第4話:特製ハーブバスと、鎧を脱いだ夜
案内された浴室には、木製の大きな湯船が据えられていた。
たっぷりと張られたお湯には、拳大の麻袋が浮かべられており、そこから薄いエメラルドグリーンのエキスが溶け出している。
「着替えはそこに置いておくわね。ゆっくり温まってきて」
シズルはそれだけ言うと、パタンと扉を閉めた。
一人残されたエリノーラは、ため息を一つこぼし、汗と泥にまみれた衣服を脱ぎ捨てる。
(こんな時に呑気に風呂など……。いや、だが、少しだけなら……)
言い訳をするように内心で呟きながら、掛け湯をして湯船に足を踏み入れる。
「……あ、ぁ……」
肩までお湯に浸かった瞬間、エリノーラの口から、騎士らしからぬ情けない声が漏れた。
熱すぎず、ぬるすぎない絶妙な湯加減。そして、立ち上るハーブの香りが、鼻腔を抜けて脳の奥まで直接届くような感覚。
(なんだ、このお湯は……!?)
驚くべきことに、お湯に触れている肌から、じんわりとした温かさと共に「何か」が体内に浸透してくるのがわかった。
酷使して悲鳴を上げていた筋肉の張りが、氷が溶けるようにほぐれていく。
さらに、魔物との戦闘で無意識のうちに浴びていた微量な瘴気(呪い)すらも、サラサラと洗い流されていくような圧倒的な浄化作用。
エリノーラは知る由もなかったが、シズルが「ちょっと疲れが取れる入浴剤」として放り込んだ麻袋の中身は、国宝級の回復薬の素材となる『月光草』や『聖樹の葉』を無造作にブレンドした、チート級の霊薬だったのだ。
「はぁぁ……」
完全に体の力が抜け、エリノーラは湯船の縁に頭を預けた。
こんなに心地よい時間は、騎士団に入隊して以来、いや、生まれて初めてかもしれない。
お湯のチャプ、チャプという音と、かすかに聞こえる小鳥のさえずりだけが、彼女の疲労しきった精神を優しく撫でていった。
◆
「お風呂、どうだった?」
湯上がり。シズルに借りたゆったりとした麻のワンピースを着てリビングに戻ると、暖炉の前に座っていたシズルが振り返った。
彼女のワンピースは、エリノーラには少し胸元がキツかったが、締め付ける鎧がないというだけで羽が生えたように体が軽い。
「あ、ああ。……その、最高だった。信じられないくらい体が軽くて……」
「ふふ、なら良かったわ。顔色、すっかり綺麗になったじゃない」
シズルに言われ、エリノーラはハッとして壁に掛かった鏡を見た。
そこには、目の下にあったドス黒いクマが完全に消え去り、血色の良い艶やかな肌を取り戻した自分の顔があった。パサついていた銀髪も、なぜか指通り滑らかに輝いている。
あの数十分の入浴だけで、三日三晩の徹夜のダメージが完全にリセットされていたのだ。
「さ、こっちに来て。髪、乾かしてあげる」
シズルが隣の丸椅子をポンポンと叩く。
エリノーラは大人しくそこに座り、シズルに柔らかい布で髪を拭いてもらった。
背後から伝わってくるシズルの体温と、あの甘く落ち着く匂い。そして、頭皮を優しくマッサージするような心地よい指の動き。
その圧倒的な「甘やかし」の空間の中で、エリノーラの中で張り詰めていた最後の糸が、ついに切れた。
「……っ」
「ん? どうしたの?」
エリノーラの肩が、小さく震えていた。
膝の上に置かれた両手がギュッと握りしめられ、ポツリ、ポツリと、ワンピースの裾に丸い染みを作っていく。
「私、は……っ」
「うん」
「私がしっかりしなければと、思っていたのだ。隊長である私が、誰よりも前線に立って、傷ついた部下たちを守らなければと……。でも、魔物は減らなくて、部下たちは次々と倒れて……!」
せきを切ったように、エリノーラの口から弱音が溢れ出した。
ずっと誰にも言えなかった、重圧と恐怖。自分が休めば誰かが死ぬかもしれないという、ギリギリの精神状態。
上官としての仮面が剥がれ落ち、そこにはただの、疲れ切った一人の不器用な女性がいた。
「怖かった……! 私の采配ミスで、誰かが死んでしまうんじゃないかって、毎晩怖くて、眠れなくて……っ!」
わあっと声を上げて泣き崩れるエリノーラ。
シズルは何も言わなかった。ただ、優しく、本当に優しく、泣きじゃくる銀髪の頭を胸に抱き寄せた。
「……えらいわね」
頭上から降ってきたシズルの声は、どこまでも甘く、慈愛に満ちていた。
「一人で全部背負って、誰も死なせないように、ずっと気を張って頑張ってきたのね。本当に、よく頑張ったわ」
「う、あ、ぁぁ……っ!」
「でもね、もう大丈夫。あなたは十分にやったわ。だから、今夜だけは剣を置いて、ただの女の子に戻って泣きなさい」
背中をトントンと規則正しく叩くシズルの手。
その温もりの中で、エリノーラは子供のように声を上げて泣き続けた。
溜め込んでいた全てのプレッシャーと恐怖が涙となって流れ出て、やがて彼女の心に、静かで穏やかな凪が訪れるまで。
夜の山小屋には、薪がパチパチとはぜる音と、シズルの子守唄のような優しいハミングだけが、いつまでも温かく響いていた。




