第3話:泥のような安眠と、寝返る国家権力
「シズル様ぁぁぁっ!! 申し訳ございません! 全ては私の不徳の致すところです!!」
翌日の昼下がり。
魔の森の山小屋の庭先に、若き大商会長ローウェンの悲痛な叫び声が響き渡った。
ローウェンは、最高級のスーツを泥だらけにしながら山道を駆け上がり、シズルの家の玄関前で土下座をして泣き叫んでいた。
背後には、彼が護衛として雇っている凄腕傭兵のヴァルガと、非番で遊びに来ていた女騎士エリノーラが、呆れたような顔で立っている。
「どうしたのローウェンさん。そんなに慌てて」
縁側でお茶を飲んでいたシズルが、不思議そうに小首を傾げる。
「ど、どうしたのも何もありません! 王都から、泣く子も黙る中央徴税局の『特任監査室長』が、直々に我が商会の監査に乗り込んできたのです!」
ローウェンは青ざめた顔で捲し立てた。
「彼は私がシズル様を守るために構築した『情報統制(という名の札束ビンタ)』を、悪の密輸組織の隠蔽工作だと勘違いし、単身でこの山へ向かってしまった! あの堅物官僚にこの場所がバレれば、シズル様が王都に連行されてしまうかもしれない! どうか、今すぐ荷物をまとめて逃げて――」
「逃げる必要はない」
――ガチャリ。
山小屋の玄関のドアが開き、そこから一人の男が姿を現した。
「ひぃっ! 監査官殿!?」
ローウェンが悲鳴を上げて後ずさる。
そこに立っていたのは、確かに昨日王都からやってきた特任監査室長、クラウスだった。
しかし、その姿は昨日までの彼とは全くの別人に変貌していた。
「あ、クラウスさん。おはようございます。よく眠れました?」
シズルがのほほんと声をかける。
「ああ……。信じられない気分だ」
クラウスは、大きく伸びをしながら、魔の森の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
彼の顔にあった、あの死人のような土気色の肌と、墨を塗ったような目の下の隈は、完全に消え去っている。
血走っていた灰色の瞳は、澄み切った秋の空のようにクリアに輝き、肌には健康的な血色が戻っていた。
昨日、シズルに強制的に寝かしつけられた後、彼はなんと『十八時間』もの間、一度も目を覚ますことなく、深い深いノンレム睡眠を貪っていたのだ。
これまでの人生で最も質の高い睡眠。
すり減っていた神経は完全に修復され、頭の中にかかっていた分厚い靄が、嘘のように晴れ渡っていた。
「……ローウェン商会長。お前が持ってきていた帳簿、先ほど少し見させてもらった」
クラウスは、玄関先に置いてあった分厚い鞄の中から、ローウェン商会の帳簿の束を取り出した。
「お、終わりだ……。私の脱税……いや、必要経費の隠蔽がバレた……っ!」
絶望するローウェン。
だが、クラウスの口から出たのは、全く予想外の言葉だった。
「実に、素晴らしい帳簿だ」
「……はい?」
「領主への寄付金も、情報統制のための交際費も、すべてこの街の経済を回し、治安を維持するための『正当な投資』として完璧に処理されている。王室への納税義務も一シリングたりとも怠っていない。……私の疑心暗鬼が招いた、完全な見当違いだった。非礼を詫びよう」
クラウスは、うやうやしくローウェンに頭を下げた。
「えっ……? あ、いや、それはその……」
(なんだこの官僚!? 昨日まで「貴様の商会を取り潰してやる」って血走った目で怒鳴り散らしてたのに、なんでこんなに爽やかで物分かりのいい好青年になってるんだ!?)
ローウェンは戸惑い、ヴァルガとエリノーラも顔を見合わせて首を傾げている。
「それよりも、だ」
クラウスは真剣な表情に戻り、銀縁の眼鏡の位置をくいっと直した。
そして、後ろを振り返り、縁側で微笑むシズルと、この静かで温かい山小屋を見つめた。
「この場所は、まさに国家の至宝……いや、私の人生において絶対に必要な『究極の安眠の聖域』だ」
クラウスの灰色の瞳に、昨日とは全く違う、しかし同じくらい狂気的な執念の炎が宿った。
「私が今後も、王都の激務と派閥争いを生き抜き、国の財政を正しく導くためには、最低でも月に一度はここへ来て、あの極上の『ホットアイマスク』と『薬草ミルク』を摂取し、泥のように眠る必要がある」
クラウスはズンッと一歩前に出ると、ローウェンに向かって力強く宣言した。
「ローウェン商会長! 貴様のやっていたような生温い情報統制では、いずれ他の派閥の連中に嗅ぎつけられる! 私は王都へ戻り次第、私の持つ全ての権限を行使し、この魔の森一帯を『特任監査室直轄の自然保護区および、絶対立ち入り禁止の国家機密エリア』として書類上書き換える!」
「なっ……国家機密エリア!?」
「そうだ! そして、私をこの『シズル様防衛軍』の最高顧問として迎え入れることを要求する!!」
ドヤ顔で言い放つエリート官僚。
その宣言に、ローウェンは一瞬ポカンとした後、すぐに破顔してクラウスの手をがっちりと握りしめた。
「素晴らしい!! さすがは特任監査室長殿! 国家権力を私物化してまでシズル様の平穏(と自分の安眠)を守ろうとするその覚悟、まさに我々と同じ穴の狢!」
「フッ、褒め言葉として受け取っておこう。……シズル殿の特製ランチをご馳走になった後、すぐに王都へ戻って法案を通す準備をしなければな!」
意気投合し、固い握手を交わす大商会長とエリート官僚。
昨日まで敵対していたはずの二人が、シズルの『圧倒的な甘やかしと癒やし』によって完全に骨抜きにされ、山小屋を守るための最強のタッグを結成した瞬間だった。
「あはは……。なんだか、またすごい人が常連になっちゃったわね」
シズルは、庭で熱い議論(いかにして合法的にこの山を国から独立させるか)を交わし始めた男たちを見ながら、呆れたように、しかし楽しそうに笑うのだった。
こうして、不眠症に苦しんでいた王都の堅物エリート官僚は、シズルの作り出す『究極の睡眠導入空間』の前に完璧な敗北を喫し。
自らの安眠とシズルの平穏を守るため、最強の権力を持った『国の防波堤(兼、月に一度の通い患者)』として、この愉快なエコシステムの一員に加わったのである。




