第5話:無双する官僚と、特任監査室の秘密の引き出し
それから数日後。
王都、中央徴税局の特任監査室。
「……室長が、お戻りになられたぞ……!」
「ひぃっ! 皆、持ち場につけ! 不正が見つかれば、今度こそ我々の首が飛ぶぞ……!」
執務室の前で、部下の官僚たちが青ざめた顔で震えていた。
数日前、不眠症で発狂寸前のまま辺境の街へ飛び出していった、あの『氷の処刑人』クラウスが帰還したのだ。
きっと、辺境の商会を血祭りに上げ、さらに機嫌を悪くして帰ってきたに違いない。少しでもミスをすれば、容赦のない罵声と降格処分が待っている。
誰もがそう覚悟し、ゴクリと生唾を飲み込んで、執務室のドアが開くのを見つめた。
ガチャリ。
「皆、おはよう。今朝の王都は少し冷えるな。暖炉の火を少し強めておいてくれ」
「…………え?」
執務室に入ってきたクラウスの姿を見て、部下たちの思考は完全に停止した。
そこには、死神のように落ち窪んだ目も、血走った眼球も、神経質に引き結ばれた口元もなかった。
肌はツヤツヤと輝き、銀髪は完璧に整えられ、背筋はピンと伸びている。そして何より、あの近寄りがたかったクラウスが、部下たちに向かって『穏やかなアルカイックスマイル』を浮かべていたのだ。
「し、室長……!? あ、あの、ご体調は……?」
「すこぶる良好だ。ここ十年で最高のコンディションと言ってもいい。……さあ、仕事を始めようか」
クラウスは、優雅な足取りで自分のデスクに座ると、山積みになっていた書類の束を手に取った。
その瞬間から、彼の放つオーラが劇的に変わった。
「この第弐派閥の経費申請は却下。数字の辻褄が3ページ目と合っていない。……こちらは承認。ただし、予算の割り当てを2%削減して通せ」
速い。
異常なまでの処理速度だった。
これまで、不眠と疲労による『脳の霧』に悩まされながら、執念だけで仕事をしていたクラウス。彼が、完全な睡眠と休息をとり、脳のパフォーマンスを100%解放した結果、その事務処理能力は人間業とは思えない次元に到達していた。
「な、なんだあの処理速度は……!? 普段の三倍……いや、五倍のスピードで書類が裁かれていくぞ!」
「しかも、一切の計算ミスがない! 室長、一体辺境でどんな魔法にかけられてきたんだ……!?」
部下たちが戦慄する中、執務室のドアを乱暴に開けて、恰幅の良い貴族――第参派閥の幹部が乗り込んできた。
「おいクラウス! 貴様、私の進めていた新規事業の予算を差し止めたそうだな! これは次期財務大臣閣下の肝いりの案件だぞ! すぐに承認のハンコを押せ!!」
貴族が顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
以前の不眠症でイライラしていたクラウスであれば、ここで激しい口論になり、余計なストレスを抱え込んでいたはずだ。
だが、今のクラウスは違った。
「……ふむ。閣下の肝いりの案件、ですか」
クラウスは全く動じることなく、引き出しから一枚の書類を取り出し、ツーッと貴族の前に滑らせた。
「なっ……こ、これは!?」
「あなたの事業の下請け会社から、あなたの親族の口座へ流れている『不自然なキックバック』の証拠です。……ええ、もちろん、次期財務大臣閣下はこのような汚職をご存知ないでしょう。私が閣下に直接ご報告に上がる前に、この申請は取り下げるのが『賢明』かと存じますが?」
クラウスは、完璧な笑顔のまま、一切の感情を交えずに冷酷な事実だけを突きつけた。
「ひっ……! 貴様、どこでこの情報を……っ!」
「特任監査室の調査力を舐めないでいただきたい。……お引き取りを。私は今、非常に重要な『法案』の作成で忙しいのです」
恐怖に顔を引きつらせ、逃げるように退室していく貴族。
それを見送ったクラウスは、ふうと一つ息を吐き、机の上に広げた『本命の書類』に向き直った。
『特別法案:ランズベリー辺境・魔の森一帯の自然保護区指定、および特任監査室直轄管理区域の制定について』。
(ローウェン商会が裏から手を回し、私が国の中央から法で縛る。これで、あのシズル殿の温かい山小屋に、国の手が入ることは永遠にない……)
クラウスは、羽ペンを滑らせながら、口元に笑みを浮かべた。
国政を動かすエリート官僚の権力と頭脳のすべてが、今、たった一人の女性が住む山小屋の『平穏』を守るためだけにフル稼働しているのだ。
「ふぅ。今日の仕事はここまでだな。皆、定時だ。さっさと帰って休め」
夕刻。
机の上の書類の山をすべて片付けたクラウスは、部下たちにそう告げた。
「て、定時上がり!? 室長が、残業をせずに帰るなんて……!?」
驚愕する部下たちを尻目に、クラウスは上着を羽織り、自分のデスクの『一番下の一番奥の引き出し』を開けた。
そこには、国家機密の書類ではなく。
シズルから持たせてもらった『特製ホットアイマスク』と、『安眠ハーブティーの入った小瓶』が、何よりも大切な宝物のように、大切に保管されていた。
(今夜も、これを着けて、あの温かいリゾットの味を思い出しながら眠るとしよう。……来月の『辺境視察(休暇)』が、今から待ち遠しいな)
クラウスは、ホットアイマスクを愛おしそうに撫でると、引き出しに鍵をかけ、軽やかな足取りで王都の夜の街へと帰っていくのだった。
こうして、王都で最も恐れられていた不眠症の堅物官僚は、シズルという最強の『癒やしの主』に胃袋と睡眠を完全に掌握され、月一で山小屋へ通う『重度のサウナ&安眠依存症の常連客』へと、見事なクラスチェンジを果たしたのである。




