第3話:大人の本音と、何者にもならなくていい自由
黄金の果実酒のデキャンタが半分ほど空になった頃。
西の空が茜色に染まり、森の木々が夕暮れの風に揺れてサラサラと心地よい音を立てていた。
「……シズル。あんたは、なんでこんな山奥で一人で暮らしてるんだ?」
すっかり酔いが回り、口調が少し滑らかになったミランダが、ポツリと尋ねた。
「これだけの美人で、こんなすげえ料理と薬草の知識があるなら、王都でいくらでも金持ちの貴族に囲ってもらえそうだけどな」
「うーん。そういうの、疲れちゃうから」
シズルは自分のグラスの氷をカランと鳴らしながら、ふふっと笑った。
「誰かの機嫌を取って、誰かの期待に応えて生きるのって、すごくエネルギーが要るじゃない? 私はただ、自分の好きな時に起きて、自分の好きなものを食べて、たまにこうして遊びに来てくれる気の合う人たちと美味しいお酒が飲めれば、それで十分なのよ」
「自分の好きなように生きる、か……」
ミランダは、空になった自分のグラスを見つめ、自嘲気味に鼻で笑った。
「私には、無理な相談だな」
「どうして?」
「私には……『剣』しかないんだ」
アルコールの力と、シズルの放つ絶対的な包容力に当てられ、ミランダの口から、ずっと心の奥底に封じ込めていた本音が、ポロポロとこぼれ落ち始めた。
「十代の頃から、ずっと魔物と殺し合ってきた。強ければ称賛され、金が稼げた。だから、私は自分のすべてを剣に注ぎ込んだ。女としての幸せも、普通の生活も全部捨ててな。……でもな、シズル。人間、どうしても勝てないものがあるんだ」
ミランダは、自分の傷だらけの右手をギュッと握りしめた。
「『老い』だ。……最近、本当に身体が動かなくなってきた。昔なら絶対に躱せていた攻撃に、反応できない。今日も、ただのオーク相手に手こずって、後輩に助けられた」
ミランダの声が、微かに震える。
それは、死に対する恐怖ではない。自分の存在価値が失われていくことへの、底知れぬ恐怖だった。
「ギルドマスターからは、引退を勧められてる。後進の指導に当たれってな。……でも、私は怖いんだ。冒険者としての『強さ』を失った私に、一体何の価値がある? 剣を奪われたら、私には何も残らない。ただの、傷だらけの醜いおばさんが残るだけだ。……それが怖くて、無理だとわかっていながら、必死に剣にしがみついてる」
ミランダは両手で顔を覆い、深く、絶望的な溜息を吐き出した。
「笑ってくれ。いい年して、自分の引き際もわからない、未練たらしい馬鹿な女だよ、私は」
沈黙が落ちた。
ミランダは、シズルから「そんなことないわよ」「冒険者以外にも道はあるわよ」といった、ありきたりな慰めの言葉が返ってくると思っていた。
だが。
「……ミランダさん。あなた、お肉は好き?」
唐突に、全く的外れな質問が飛んできた。
ミランダが顔を上げると、シズルはグラスを片手に、夜空に輝き始めた一番星を見つめていた。
「は? あ、ああ。魔物の肉は硬くて臭いが、街の酒場で食う豚の丸焼きなんかは好きだが……」
「お酒は? 今日飲んだ果実酒、美味しかった?」
「……ああ。最高に美味かった」
「お風呂に入って、温かいお布団で眠る時間は?」
「そりゃあ……好きに決まってる」
「なら、それでいいじゃない」
シズルは振り返り、ミランダの目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、憐れみも、同情もなかった。ただ、極めてフラットで、純粋な『肯定』だけがあった。
「美味しいお肉が好きで、美味しいお酒が好きで、ふかふかのお布団で眠るのが好き。……それが、あなたの『価値』よ」
「な、何を言ってるんだ……。そんなものは、誰でも――」
「価値なんて、誰かに決めてもらうものじゃないわ」
シズルは言葉を遮り、ミランダの手を優しく握った。
「ギルドの期待とか、後輩へのメンツとか。冒険者としての『強さ』とか。……そんなものは、あなたが社会を生き抜くために、一時的に借りていた『鎧』に過ぎないのよ」
シズルの親指が、ミランダの手の甲にある古い傷跡を、愛おしそうに撫でる。
「あなたは十分すぎるほど、その鎧を着て戦ってきたわ。国を守り、街の人を守り、自分の命を守ってきた。……もう、十分じゃない。これからは、鎧を脱いで、『何者でもない自分』を楽しむ時間にしてもいいんじゃないかしら」
何者でもない自分。
その言葉が、ミランダの胸の奥深くに突き刺さった。
「剣を置いたら何も残らないなんて、嘘よ。あなたには、美味しいお酒を美味しいって感じられる味覚がある。今日の夕焼けを綺麗だと思える心がある。……それだけで、人間って生きていけるのよ」
シズルは、デキャンタからミランダのグラスに、黄金の果実酒を並々と注ぎ足した。
「今日、美味しいお酒が飲めて、こうして笑い合えれば、それで十分。……何者かにならなくちゃいけないなんて、誰が言ったの? 冒険者を辞めたら、ただの『美味しいお酒が好きなミランダさん』になればいい。私は、そういうあなたと飲むお酒の方が、ずっと好きよ」
「……っ」
ミランダの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
これまで張り詰めていた心の糸が、シズルの圧倒的な肯定によって、完全に切れてしまったのだ。
「あ……うぁ……っ」
ぽろり、ぽろりと。
三十代後半の、歴戦の女冒険者の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
ずっと、怖かった。
誰かの役に立たなければ、強くなければ、自分は生きていく資格がないと思い込んでいた。
引退後の、何もない自分の人生が恐ろしくてたまらなかった。
でも、目の前のこの人は、ただ笑って「美味しいお酒が飲めればそれでいい」と言ってくれる。
鎧を脱ぎ捨てた、傷だらけで何もない自分を、「それでいい」と全肯定してくれたのだ。
「うぅぅ……あぁぁぁぁっ……!」
ミランダはテーブルに突っ伏し、子供のように声を上げて泣いた。
冒険者としてのプライドも、大人の女としての体裁も、すべて投げ捨てて。これまでの人生で溜め込んでいた恐怖と不安を、涙と一緒にすべて洗い流していく。
シズルは何も言わず、ただ優しく、震えるミランダの背中をトントンと一定のリズムで叩き続けた。
「よく頑張ったわね。もう、痛い思いをして戦わなくていいのよ。……これからは、自分のために生きなさいな」
その言葉は、老いとキャリアへの恐怖に縛られていたミランダにとって、教会の神官のどんな治癒魔法よりも深く、確かな『魂の救済』だった。
黄金の果実酒と、優しい大人の言葉。
伝説の薬師の作り出す圧倒的な『甘やかし空間』に、歴戦の女冒険者はこうして、完全に心を許し、骨抜きにされてしまったのである。




