第7章:不眠症の堅物官僚、ふかふかのクッションで微睡む 第1話:眠らない男と、辺境の不審な帳簿
カチッ、カチッ、カチッ。
静まり返った王都の中央徴税局、特任監査室。
真夜中をとうに過ぎ、壁掛け時計の針が午前三時を回っても、室長であるクラウスの執務室からは、万年筆が羊皮紙を走る音と、書類をめくる乾いた音だけが響き続けていた。
「……チッ。第参派閥の連中め、またこんな杜撰な経費計上を。王室の予算を、自らの私腹を肥やすための打ち出の小槌か何かと勘違いしているのか」
クラウスは忌々しげに舌打ちをし、分厚い帳簿に赤いインクで容赦のない修正と、告発のためのメモを書き込んでいく。
年齢は三十代後半。銀縁の眼鏡の奥にある怜悧な灰色の瞳は、血走って酷く充血し、目の下にはまるで墨を塗ったような色濃い隈が落ちている。
完璧に撫でつけられていたはずの銀髪は数本が額に乱れ落ち、仕立ての良い官僚の制服も、長時間のデスクワークで無惨なシワが寄っていた。
彼を突き動かしているのは、国の財政と法を守るという、エリート官僚としての強烈な矜持。
そして――重度の『不眠症』だった。
ここ数ヶ月間、クラウスはまともな睡眠をとっていない。
王都の中央政界は今、次期財務大臣の座を巡る醜い派閥争いの真っ只中にあった。特定の派閥に属さず、己の正義と規則のみを重んじるクラウスは、双方の派閥から「目の上のたんこぶ」としてひどく疎まれていた。
結果として、彼は嫌がらせのように膨大な仕事と、誰もやりたがらない厄介な汚職事件の監査ばかりを押し付けられるようになったのだ。
毎日、日付が変わるまで数字と睨み合い、嘘と誤魔化しに塗れた書類の山を片付ける。
深夜、ようやく執務室の仮眠用ベッドに横たわっても、彼の脳は異常な興奮状態にあり、決して休息を許してはくれなかった。
目を閉じると、未処理の書類の山や、政敵たちの嘲笑う顔が暗闇に浮かび上がり、動悸が激しくなる。心臓の鼓動が耳の奥でドクンドクンと煩く響き、呼吸が浅くなる。
眠りたいのに、眠れない。
疲労はとうに限界を突破しているというのに、交感神経だけが異常に研ぎ澄まされ、些細な物音や窓から差し込む月光にすら、殺意を覚えるほどの苛立ちを感じてしまう。
「眠る暇があるなら、一つでも多くの不正を暴く。それが私の仕事だ」
クラウスは呪文のように呟き、濃く淹れすぎた苦いコーヒー(ファンタジー世界における、強い覚醒作用を持つ香草茶)を、冷え切った胃に流し込んだ。
荒れ果てた胃壁がチクチクと抗議の痛みを上げるが、もはやその痛みすら、彼にとっては眠気を強引に覚ますためのスパイスでしかなかった。
そんな極限の自律神経崩壊状態にあったクラウスの目に、ある地方都市の監査報告書が留まった。
「……辺境の街、ランズベリー。そこの新進気鋭の商会、『ローウェン商会』の金の流れ……。なんだ、これは?」
クラウスの灰色の瞳が、獲物を見つけた鷹のように細められる。
ローウェン商会の動きは、財務のプロである彼の目から見て、明らかに異常だった。
最近になり、ローウェン商会はランズベリーの他の有力な商会が抱えていた負債を、強引な手法で次々と買い取っている。加えて、領主への謎の多額の寄付金。……いや、タイミングを考えれば、これは事実上の『賄賂(口止め料)』に近い。
彼らは、街の情報を徹底的に統制し、特定のエリア――『魔の森』の一部への立ち入りを、経済的・政治的な圧力をフルに用いて完全封鎖しようとしている痕跡があるのだ。
さらに不可解なのは、ローウェン商会の裏帳簿の片隅に、極秘扱いで記された『謎の薬草および、最高級調味料の仕入れ』と、『莫大な額の使途不明な交際費』の存在だった。
「魔の森の奥深くで、無許可の薬草売買……あるいは、麻薬に類する違法な成分の取引が行われている可能性があるな。ローウェン商会は、その巨大な闇の利権を独占し、街の権力者を金で抱き込んで、一大犯罪結社を作り上げようとしていると見るべきか」
不眠によって正常な判断力を失い、被害妄想にも似た疑心暗鬼に陥っていたクラウスの脳内で、勝手に『辺境を牛耳る巨大な悪の密輸組織』の図式が組み上がっていく。
「許さん。辺境の田舎商人ごときが、国の法と税制度を愚弄するなど。……この私が直接出向いて、その化けの皮を剥ぎ、法の下に裁きを下してやる」
クラウスは万年筆を乱暴に机に放り投げ、ハンガーから分厚いコートを引ったくった。
「し、室長!? こんな夜更けにどちらへ……って、まさか今からランズベリーへ向かうおつもりですか!?」
執務室のドアが開き、書類を持ってきた当直の部下が、血走った目のクラウスを見て悲鳴のような声を上げた。
「あなた、もう三日も徹夜してますよ! 顔色が土気色です、このままでは倒れてしまいます!」
部下が必死に止めるが、クラウスは冷たく一瞥した。
「私は倒れん。不正をこのまま見過ごし、あの腐りきった帳簿を放置する方が、私の精神衛生上よほど悪い。……馬車の用意をしろ。一番速い馬だ。夜明けとともに出発する」
止める部下を冷酷に振り切り、不眠症の堅物官僚は、自らの身体をすり減らす狂気的な使命感と共に、辺境の街へと向けて出発したのだった。
◆
馬車に揺られること数日。
普通であれば、王都からの長旅の間に、揺れに身を任せて少しは仮眠をとるものだ。だが、クラウスの不眠症は最悪のピークに達していた。
ガタガタと絶え間なく続く馬車の振動、車輪が石畳を軋む音、御者の声。すべてが彼の過敏になりすぎた神経をヤスリで削るように逆撫でし、結局、一睡もできないままランズベリーへと到着してしまったのだ。
頭の中には冷たい鉛が詰まっているように重く、視界の端は常にチカチカと白い光が明滅している。吐き気と、こめかみをハンマーで殴られるような激しい頭痛。
しかし、アドレナリンだけが異常に分泌され、彼の足取りは奇妙なほどに早かった。
「ここが、悪の温床であるローウェン商会か」
ランズベリーの中心部に建つ、一際立派な商会の建物。
クラウスはアポもなしに正面扉を蹴り開けるようにして入り込み、応接室にいた従業員たちに、王都の中央徴税局の身分証を叩きつけた。
「特任監査室のクラウスだ。不審な金の流れについて、緊急の査察に参った。商会長のローウェンを出せ」
「こ、これは王都の特任監査官殿! 辺境までようこそおいでくださいました。一体、どのようなご用件で……?」
奥の執務室から慌てて飛び出してきたのは、見事に仕立てられたスーツを着こなす、若き商会長ローウェンだった。
ローウェンは完璧な商人の愛想笑いを浮かべていたが、その額には一筋の冷や汗が流れていた。彼にとっても、王都の監査機関のトップが直接乗り込んでくるなど、完全に予想外の事態だったのだ。
「しらばっくれるな。貴様がこの街で裏金をばら撒き、魔の森の特定のエリアを不法に占拠していることは調べがついている。……そこには一体、何がある? 違法な薬草の栽培か? それとも、裏社会の闇市か?」
「なっ……! い、違法な薬草など、滅相もない!」
ローウェンは激しく動揺した。
(まずい、まずいぞ! 私がシズル様の平穏なスローライフを守るために、山の周辺情報を徹底的に金と権力で遮断したことが……逆に王都の官僚の不信を買い、監査を引き寄せてしまったというのか!?)
ローウェンの脳内で、最悪のシナリオが展開される。
もしこの融通の利かない、見るからに神経質そうな堅物官僚が山へ踏み込み、シズルと接触すればどうなるか。
彼女の作り出す規格外の『薬湯』や、騎士団すら驚愕する『神代の治癒能力』が国に知れ渡り、シズルが王都の研究施設へ連行されてしまうかもしれない。彼女のあの温かい居場所が、国の権力によって奪われてしまう!
「お、お待ちください監査官殿! 帳簿ならすべて、今ここで包み隠さずお見せします! どうか、あの森にだけは近づかないでいただきたい! あそこには、狂暴な魔物が住み着いており、非常に危険なのです!」
ローウェンは必死に身を挺してクラウスの行く手を塞ごうとした。
「ほう。街を牛耳る大商会長が、随分と必死に引き止めるではないか。……ますます怪しいな」
クラウスは冷たく鼻を鳴らし、立ち塞がるローウェンを強引に突き飛ばした。
「貴様の帳簿など、後でいくらでも洗い直してやる。私は今から、その『魔の森』とやらを直接この目で確かめに行く。もし不正が見つかれば、貴様の商会は取り潰しだ」
「なりませぬ! あそこは私有地……いや、不可侵の領域です! おい、誰か騎士団を呼べ! 監査官殿をお止めしろ!!」
ローウェンが半狂乱になって叫ぶのを背中で聞き流し、クラウスは足早に商会を後にした。
(間違いない。あの森の奥に、ローウェン商会の闇の根源……悪の黒幕が潜んでいる。この私が、必ず法の下に裁きを下してやる!)
激しい頭痛と目眩に襲われ、足元がふらつきながらも。クラウスは不眠によって肥大化した狂気的な執念だけで、魔の森への険しい山道を一人、登り始めた。
◆
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ」
魔の森の急な斜面。
クラウスの心臓は、今にも肋骨を突き破って飛び出しそうなほど異常な早鐘を打っていた。
ただでさえ数日間一睡もしていない身体に、不慣れな過酷な登山。息を吸うたびに肺が焼け焦げるように痛く、最高級の革靴は泥に取られてまともに前に進まない。
(くそっ……なんて過酷な道だ。だが、悪党どもはここを拠点にしているはず。……もう少しだ、もう少しで、不正の証拠を掴める……!)
視界が白く霞み、幾度となく意識が途切れそうになる。その度に、己の太ももを爪が食い込むほど強くつねり、痛みで無理やり意識を繋ぎ止める。限界を超えた肉体は、文字通り悲鳴を上げていた。
やがて、鬱蒼とした木々が途切れ、ふっと視界が開けた。
「……あ……ここ、が……?」
クラウスが荒い息を吐きながら顔を上げると、そこに広がっていたのは、彼が想像していたような『悪の密輸組織のアジト』や『違法な薬草の栽培工場』などではなかった。
陽光が優しく降り注ぐ、おとぎ話のように美しいひだまりの空間。
こぢんまりとした丸太小屋。増設されたばかりの美しいウッドデッキと、その横にある小さなサウナ小屋から立ち上る心地よい湯気。庭の畑では、色鮮やかな野菜やハーブが、微風に揺れてキラキラと輝いている。
そして。
「あ、ティセちゃん! お布団干すの手伝って! 今日はお日様がいっぱいだから、ふかふかになるわよー!」
「はいっ、お姉さん!」
ウッドデッキの上で、艶やかな黒髪の女性と、紫色の右目を持つ少女が、清潔な白いシーツを広げて、楽しそうに笑い合っていた。
風に乗って、石鹸の香りと、お日様の匂いがふわりと漂ってくる。
それは、血と汗と謀略にまみれ、疑心暗鬼の塊となっていた王都の政界で生きてきたクラウスにとって、あまりにも異質で、平和すぎる光景だった。
(なんだ、ここは……。悪の組織のアジトでは、ないのか……? あの女が、黒幕……?)
クラウスは混乱する頭を無理やり稼働させ、ふらつく足取りで小屋へと近づいていった。
「お、おい、そこの女……!」
クラウスが枯れた声を絞り出す。
シズルが振り返り、見知らぬ銀髪の男の姿を捉えた。
「私は、王都の特任監査室……室長の、クラウスだ。ローウェン商会との、違法な……取引の疑いで……査察に……」
身分証を突きつけようと懐に手を入れた瞬間。
数日間の完全徹夜と、極度のストレス、そして山登りの疲労が、ついにクラウスの肉体の限界を完全に突破させた。
「あ……」
プツン、と。
頭の中で、張り詰めていた糸が切れる音がしたかと思うと、クラウスの視界は急速に暗転し、彼はまるで糸の切れた操り人形のように、その場にバタリと崩れ落ちた。
「えっ!? ちょっと、大丈夫ですか!?」
薄れゆく意識の中。最後にクラウスの耳に届いたのは、悪党の冷酷な声でもなく、政敵の嘲笑でもない。見ず知らずの自分を心から心配する、どこまでも温かく、甘い声だった。




