。今の勢いでは、バラムの方が有利に見える。
もう勝敗は決まったのか。
「セリナ、ちょっとマイクを貸してクマ」
先までずっと黙り込んでいたヴェネゴールが、セリナの手からマイクを取った。
「ヴェネは……セリナたちの演奏が好きだ!!!」
声が大きすぎてマイクが音割れし、キーンという音を立てた。
「だから?ヴェネは今、司会をしているのよ。一方に偏るのは公平を失うわ」
「はい、それは理解できる。だけど、モアちゃんの評価は厳しすぎる。それはもう公平を失っている。彼女たちの演奏は、そこまで酷く言われるものじゃない」
「酷いよ。なにも一つできていない。何とか終われただけのものを、演奏とは呼べないわ。あれは雑音よ」
「確かに技量は全然未熟だけど…彼女たちがお互いをフォローし合って、最後まで演奏を終えたこと、ヴェネは評価してもいいと思う」
「話にならないわ。ここは学園祭のライブじゃないの。『頑張りました』、だからなに?努力、友情、勝利…大人の世界に少年漫画の展開を持ち込まないで。それはバラムにも失礼でしょう」
「僕は、あの不器用な演奏を嫌いじゃないよ。僕の曲ほどじゃないが、無価値なものとも違う気がする」
ヴェネゴールはひるまない。勇気を出してカメラに向かい、問いかける。
「リスナーの皆さんに聞きたい。どの曲が、あなたの心に響きましたか?誰かに言われるのでなく、自分の本心で決めてほしい。ヴェネは、たとえセリナたちの演奏がどれほど酷いって言われようと、彼女たちの曲の方が好きって言える。あなたたちは……!」
彼女の呼びかけに、投票の速度が突然止まったように遅くなる。
しばらくの間を経て——セリナたちへの票が、凄まじい速さでバラムを追い越し、差を広げ始めた。
(フランス語の曲もいいけど、正直ちょっと感情移入できなかったね)
(彼女たちを見ていると、ついに応援したくなる気持ちになるよね)
(俺は芸術とかよくわかんないけど、ガールズバンドは激萌え。)
ヴェネゴールの言葉が、リスナーたちの心の負担をなくした。彼女が先に気持ちに正直になったことで、彼らもまた、よくわからないクラシックより流行りの音楽の方が好きだと言いやすくなったのだ。
そして、結果は——
「リスナーさんたちの投票では……セリナたちの圧勝です!」
現代社会の大多数は、難しい芸術より、わかりやすく共鳴しやすい流行を好むようだった。
リスナーたちの2票を加え、本来なら負けるはずだったセリナたちは、3対2で奇跡的にバラムに勝利した。
「ありがとう……ヴェネ」
勝利の喜びを抑えきれず、セリナはヴェネゴールを抱きしめた。彼女がいなければ、この逆転もなかったかもしれない。
「いいのだ、ヴェネは言いたいことを言っただけクマ」
「レンレン♡アスにゃんともハグハグして♪」
「エンプラガード!」
調子に乗ってレンを抱きしめようとするアスモデウスに、レンはエンプラを差し出した。
「まだキスをするのでありますか。吾輩はキスが好きであります」
「げ、粘膜がないロボ娘!あっち行って!し、ちょっ……なにこのバカ力!口を近づけるな!まだアスにゃんの舌を噛むんでしょ、で、痛ッ!」
「芸術は、大多数に理解されないもの。だから、僕たちの憂鬱は永遠に晴れることはない」
「でも、だからこそ、俺らは時代の先へ歩ける。高みに立つものは、いつも孤独であれ」
「受け入れられるためだけの創作は、その作品にある芸術が死ぬ。わしらは、これでいい」
毛玉にコインを渡し、バラムたちの憂鬱は晴れるどころか深まったばかりだった。それでも彼らは、その憂鬱さえ愛し、自分たちの今後の創作の糧とするだろう。
「私のこと、嫌いになったかしら」
「なんで?君は、私たちにもっと票を集めやすいように、憎まれ役を演じてくれたじゃないか。むしろ感謝するよ」
「あら、なんのことかしら」
「あのままでは、バラムが勝つ可能性も十分あった。だけど、君が彼女たちに圧力をかけてくれたおかげで、ガールズバンドのコンセプトがより引き立った。私もリスナーの2票を狙って彼女たちをガールズバンドにしたが、それでも五分五分の勝負だった。まさか、ヴェネゴールが…」
「ええ。彼女が、友だちのために私に逆らう姿を見たかったから、ちょっと彼女たちを利用したわ。これで、問題児の私の妹分は……あと一人」
ベリアル
その名が、毛玉の頭に浮かぶ。モリアの孤独地獄以外、残る地獄はあと二つ——リバエルの阿鼻地獄と、彼女の焦熱地獄。
「殺されないでね。彼女は非常に強いから。今までのようなお遊びでは、勝てる相手じゃないわ」
「ああ。君を手に入れるまで、死にはしないさ」
依頼期限まで、残り8日。
芸術は、いつだって不公平だ。
理解されなくても価値はあるし、
売れなくても魂は宿る。
それでも――
世界は「届いたもの」を選ぶ。
重く、深く、正しい作品が負け、
軽く、未熟で、今しかない作品が勝つこともある。
それを残酷だと言うのは簡単だ。
だが、否定してしまえば、
もう二度と歌えなくなる。
憂鬱は消えない。
それでも創る。
それが、
芸術家という生き物だ。




