第百七十五話:死の天使はチーズを食べた、ベリアル誕生
神は天使に名を与えた。
それは祝福であり、役割であり、逃れられぬ宿命だった。
死を導く者は、死を悼んではならない。
命を刈る者は、命に触れてはならない。
これは、
その禁を破った一人の天使の物語。
そして――
“ベル”と呼ばれた、最初で最後の夜の記録である。
神は天使を作り、祝福として彼らの名前に『エル』を授けた。
『我は神の光』のルキエル。
『神は我が力』のガブリエル。
『神に似たるものは誰か』のミカエル。
『神は癒される』のラファエル。
そんなボクにも、かつてそれはあった。
「サリエル、出張お疲れ様。下界は面白かったかしら?」
「いいえ、くだらなすぎて、一刻も早く帰って姉さんに会いたかったデース」
サリエル──それは『神の命令』を意味する。死の天使としてのボクの仕事は、亡き者の魂を天界へ導くこと。普段は天界からでもそれができたが、短時間で大量の魂が解放されると、道に迷う者もいた。だからそんな時は、ボク自ら下界に降り、彼らを導かねばならなかった。
「それで、今回は戦争だったわね。さぞかし苦労したでしょうに。ふふふ」
「人間は愚かデース。百年も持たない命で、心臓を貫かれただけで簡単に死ぬくせに、死に急ぐとか……ボクの仕事を増やしやがって、迷惑デース」
「まあ、偉いわサリエル。頭をなでなでしてあげる。よく頑張ったわ」
「姉さんのなでなでは、好きデース……」
ボクの天使としての先輩、最初の智天使ザフキエル。『神の知識』の名を得た彼女は、全知の力を持ち、何でも知っていた。知性に溢れる彼女は、ボクの憧れだった。
「ああ~ずるいの♪ あたしもフッキのなでなでが欲しいのに♡ ササリだけずるい♫」
「ボクは頑張って仕事してきた。お前はずっと遊んでいるだけデース」
ボクの同期、ヨフィエル。世界で初めての女性天使として、『神の美』の名を神から授かった。だが彼女はチャラすぎて、いつもふざけた格好をし、周りを困らせていた。
「撫でてくれないなら♪ あたしから撫でて、あ・げ・る♡」
「なっ!?」
無礼にもヨフィエルは姉さんの胸を両手で揉み上げていく。気高きボクの姉さんに、なんということを!
「フッキの体って本当に男なんだね♪ 顔は女の子みたいにかわいいのに♡ そのスカートの中に封印されたけもの……じゅるる♡」
「いい加減にしなさい、この妖怪セクハラ天使」
次の瞬間、ヨフィエルの懐にいるはずの姉さんが、彼女の顔に綺麗な膝蹴りを決めていた。姉さんだけが使える『時間停止』だ。かっこいい!
「酷い~! 殴るなら顔以外にしてよ! あたしの美しい顔が傷物になったら世界の損失だよ! でもちょっと気持ちいいかも……ぐへへ♡」
変態だ。あんな風にはなりたくない。
「レミエルはどうしているデースか」
「彼女は、あなたが導いた魂を見定めなければならないわ。善行を積んだ者は天国へ、悪事を働いた者は地獄へ。あれだけの人間の走馬灯を見るのだから、まだ残業中よ。かわいそうに。『神の慈悲』を背負いながら、彼女自身への慈悲はないわ。このままでは、いつか仕事に嫌気がさしてニートになりかねないわ。ふふふ」
現場にいなくても、レミは忙しいんだな。もうどれくらい会っていないだろう。いつかまた四人でお茶会がしたいな。
「あ……また神様からの命令が来たデース。本当に天使使いが荒いデース」
今度はある北の村へ行くらしい。あんな辺鄙な場所で、そんなに死者が出るのか。ああ、まだ姉さんともっと話していたいのに。
「神様の悪口は言っちゃダメよ。少なくとも今は、ね? 行ってらっしゃい。帰ったらみんなでお茶会しましょう。レミも呼んでね」
「はい!」
さすが姉さん。ボクが何を考えているか、全部わかってくれる。
「お茶会♫ 行く行く♡ 男も呼んで合コンしちゃおう♡」
「ルキエルの相手になりたいのかしら?」
「ごめんなさい、調子に乗っていました!」
ルキエルの名を聞いて、ヨフィエルはすぐに大人しくなった。なら最初からふざけなければいいのに。
姉さんと──ついでにあのバカのヨフィエルとも別れを告げ、ボクは再び下界へと向かった。
*
北へと向かって進む。雲の海を突き抜けた先には、雪の国が広がっていた。ここは夏が短く、冬が長い。明らかに人の生存に適しているとは言えない土地に、それでも村はできている。だから、大勢の死人が出てもおかしくはない。
ボクは村の前にゆっくりと降り立ち、後ろの翼を隠した。目の前の人々がそれを感知することはない。低次元にいる人間は、高次元に存在する我々高階位の天使を認識できないのだ。ルキエルのように誰の目にも映る例外はいるが、基本的にはそうなる。
何もない貧しい村の街。作物が育ちにくいせいで、飢餓だけがここに蔓延していた。
「お願いです……何か恵んでください」
乞食もいるが、他人を恵めるほど余裕のある者など、誰一人としていなかった。
「あんた、見ない顔だな。誰の許しを得てここで物乞いしてる?ここは俺の縄張りだぞ!」
生存資源を巡る醜い争い。文字通り死ぬほど見てきた。ボクがかかわるべきことじゃない。
「クソガキ、無視しやがって……殺されたいのか!」
男がボクの手を掴んだ。え?さっき、ボクに話しかけたのか?へえ~、こいつはボクが見えるんだ。
「お前、もうすぐ死ぬデースね。残り少ない時間を、精々悔いのないように過ごすがいいデース」
「ははは、ガキがほざく。俺が死ぬ?先にてめえをぶっ殺してやるよ」
男がボクに寄りかかってくる。どうせ今日死ぬ運命なら、ボクが殺しても同じだよね。デスサイズで奴の魂を今すぐ天に召してやろうか。
「やめなさい!子供に何をするんだい。恥ずかしくないのかえ!」
一人の老婆がボクたちの間に割って入った。人間としてかなり年を取っているのに、体はまだ若者のように動ける。まあ、この過酷な環境で動けない婆さんは、とっくに天に召されているけどね。
「なんだ、ババアは引っ込んでろ。これは俺とあのガキの問題だ」
「よく言う!国がこの村に徴兵に来た時、戦場に行かないために糞溜まりに隠れてた腰抜けが、子供に威張ることしかできんのかえ!男として情けないとは思わないのかえ!これを持ってさっさと消えな!」
婆さんは男の顔にパンを投げつけた。怒りに狂いそうな男がパンを見る途端、顔色を変え、即座にそれを拾い懐に仕舞うと、誰にも見つからぬようにその場から去った。卑しい奴だ、本当に。
「怖かったかえ?お嬢ちゃん、どこから来たんだい?行くところあるかえ?」
男が逃げ、今度は婆さんがボクに注意を向けた。ボクが見えるということは、彼女の死も近い証だろう。ボクはその最後の日がいつか、すら知っている。
「ボクと関わらない方がいい。お前のためにも」
「なにかっこつけるんだい。子供は大人に甘えなさい。これを食べるがいいだい」
婆さんは一つの包みを開け、中から滑らかな固まりを取り出した。いい香りが漂ってくる。これは……牛乳の塊?少しちぎって口に入れると、外側はほんのり固めの白カビに覆われ、中はとろりとクリーミーだった。鼻をくすぐる濃厚な発酵香と、じわり広がるナッツのような甘み。口の中でとろけ、最後にほのかな塩気が引き締める。うまい~。
「まあまあ、食欲があるなら安心だね。本当……あの子とそっくりした食べっぷりだ」
「あ!?」
気が付けば、あの香ばしい円盤は丸ごと消えていた。ボクが人間に餌付けされてどうする。
「行くところがないなら、この婆さんの家へ来ないかえ」
姉さんには「知らない人について行っちゃダメ」と言われたけど、あ!?その前に「知らない人から食べ物をもらわない」とも言われてた。ぐう~……まあ、ボクも子供じゃないし、この出張の間に住む場所をそこにするのも悪くないね。うん、絶対にあの牛乳の塊をもっと食べたいからじゃないからな。
村の外れの目立たない一角に、婆さんの家はあった。予想通りぼろぼろの木造小屋で、凛冽な冬風に吹かれてガチガチと音を立てている。これで寒さを凌げるのか?今にも倒れそうだった。小屋の隣には牛舎があり、先ほどの牛乳もおそらくあの中の痩せこけた牛から採れたものだろう。こんな貧しい土地では、牛ですら満足に食事を与えられていないのだ。
部屋の中に入ると、さらに貧しさが際立った。最低限の家具しかなく、飾り気はなかったが、きちんと片付けられており、埃一つない清潔な空間だった。
婆さんは事前に用意しておいた薪を暖炉にくべ、火を点けた。しかしあちこちの隙間から風が漏れ、あまり暖かくならない。
「少し待っててね。すぐご飯ができるから」
婆さんは台所のスープを温め始めた。中身は芋、ひよこ豆、そしてわずかな小麦。それに黒パン一つ──これがこの家の晩餐となった。
口に入れると、先ほどのあの濃厚な美味しさはなかった。黒パンは硬く、味も最悪で、木材を噛んでいるようだ。スープも薄味で具も少ない。しかし、ボクは完食した。これは彼女が精一杯捧げてくれた、ボクへの供物だ。残すのは、上位に立つ者の恥である。
「足りなかったかえ?あたしの分も食べていいさ」
婆さんはボクの食べっぷりを見て、自分の食事を差し出した。おかしいだろう。自分より他人を優先するなんて。人は食事をしなければ死ぬんじゃなかったのか。
そんな時、ドアをノックする音がした。
「アンナの婆さん!まぐさを届けに来たぞ!」
「聞こえてるで!そんな大声で叫ばんでも!まだ耳は遠くないよ!」
なるほど、この婆さんの名前はアンナらしい。アンナ婆さんが扉を開けると、そこには二束のまぐさを担いだ爺さんが立っていた。皮の下には骨ばかりで、風に飛ばされないか心配になるほど細っていた。白い髭は整えられず腰まで伸び、まるで人間というより何かの木の精のようだ。
「今日の分じゃ。お代はいつものように、婆さんが作ったチーズでよいのじゃ。あれは酒のつまみとして絶品じゃからの」
しかし、アンナ婆さんの顔色が曇る。先ほど開けた包みの布を強く握りしめている。まさか、ボクが食べたあれがその『チーズ』だったのか。
「すまないの……ちょっとしたハプニングで、チーズを無くしてしもうた。これで勘弁してくれんかの?」
アンナ婆さんは部屋の奥の箱から一つのベルトを取り出し、爺さんに差し出した。大したものではないが、ベルトの材料は良い牛革を使っており、それなりに価値はあったかもしれない。
「ばかな!そりゃ息子さんの形見じゃないか!この行き先の短い爺にくれていいもんじゃないよ。ええい、もういい。これで我慢するわ」
爺さんは部屋に入り、アンナ婆さんの席に座ると黒パンを噛み始めた。
「クソ、硬いわえ!この爺もともと少ない歯に止めを刺したいのか!」
手元のスープの碗を一気に飲み干す。
「不味い!婆さんの料理の腕は下手すぎるわ!こんなもん、人が食えるもんじゃない!」
「人が出したもんに文句言うくらいなら食うなクソじじい!子供でも静かに食べてるのに、いい歳してわがまま言うんじゃないよ!」
「子供……?」
爺さんの視線が、ボクに向けられた。ああ、こいつもボクのことが見えるんだね。
*
「ボクの名前はベル。何日前の戦争で村が襲われて、皆殺しに遭い、ボクだけ逃げ延びた」もちろん、それは嘘だ。サリエルの名を明かさない以上、偽名は必須。幸い下界での経験は十分にある。それらしい話を作るのは難しくない。
「いっぱい苦労したな、坊主。わしはトーマス、この村で大工をしておる。困った時はいつでも頼って来るがいいぜ。がはは」
死がすぐそこまで迫っている人間に、ボクが何を頼めばいいというのだ。
「ボク、女の子だけど」
「げっ!『ボク』なのに?変わった嬢ちゃんだぜ」
「本当、失礼しちゃうわ。こんなに綺麗な赤髪なのにね」
アンナ婆さんはボクの髪に櫂を入れようとする。癖毛が多いが、別にこのままでいいじゃないか。
「それより、聞いたか?ロバートが死んだらしいぞ」
「え?!さっきまで元気にしてたじゃない。どうしてまた……」
「どうやらオオカミに食われたらしい。他の乞食と争って怪我して、一人になった時に襲われたんだ。酷かった……体の大半が食い荒らされていて、服の破片からやっとあいつがロバートだとわかったくらいだ」
「戦争からは逃れても、オオカミの口からは逃げられなかったか。憎らしい奴だが、こんな終わり方はあんまりにも悲惨だね」
ロバートとは、おそらく最初にボクに絡んできたあの男のことだ。どうやらボクをからかったのと同じように他の者とも揉めて怪我をし、さらにオオカミに食われたという。彼の命が、ボクを見た時点で終わりを告げていたのか。オオカミに食われるより、ボクに殺された方が苦しまずに済んだかもしれない。後で魂を回収しに来るとしよう。
それにしてもオオカミか。どうやらボクは、この村でこれから起こる大量死の原因を突き止めたかもしれない。
「わしはそろそろ帰らんとな。もう周りが暗くなり始めた。これ以上遅くなると、わしまでオオカミの餌になるかもしれん」
「そんな食うところのないガイコツを、オオカミが襲うわけないでしょ」
「なにを!わしはまだまだぴちぴちで、食べごたえあるぞ!」
「なら泊まっていきなさい。この小屋、他のものはないけど、寝る場所だけは足りてるよ」
「いや、それはなくなったお上に悪い。わしは帰るぞ。そうだ、ボク娘の嬢ちゃん、次に来た時には蜂蜜を持ってきてやるか。今の娘たちに大人気の甘いもんらしい。クソババの不味い飯ばかり食べてたら、別嬪さんになれないからな」
「誰の飯が不味いだって!さっさと帰れ!それに二度と来るな!」
「頼まれても来るものか。あ~、せいぜいしとるわい」
いつもの口喧嘩だが、アンナ婆さんは知らない。これが二人の最後の会話になることを。でも、ボクは知っている。トーマスがもうすぐ死ぬことを。
*
遺体は昼頃に発見された。犠牲者ロバートと同じく、オオカミに襲われたらしい。発見場所から見て、アンナ婆さんの家に向かう途中で襲われたのだろう。遺体は食い散らかされ、あの長かった白ひげは血に赤く染まっていた。ただ懐に未開封の蜂蜜だけが、死守されていた。トーマス爺さんは、自分が言った「二度と来るな」という言葉を、結局守れなかったのだ。
トーマス爺さんに生きている家族はいない。彼を埋葬するために、アンナ婆さんは唯一の財産である牛を売った。トーマス爺さんが毎日まぐさを運んでくれなければ、どうせアンナ婆さん一人では飼いきれなかったのだ。これでアンナ婆さんは収入の途を絶たれた。
トーマス爺さんの葬式には、ボクとアンナ婆さんしか参列しなかった。いつも気前のいい爺さんだったのに、死んだ後、彼を弔うのは、いつも喧嘩していたアンナ婆さんと、死の天使であるボクだけだった。人間とは冷たいものだ。
アンナ婆さんは黒い喪服を着て、ボクにも黒いずきんをかぶせた。
トーマス爺さんの魂はボクの導きで天に召されたが、ボクの気持ちは晴れることはなかった。アンナ婆さんのスープよりも甘いはずの蜂蜜も、美味しく感じられない。たった一度しか会っていない人間に、なぜボクの感情はここまで揺さぶられるのだろう。何でも知っている姉さんなら、わかるかもしれない。
そして、アンナ婆さんの死期も近づいていた。それは今晩。原因もおそらく、あのオオカミだ。ボクは何もせず、ただいつものようにアンナ婆さんの魂を天に導けばいい。なのに、それがなぜか強く嫌に感じた。
夜になり、アンナ婆さんはボクを守ると言って、同じベッドで寝てくれた。だがこれはむしろ都合が良かった。彼女が眠った後、ボクは静かに彼女をボクの影の中に隠した。
夜は静かだった。だけどボクには聞こえる──獣の足音が。慣れた手口で鍵を開け、ゆっくりとボクに近づいてくる。人間の格好を装っているが、その荒い呼吸と、服の隙間から覗く爪や牙が、その正体を物語っていた。
だが、それはそいつだけの特権ではない。
オオカミは異様な気配を感じ、ボクに声をかけた。
「まあ、おばあさん。なんて黒いずきんをしているんだい?」
「それはね、汚れ仕事をしても汚れが目立たないためデース」
布団を少しずらし、ボクは自らの赤い髪をのぞかせた。
「まあ、おばあさん。なんて赤い髪をしているんだい?」
「それはね、おしゃれに見えるためデース」
さらに布団を下ろすと、ボクはオオカミを鋭く睨みつけた。
「まあ、おばあさん。なんて鋭い目つきをしているんだい?」
「それはね、老眼だから、あなたをよく見えるためデース」
ついに顔全体を現したのは、黒ずきんを被った赤髪のボク。口を開くと、オオカミより鋭い牙が二列に並び、涎が垂れそうになっている。
「まあ、オオカミさん。なんて震えているのデースか」
逃げる──本能で生きるこの獣なら当然の反応だ。だが、逃がさない。デスサイズを振るい、奴の足を切り落とした。重く地面に倒れても、それでも這って出口へ逃げようとする。それでも逃がさない。獣の尾を掴み、布団の中へと引きずり込んだ。
この世界は弱肉強食。だからトーマス爺さんがオオカミに食われても、オオカミは悪くない。それは自然の摂理だ。ならば、ボクがこいつを喰らっても、ボクは悪くないよね。
「いただきますデース」
必死に足掻くオオカミの体を押さえつけ、ボクはその喉笛に牙を立てた。赤い血は、ボクの黒ずきんと赤い髪に、痕跡すら残さなかった。
味は、アンナ婆さんの料理よりも不味かった。だが、それはこいつがボクに捧げた供物だ。少しも残さず、いただいた。
だけど、死の未来は変わらない。生きている人間は、ボクが見た時点で、その死の運命から逃れられない。ロバートも、トーマス爺さんも、このオオカミも──もちろん、アンナ婆さんもだ。
*
太陽が昇り始め、最初の日差しが窓を通してこの小屋を照らした。
アンナ婆さんは目を覚まし、そして彼女の最後の朝を迎えた。
「ベル?」
「ボクはベルじゃない。ボクは死の天使サリエル。お前の魂を天に召すためにここへ来たデース」
今のボクはもはや最初の姿ではなく、六つの翼と天使の輪を戴いた智天使の姿を彼女に見せていた。しかし彼女は驚く様子もなく、ただ静かにそれを受け止めた。
「そうか、ついにあたしを迎えに来てくれたか」
これから死ぬというのに、なぜそこまで落ち着いているのか、ボクにはわからなかった。
これまで幾千もの人間と出会ってきた。どんな聖人君子も、どんな放蕩者も、死の直前には皆等しく恐怖を顔に浮かべた。なのに、なぜ彼女はそんなに安らかな、救われたような顔をしているのだろう。
「死を恐れないのか? ボクはこれからこのデスサイズでお前の魂を刈り取るデースよ」
「ええ、聞いてくれるかえ、天使様……いや、ヘル」
「話せ。これが最後デースから」
ボクは彼女に何もしてやれないけれど、せめて話を聞くことくらいは……。
「ありがとう、優しい子ね。あたしにはね、一人の息子がいた。元気な男の子で、なにかとナイフで色々なものを作ってくれた。大きくなってからはトーマスに弟子入りし、本格的に大工を目指した。この家の家具も、みんな彼が作ってくれたんだ。トーマスの娘と将来を誓い合い、そのまま幸せな人生を歩むはずだった。だけど……」
戦争が起きた。兵が必要となり、国中から各家に若い男を一人ずつ前線へ送ることが命じられた。この村も例外ではなかった。
“母さん、僕はきっと戻るよ。あなたのためにも、あの娘のためにも”
しかし彼は永遠に戦場に残された。敵の襲撃を受け、軍は壊滅。多くの兵士が将軍の撤退を援護するために犠牲となり、その中にアンナ婆さんの息子もいた。
送り返されたのは彼のベルトだけ。遺体は原型を留めておらず、故郷には戻れなかった。婚約者だったトーマスの娘も彼の死を知り、川に身を投げた。
アンナはこの歳で息子を失い、自分よりも先に子供を喪った。胸の中が全て掘り尽くされたように空っぽになった。毎日、村の入口で帰らぬ息子を待ち、食事もいつも二人分を作るようになった。
“息子はまだ生きているかもしれない”
それが彼女の心の、唯一の支えだった。
だからボクを家に連れてきたのだ。彼女が作ったチーズも、その息子が生前に大好きだったものらしい。
ボクはその息子のことを知っていた。先日ボクが導いた魂の中に、あの青年もいた。
“母さん、先に逝くことを許してください。大工になりたかった。彼女と結ばれたかった。なにより、母さんが作ったチーズをもう一度食べたかった。もし来世があるなら、もう一度母さんの息子になりたい”
彼は最後にそう言った。
「ありがとう……そんな婆さんの息子になりたいと言ってくれて。ありがとう、ベル。あたしのもう一人の子よ」
アンナ婆さんの体は次第に光へと変わり、最後は粒子となって朝日の中に消えていった。ただその魂だけが、ボクの周りをゆっくりと舞い、やがて空へと還っていった。
死がこんなにも胸を締めつけるものなのか。これまで無数の死を見てきたが、この心が裂けるような痛みを感じたのは、初めてだったかもしれない。
*
「ねえ♡ササリ、それ何その黒いずきん?ダサいけど~」
「ベルはこれが好きデース」
「え?ベルって誰?かわいい一人称!じゃあたしもやる、アスにゃんでどう♪かわいいでしょ♡」
「ふざけるなデース!」
「サリエルも少し成長したわね……いえ、ベリアルと言った方が正しいかもね。ふふふ」
今のボクはまだ知らない。これがボクがサリエルから離れ、ベリアルへと変わる最初のきっかけだったことを。
黒ずきんの奥で、初めて覚えた“人間らしい痛み”が、天使の純白を少しずつ、確かに蝕み始めていた。
死は平等だ。
善人にも、悪人にも、等しく訪れる。
だが――
その死を“どう迎えたか”は、決して平等ではない。
一杯の薄いスープ。
失われたチーズ。
開けられなかった蜂蜜。
それらは神の祝福でも、奇跡でもない。
ただの、人間の善意だった。
その善意が、
死の天使の胸に、消えない痛みを刻んだ。
こうして白き翼は、わずかに軋み始める。
これはまだ堕天ではない。
だが――
ベリアルへ至る、確かな一歩目だった。




