第2話:完璧な敗北と、極上のホットアイマスク
「……っ、はっ!」
クラウスがバチリと目を見開いた時、彼の視界に飛び込んできたのは、王都の執務室の無機質な石造りの天井ではなく、太い丸太が剥き出しになった温かみのある木の天井だった。
(私は……どうしたんだ。そうだ、監査のために辺境の山へ登り、そして……)
記憶が急激に蘇り、クラウスは反射的に跳ね起きようとした。
しかし、身体に全く力が入らない。手足は鉛のように重く、まるで泥の沼に沈み込んでいるかのようだった。
いや、違う。泥ではない。
彼を絡め取っているのは、陽だまりの匂いがする、驚くほどふかふかで柔らかい『極上の羽毛布団』だった。
「あ、目が覚めたかしら」
部屋の隅から、穏やかで甘い声が聞こえた。
クラウスが鋭い視線を向けると、そこには丸椅子に腰掛け、編み物をしている美しい黒髪の女性がいた。
彼女こそが、ローウェン商会を裏で操る悪の黒幕(とクラウスが勝手に思い込んでいる人物)だ。
「き、貴様……私に毒を盛ったな! 私は王都の特任監査室長、クラウスだ! 私に危害を加えれば、国家への反逆罪として――っ、がほっ、げほっ!」
「あらあら、急に大声を出すから」
怒鳴り散らそうとしたクラウスだったが、極度の乾燥と疲労で喉が張り付き、情けない咳き込みに変わってしまった。
シズルは編み物を置き、呆れたように苦笑しながらクラウスの枕元へと歩み寄った。
「毒なんて盛ってないわよ。あなたはただ、極度の過労と睡眠不足で、玄関先で勝手に倒れただけ。……すごい顔色だったわよ。三日や四日じゃないわね、数ヶ月単位でまともな睡眠をとっていないでしょう?」
「なっ……なぜ、それを」
「見ればわかるわ。自律神経……あなたの身体の中の、緊張状態とリラックス状態を切り替えるスイッチが、完全にぶっ壊れて、常にオンのままショートしているのよ」
シズルの指摘は、クラウスにとって図星だった。
だが、エリート官僚としてのプライドが、弱みを見せることを許さない。
「ええい、戯言を! 私の体調などどうでもいい。私は貴様たちの裏帳簿を監査しに……っ!」
強引に布団から這い出ようとするクラウス。
しかし、シズルは両手をクラウスの肩にそっと置き、有無を言わさぬ力(物理的な力ではなく、圧倒的な大人のプレッシャー)で、彼を再びふかふかの布団の中へと押し戻した。
「駄目よ。あなたは今、絶対に休まなくちゃいけない『重症の患者さん』なんだから」
「放せ! 私は休むわけにはいかない! 私が眠れば、王都で悪事を働く奴らが私腹を肥やし、国の財政が……っ!」
「はいはい。国のお金も大事だけど、自分の命の方がもっと大事よ。あなたが過労死したって、偉い人たちは新しい代わりを用意するだけで、誰も悲しんでくれないわよ?」
前世で、過労で倒れていった同僚たちを見てきたシズルの言葉は、冷徹なまでに真実を突いていた。
クラウスの動きが、一瞬だけピタリと止まる。
「さ、これをつけて。絶対に外さないでね」
抵抗をやめたクラウスの目の上に、シズルは『何か』をそっと乗せた。
それは、ハーブや亜麻の実が詰められ、適度な重みを持った小さな布製の袋だった。
「……なんだ、これは。熱い……いや、温かい……?」
「特製の『ホットアイマスク』よ。中にはリラックス効果のある薬草を詰めて、少しだけ温めてあるの」
布袋が目元に乗せられた瞬間、クラウスはビクンと身体を震わせた。
適度な重みがまぶたを優しく圧迫し、外部からの光を完全に遮断する。そして、袋の中からじんわりと伝わってくる温もりが、酷使し続けて限界を迎えていた眼球と、目の奥の視神経を直接解きほぐしていく感覚。
(な、なんだこの心地よさは……。目の奥の、あのズキズキとした痛みが……溶けていく……?)
「目から入ってくる光の刺激を遮断して、温めるの。そうすると、張り詰めていた脳の緊張が直接緩むのよ。……ほら、いい匂いがするでしょう?」
シズルの言う通りだった。布袋からは、ラベンダーやカモミールに似た、甘く爽やかな香りが漂ってくる。
その香りを吸い込むたびに、浅く早く繰り返されていたクラウスの呼吸が、自然と深く、ゆっくりとしたものに変わっていく。
「次に、これを少しずつ飲んで」
シズルは、クラウスの頭を少しだけ持ち上げ、温かいマグカップを口元に当てた。
「……睡眠薬か?」
「ただの温かいミルクに、安眠効果のある薬草のシロップを混ぜただけよ。疑うなら飲まなくてもいいけど、胃が空っぽのままだと、身体が安心して眠れないわよ」
促されるまま、クラウスは口を開き、その温かい液体を喉に流し込んだ。
濃厚なミルクの甘みと、薬草の爽やかな風味が、冷え切ってチクチクと痛んでいた胃の粘膜を優しくコーティングしていく。
温かい飲み物が胃の腑に落ちた瞬間、身体の中心からポカポカとした熱が広がり、ガチガチに強張っていた全身の筋肉が、嘘のように弛緩していくのがわかった。
「……っ」
クラウスの脳内で、けたたましく鳴り続けていた『緊急事態(仕事モード)』の警報が、急速にボリュームを下げていく。
交感神経の異常興奮が鎮まり、代わりに、長年彼を見放していた『副交感神経』が、シズルの特効薬によって強制的にオンに切り替えられたのだ。
「あ、あぁ……」
クラウスは、目元をホットアイマスクで温められながら、深い深い溜息を吐き出した。
それでも、彼の堅物官僚としての理性は、まだ必死に抗おうとしていた。
「だ、だめだ……。私は、監査報告書を……明朝までに、まとめなければ……。第参派閥の、不正を……」
「お仕事のことは、全部忘れていいの」
シズルのひんやりとした柔らかな手が、クラウスの額に触れ、銀色の前髪を優しく撫でた。
トントン、と。
まるで、熱を出してうなされる子供を寝かしつけるような、一定のリズム。
「あなたが今日一日お休みしたって、国は滅んだりしないわ。だから、今は何も考えずに、ゆっくり眠りなさい。……よく頑張ったわね、えらいえらい」
その『圧倒的な肯定と甘やかし』の言葉が、クラウスの理性の最後の防波堤を、いとも簡単に決壊させた。
(そうか……。私は、休んでも……いいのか……)
常に完璧であることを求められ、誰にも弱みを見せられず、孤独に戦い続けてきた日々。
本当は、もう限界だった。
誰かに「もう休め」と言ってほしかったのだ。
目元の心地よい温かさと、胃を満たす甘いミルク。そして、額を撫でるシズルの優しい手の感触。
クラウスの意識は、抵抗することを完全にやめ、数ヶ月ぶりとなる、深く、暗く、そして底知れぬほど心地よい『泥のような安眠』の沼へと、静かに沈んでいった。




