進む道
少々人数の増えた朝食は静かに進む。
穏やかに会話をしているのはサラとテオドール、グレースだけで、エラはただ黙って話を聞きながら出された食事を咀嚼し飲み込む作業に集中する。
小難しい話は苦手なのだ。
国がどうだとか、どうしたいからこうするだとか、そういう事を考えるのはいつだってサラだった。
きっとこれからはテオドールとサラの二人に任せ、エラは駒として働く事になる。
自由に生きたい。
普通に生きたい。
まだ諦めきれない願いは、既に叶わないことだということなんて分かり切っている。
初めて月の魔女としてのエラ・ガルシアを演じた時から分かっていたのだ。
分かっていても、心の何処かにいるまだ子供のエラが嫌だ嫌だと泣いて喚く。
「では戴冠式の前に結婚式ですね。まずは荒れてしまった国を元に戻すところからですが」
話を一つ纏めたグレースは、静かにカトラリーを置いて口元を拭う。
詳しい日取りはまたいずれとは言うが、凡そ一年後を目指して式を執り行うと決まったらしい。
一年後に次期魔王夫妻の結婚式。その半年後を目途に戴冠式。それまでにもう少し国内を整え、代替わりをする事を周知させる。
本来もう少し時間をかけて行われるであろう事をこれだけ急いでやらされるのは、既に引退する気なのか呆けて使い物にならないルーカスのせいだった。
「あの人がもう少ししっかりしてくれていれば良かったのだけれど」
ふうと溜息を吐くくらいなら、呆けている夫の尻を蹴り飛ばしてでも働かせてくれれば良い。
誰もがそう思うのだが、まだ王位はルーカスの物。仮にもこの国の主にそのような無礼が許されるわけがないのだから、言葉にしない方が利口だろう。
「それから、エラとアルフレッドの事ですが…二人は本当に恋人同士なのですか?」
「一度褥を共にはしましたが、私たちは恋人同士ではありません」
「妃殿下、これは本当のお話ですわ。見ていてまだるっこしいったら」
サラが口を挟み、グレースはきょとんと目を瞬かせる。
一度体を重ねたのに恋人ではないという関係が理解出来ないのだろう。
「アルフレッドの様子からして、遊びということは無いのでしょうけれど…」
「いつも口説いているのに、ガルシア嬢は靡かないのですよ。我が弟ながら不憫で仕方ありません」
くっくと笑いを漏らすテオドールがひらひらと手を振ってみせる。
弟であるブライアンとの婚約をあれだけ怒り狂って反対したというのに、想い人には振り向いてもらえない。
たった一晩の思い出に縋りついて生きて行くのかと思うと可哀想だと笑ったテオドールが、ちろりとエラを見る。
「ガルシア嬢は、我が弟では不満かな?」
「不満というわけでは…ただ今まで通り、アイザックも含めて三人で笑っていられればそれで良いのです」
「アルフレッドはそう思っていないだろう。いい加減断るでも受け入れるでも、きちんとけじめをつけてやってはもらえないだろうか」
じっとエラを見つめる黒い瞳が、いつまでものらくらとしているエラを責めているように見えた。
そんな目で見られても、関係性を変えるのが怖いのだ。
男と女の関係になってしまえば、確実に何かが変わる。今まで通りの、居心地の良い陽だまりのような場所を壊したくはない。
もしもアルフレッドとそういう関係になったとして、そうなったらアイザックとの関係はどうなるのだろう。
変に気を使われてしまわないだろうか。アルフレッドと二人きりでいるのは心地よいが、三人でいるのもまた心地よい。
たった一つ関係を変えてしまったせいで、居心地の良い場所を一つ失ってしまうのが怖かった。
「妃殿下は、何故そのような事をお聞きになるのですか」
テオドールの言葉をしらっと無視をして、何故とじとりとした視線をグレースに向ける。
一瞬視線をうろつかせると、グレースはにっこりと微笑みながらエラを見た。
「貴方が娘になってくれたら、嬉しいと思ったの」
「はあ…?」
「命令なんかしないわ。でも二人が想い合っているのならと思ったのよ」
何も望まない筈のアルフレッドが唯一望んだエラという女。
それがこの国の象徴の一人であり、国の宝であっても、幼い頃から一人で膝を抱え、グレースに遠慮して一歩引いている子供が必死で手を伸ばすその姿が、どうにも母であるグレースの心のどこかを刺激するらしい。
「天高くに輝く月ではない。手を伸ばせば届くところにいる女の子を望んだの。だから、私は母として息子を応援してやりたい」
「そこに私の意志はないのですか」
「ありますよ。受け入れるも拒絶するも、貴方の好きにして良い。でもテオドールの言う通り、そろそろ答えをあげてほしいとお願いするつもりだったのよ」
答え。口の中で小さく繰り返すが、エラの心は既にアルフレッドに向けられている。自覚などとうにしているのだ。
アルフレッドを受け入れたあの夜から、それよりももっと前から、アルフレッドを一人の男として「愛しい」と思っている。
自覚はしていても、受け入れるのが恐ろしい。昨晩のあの屋敷で、自分を傷付けた女へ恨みを晴らすように無慈悲に身体のあちこちを潰していくような男を、どうやって受け入れたら良いのか分からない。
「まあ、昨晩のあの姿を見てしまえば引いてしまうのも無理はないが」
「そんなに恐ろしい事をしたのですか」
「見ない方が良いですよ、母上」
きっと卒倒します。そう言って笑ったテオドールがすぐに話題を変えてくれたのは、エラへの気遣いなのだとすぐに分かる。
ほんの少しの感謝をしながら、小さくカットされた果物が乗せられた皿を目の前に置かれ、それをまた胃袋に納める事にするのだった。
◆◆◆
ぼうっと空を眺めてどれくらいの時間が経っただろう。
また何となくアルフレッドの母の愛した庭でベンチを陣取り、そよそよと優しく吹いてくる風を体に浴びながら、温かい日差しを楽しんでいた。
今日も平和。あの戦場での日々は何だったのだろうとぼんやり考え、エラは少し前に終わった王妃との朝食会を思い出す。
代替わりをすると周知させるには、夜空が積極的に表舞台に出ている方が都合が良いとグレースは言った。
既に民は夜空の三人が国を導く事を望んでいるし、期待もしている。それならば有難くその期待を利用させてもらおうと笑われたのだ。
テオドールとサラは主に王都周辺で出来るだけ積極的に動く。次期魔王夫妻は民を気にかけ、自分たちの目で見ようとする慈愛に満ちた夫婦だと思わせるらしい。
かつての夜は、星の魔女と共に城を抜け出しては民と交流するのを楽しみにしていたらしい。いくつかの戯曲でそんな事が書かれている事は知っていたし、テオドールも面白そうだと言うのだからその話の通りにして良いと思う。
エラはエラが望んでいた通り、国の様々な場所を回って、時々王都に戻ってテオドールとサラに報告をする事になった。望み通りの遠征部隊入りだ。
戯曲の月の魔女はテルミットを本陣としていたらしいが、エラもテルミットを拠点にしつつあらゆる場所を巡る。テオドールとサラが足を運べない場所を見て、見た通りに報告をするのだ。
きっと各地の領主たちは、国の主へ直接報告をしに行くエラを恐れるようになるだろう。出来るだけ良い事だけを報告してもらえるように、良くない事を報告されないように働くようになるかもしれない。
魔族という長く生きる種族は、一度座った椅子を明け渡すまでも長く掛かる。
長らく同じ椅子に座り続けるうち、仕事がおろそかになる事もある。
それを引き締めてやるのが、エラの役目の一つとされる。
「ねむ」
大きな欠伸をして、ぐいぐいと背中を伸ばすようにその場で伸びる。
誰も居ないこの中庭は、今日も元気に咲いている花たちが良い香りで満たしてくれていた。
「昼寝でもしたらどうだ?」
「うわ…ちょっと、引っ張るな!」
「伸びてたから手伝ってやろうかと思って」
へらりと笑うアルフレッドが、エラの両手首を握って軽く上に伸ばす。
いつの間に現れたんだと驚いた顔を向けられたアルフレッドは、楽しそうに笑いながらエラの腕を引っ張り続ける。
確かによく伸ばされて気持ちいいが、あんな話をした後にアルフレッドに触れられるのは何だか気まずい。
「グレース様と朝食だって?楽しめたか」
「そんなわけ無いだろ…息が詰まる」
まだドレス姿だというのに、しっかりと背凭れに背中を預けたエラの仕草は軍人のものだ。もう少しお嬢様らしく清楚にしろと何度も言われているのだが、暫く軍事として生活しているエラには少々難しくなっていた。
「ああそうだ…ちょっと王都を離れる事になったんだ。二日後に出発する」
「…遠征?」
「何だ、その話知ってたか」
それなら話は早い。
あまり詳しく説明しなくても、エラが王都に留まらなくなる事は理解してくれるだろう。元々エラがそう望んでいた事はアルフレッドも知っているし、先にサラかテオドールから聞いていたのかもしれない。
少しだけ寂しそうに眉を下げるアルフレッドが、そっと静かにエラの隣に腰を降ろす。
「寂しくなるな」
「別についこの間までと同じに戻るだけだろ。私はテルミット、アルとザックは王都にいたのとおんなじ」
「そうだけど…でもやっぱり寂しい」
そっとエラの頭を抱き寄せるアルフレッドの体温に、エラの体がぎくりと強張る。
何故この男は恋人でもない女を優しく抱き寄せたりするのだろう。好きだと言われているし、好きな女を抱き寄せたいと思うのは男なら誰しもそうなのだろうか。
ぐるぐると考えても分からない事を考え、大人しくされるがままのエラに、アルフレッドは小さく呟く。
「前にも言ったけど、エラが何処にいても心の底からエラを想うよ。だからエラも、何処にいても俺の事を忘れないで」
「何だよ急に…ていうかザックの事は何も言わないのか!」
いい加減離れろと暴れ出したエラを抑え込む用に、アルフレッドの腕が絡みつく。
抱き合う、抱き寄せるというよりはしがみ付いて離れないアルフレッドの背中をトントンと優しく叩きながら、エラは小さく溜息を吐く。
昨晩あれだけの事をした男が、今はこうして寂しい嫌だ行かないでと何度も繰り返しながら縋りついてくる。
それをいじらしいというか、可愛いと思ってしまうのは自分も何処か歪んでいるのではないかと嫌になった。
「いい加減離れろ…子供じゃないんだから」
訓練生時代の子供の頃とは違う。
あの頃も既に成人していたのだから子供ではないのだが、あの頃よりももっと大人になった今、あまりべたべたとくっ付いているのは宜しくない。
今更すぎるといえばそうなのだろうが、今はただ、アルフレッドと触れ合っているのが恥ずかしい。
「本当に、昨晩はあれだけのことをした癖に、今は子供みたいなんだから」
「寂しいんだよ。エラと離れ離れになるのが」
弱弱しい声。いつまでもいつでも一緒にいられるわけでは無いと分かっていた筈なのに、いざ離れるとなると嫌なのだろう。
いつか夢見た遠征部隊入り。漸く夢が一つ叶うというのに、こんなにも寂しい嫌だとぐずられると何となく寂しくなってきた。
「ねえアル。私の居場所になってくれるんでしょ。約束したんだから、ちゃんと約束を果たして」
昔のような口調で、優しくアルフレッドの頭を撫でてやりながら語り掛けるエラの声は、穏やかに優しく響く。
答えもせず動きもしないアルフレッドは、小さく呻き声を漏らした。
「ちゃんと帰ってくるよ。報告しなきゃならないんだから」
「報告の為だけ?」
「アルに会いに帰ってくる。…あとザックにも」
「俺はついでかって怒りそうだな」
今頃アイザックは何をしているだろう。仕事をしろと怒鳴りながらアルフレッドを探しに来るかもしれない。
こうして引っ付いている姿を見られたら流石に恥ずかしいのだが、きっとアイザックはニヤニヤしながら揶揄い始めるだろう。
「頼むから、ちゃんと帰って来てくれ。怪我もせず、無事で」
「分かった。約束する。…怪我は、もしかしたら多少するかもしれないけれど」
遠征先で絶対に戦闘にならないとは言えない。まだ荒れている国内を巡るのだから、何処で何があるか分からない。それを分かっていて、絶対に怪我はしませんと約束は出来なかった。魔族にとって、誓いや約束は絶対なのだから。
「ほら、本当にそろそろ離れろ。いい加減準備もしないとだし、出発前に久しぶりに三人で昼食でも食べに行こう」
「二人じゃないのか」
「ザックが泣くぞ」
小さく笑ったエラから漸く離れたアルフレッドの顔は、無理をして微笑んでいるように見えた。




