自由
気を失ったデボラは、拘束を解かれアイザックが担いで城まで運ばれた。
真夜中になってしまったせいで、帰り道はとても静かだった。
誰かに見つかりでもしたらという恐怖からなのか、疲れからなのか、それともアルフレッドの狂気じみた行動に言葉を失っていたのか、誰も何も話さなかった。
「お目覚めのお時間です」
城の使用人の声で、エラの意識がゆらゆらと浮上していく。
気だるげに体を起こし、ベッドの上に座ってぐるりと部屋を見回す。
いつも通りの、城で与えられた客室の一つが、窓から注ぐ日光に優しく照らされている。
昨晩の主を失った屋敷とは真逆の、明るい空間。
床に張られたふかふかとした真っ赤な絨毯。毛足の長いそれは、優しくエラの足を受け止める。
昨晩のあの屋敷で、デボラの体はあちこち傷付けられた。幼馴染、腐れ縁のアルフレッドによって。
どんな顔をして、女の体を傷付けたのだろう。戦場で相手を傷付けるのも嫌な経験だというのに、あの男は拘束され身動きも取れない女相手にやりすぎた。
回復術でどうにかなる傷では無いだろう。恐らく指輪を嵌めていた左手はもう二度と使い物にならない。最後に砕かれた足も、歩くのに苦労するようになるだろう。
デボラに同情はしない。あの女のせいで大勢が傷付き死んでいった。自分も攫われたし髪を台無しにされたという恨みがある。
だが、あれは流石にやりすぎだ。
「魔女様、妃殿下がお呼びです」
「妃殿下が私を?」
「はい。お目覚めになりましたら、すぐにお連れするようにと」
無表情のままそう告げる使用人がそっと頭を下げる。
あまり行きたくはないが、ここで断ればきっとこの使用人が叱られる。仕方ないと小さく溜息を吐き、エラはそっとベッドから降りた。
◆◆◆
王族の前に出るのだからと、エラはそれなりにきちんとした格好をさせられた。
仮にも軍人だというのに、詰襟の息苦しいドレスを着せられ、退屈そうに待っていたグレースの前に「お待たせ致しました」と押し出された。
「朝から申し訳ないわ」
「いえ、妃殿下。お待たせして申し訳ありません」
コルセットが苦しくて仕方ないが、どうにか気合だけで呼吸を詰めて腰を深く折る。
さらりと落ちた白銀の髪が、窓から注ぐ日の光を反射し輝くのを、グレースは少しだけまぶしそうに目を細めて眺める。
「朝食は済みましたか」
「いいえ、まだです」
「では共に。これからサラも来ますから」
パンパンと軽く手を叩き、三人分の食事を用意するように言いつけると、グレースは座れと空いている椅子を指す。
この苦しい拘束具を付けられたまま食事だなんて。げんなりと嫌そうな顔をするのを必死で堪え、エラは使用人の一人に引かれた椅子に大人しく座る。
「お待たせして申し訳ありません」
エラが姿勢を正すと同時に現れたサラも、朝からしっかりと綺麗に整えられている。
深々と頭を下げ、スッと姿勢を正して立っているその姿はまるで人形のように見えた。
「サラも朝食がまだでしょう。支度させているから一緒にいただきましょう」
「光栄ですわ」
にっこりと微笑み、サラも空いている席に腰を降ろす。
何て居心地の悪い朝食の席だろう。何故サラだけでなく自分まで呼ばれたのか理由が分からないまま、エラはじっと姿勢を良くしたまま座るしかない。
それを分かっているのか、グレースは優しく微笑みながらエラに視線を向けた。
「昨晩は大変だったようですね」
「え…」
「害虫駆除をしてくれたと聞いています。遅くまでご苦労様でした」
害虫とはデボラの事だろう。
きっと今頃死なない程度まで回復させ、地下にでも放り込まれているかもしれない。
まだ耳に残る肉と骨が潰れる音を気にしないようにしながら、エラはゆったりと口角を上げた。
「私は何も。テオドール殿下の魔術のおかげですので」
「あの子の魔術は地下では最強でしょうね。それでも、貴方はよくやってくれた。昨晩だけでなく、今までずっと」
初めてグレースに褒められた気がする。
何度か会話をしているし、彼女がただ冷たく無表情の王妃であるわけではないと知っているが、ゆったりと微笑みながらただの小娘相手に礼を言いながら褒めてくれるとは思わなかった。
返事に困ってちらりとサラを見るのだが、サラは小さく笑って頷くだけだ。
素直に受け取れということだろうと勝手に解釈をし、「有難いお言葉です」と微笑むしかない。
「流石にあの状態まで痛めつけられているとは思いませんでしたが…アルフレッドかしら?」
「はい妃殿下。相当怒り心頭だったようでして」
にっこりと微笑むサラは、昨晩の事を既にグレースに報告しているらしい。
既に知っているというのに、改めてこの場で確認するように一つ一つ言葉にしていくのは何故なのか、エラには理解出来ない。
「貴方たちは本当によくやってくれたわ。きっとこの国を任せる事になっても、私は安心して見守っていられる」
そっと目を伏せて呟くグレース。今何を言ったんだと黙ったまま目を見開き、エラはグレースの言葉の続きを待つ。
「ルーカスはもう駄目ですね。まるで死ぬ間際の獣のよう」
「お加減は宜しくないままなのですか」
「ええ。昼間は眠り、夜には空を見上げて呆けているわ」
暫くルーカスの様子を何も聞かされていなかったが、あれからずっと使い物にならない状態らしい。
どれだけグレースに責め立てられたらそうなるのだろうとぞっとするが、グレースは穏やかに微笑みながら夫の様子を話して聞かせた。
「あの人はね、本当はとても弱い人なのよ。それを私や側近たちが必死で支えていたわ」
ぽつぽつと語られる、あの強欲で強気な魔王の話。
王になどなりたくない。弟に任せておけば安心だというのに、周囲はそれを許してはくれなかった。
先代魔王の長男として生まれてしまった、土の精霊に祝福されたから、魔王になるという運命から逃れる事が出来なかった。
妻とされたグレースも、黒目黒髪の乙女で王家に嫁ぐのに相応しい身分、ルーカスと歳が近かった事から、生まれてすぐに婚約者候補とされ、王妃としての教育を叩き込まれてきたのだと困ったように笑う。
「夜の色を宿した息子が生まれたその瞬間から、あの人は希望を持ってしまったのよ。この子が育ったら、自分は魔王という重責から逃れられるってね」
ルーカスも自由に生きられない者の一人だった。生まれてきた息子が夜の再来と謳われた。数十年もすれば、息子が王位に就き自分は自由になれる。
それだけで満足だったのに、今度は月と星まで生まれてきたのだ。
職務を投げ出して逃げるのではない、民が望んでいるから、夜空に席を明け渡すのだ。
だから絶対にエラとサラを逃がせなかった。全ては「自由に生きたい」というルーカスの望みのせい。
「あの人はね、自由になったら私と共に南へ移り住みたかったんですって。海が見える所に屋敷を建てて、そこでのんびり過ごすんだと言っていたわ」
「私たちを縛り付ける代わりに、自分だけ自由になろうと?」
思わず漏れたエラの声は震えていた。
それが怒りなのか哀しみなのか同情なのかも分からないが、ふつふつと腹の中に重たくどろりとした何かが溜まっていく感覚がした。
「そうよ。あの人はそういう人。でも今悩んで閉じこもっている」
「閉じこもって何になるのです?私たちはいつだって民の前に引き摺り出されてきたのに!」
疲れている。どれだけ嫌だと喚いても、いつだって力ずくで表に引き摺り出したのはあの男だ。
自分だけ楽になろうなんて許せない。何に悩んでいるのか知らないし知りたくもないが、グレースの声が今は酷く不愉快だった。
「陛下は、何に悩んでおられるのですか」
サラの静かに響く鈴の音の声。
興奮し大声を張り上げるエラとは正反対の、静かで冷静な声色だった。
「貴方たちに全てを押し付けた事」
何を今更。
鼻で笑ってしまったエラに気を悪くした様子もなく、グレースは目を伏せたまま語り続けた。
「全てを押し付ける事ばかり考えて、あの人は民を巻き込むような事をした。沢山の民が死んだわ。そして沢山の者が傷付いた。貴方たちも含めてね」
グレースが言っているのはつい最近の戦争の事だ。
ジェームズが王位を狙っている事には最初から気付いていた。そしてわざと好きにさせた。人間と手を組んだ事を知っても何もしなかった。
自分の目的の為に誰がどうなろうと関係ない。そうして始まってしまった争い。それに夜空が巻き込まれると分かっていて、ルーカスはそのまま流れに身を任せたのだ。
「止めてさえくれれば、アメリアは…私の友人は死ななかった!ポートだって生きていたし、マシューが腕を失う事だって無かったのに!」
ザッカリーも、ハンスも、他にも沢山の人が傷付いた。
生きてさえいればどうにでもなると言う人が多かったけれど、傷付かなかったならその方が良かった。
エラの涙声に、グレースは膝の上でぐっと拳を握りしめる。
絞り出すような苦しそうな声で、今度はしっかりとエラを見つめながらまた言葉を続けた。
「ルーカスを止められなかったのは、黙って見ていたのは私の罪です。これは私が死ぬまで抱えていく業です」
ごめんなさい。
小さく呟いたグレースがゆっくりと椅子から立ち上がり、深々とエラとサラに頭を下げた。
この国の王妃、女の中の頂点。魔王意外に頭を下げる必要のない女が、ただの小娘二人に頭を下げて詫びたのだ。
「許してくれとは言いません。言える筈が無いのですから。でもこれだけはお願いさせてほしいのです。どうか、ルーカスを開放してやってください」
頭を下げたまま紡がれる言葉。
目を見開いたまま動けずにいるサラと、まだ喚く気でいるエラが小さく息を吸い込んだ。
「母上、二人を困らせないで頂けますか」
低く響く声。
静かに部屋に入ってくるテオドールが、そっとサラの傍らに立つ。
「私には、この子たちに詫びる事しか出来ないのよ」
まだ頭を上げないグレースに、テオドールが言葉を考えながら声を掛け続ける。
「私たちは父上の身勝手な願いにより捕らえられた。それは変わりようのない事実。ですが我々は、不本意だとしてもこの国の上に立つと決めたのです。…ガルシア嬢は、まだ自由に未練があるようですが」
小さく苦笑するテオドールがちらりとエラを見る。
確かに覚悟は決めた。やるしかないのだからやれる事は最低限やってやる。
グレースに対して恨みは殆ど無い。出来ればもっと夫の手綱をきちんと握っていてほしかったとは思うが、元凶はルーカスなのだから。
「非常に腹立たしいですが、父上の望みは望み通りに果たされるでしょう。民は既に我々を望んでいる。戴冠式はいつだなんて話している者も多いようです」
「…既に、民の心はルーカスから離れているのですね」
「察しの良い者は、弟の反乱を知っていて知らぬふりをしたと勘づいているようですしね」
長く息を吐いたグレースが、ゆっくりと頭を上げる。
その顔は酷く疲れたように見え、これ以上喚く気力がエラから削がれていった。
「母上は、この場にサラとガルシア嬢を呼んで何をされるおつもりだったのですか?」
ただお喋りを楽しみながら朝食を一緒に食べるだけではない事くらいエラにも分かる。
グレースなりの謝罪をしたかったのかもしれないが、それならもう用事は済んだ。
「貴方たちが国の主となる日をいつにするのか、その前にテオドールとサラの結婚式をどうするか、エラとアルフレッドの関係がどういうものなのか…色々と話したかったのです」
王位を譲るのは既に確定事項なのかとげんなりしながら、エラはグレースの前だというのに頭を抱えた。
サラも小さく溜息を吐いたし、テオドールも力なく頭を振る。
「自由を奪って、ごめんなさい」
もう一度呟くグレースの黒い瞳から、ぽろりと涙が一粒落ちた。




