第5話:歌姫の引退宣言と、秘密の隠れ家
翌朝。魔の森の山小屋は、いつにも増して穏やかな光と、美味しい匂いに包まれていた。
キッチンでは、シズルとティセが並んで朝食の準備をしている。ベーコンがはぜる音と、野菜のスープがコトコトと煮える音。
フェリアは、自分の割り当てられたゲスト用のベッドで目を覚ました。
ゆっくりと身体を起こし、窓の外を見る。今日も快晴だ。
彼女は一つ深呼吸をし、喉の奥の感覚を確かめた。昨日の夕暮れ、あんなに自然にハミングができたのだ。もう、恐怖はない。
リビングへと足を踏み入れ、キッチンで立ち働く二人の背中を見つめる。
そして、フェリアは胸の奥から、温かい空気を押し上げるようにして、声を発した。
「おはよう、ございます。シズルさん、ティセちゃん」
それは、鈴を転がすような、それでいて芯のある、透き通るような美しい声だった。
王都の劇場で何万人をも魅了した『奇跡のソプラノ』が、山小屋の静かな朝の空気を震わせたのだ。
「あっ……!」
ティセが振り返り、手から木べらを落としそうになった。
「フェリアさん! 声が、声が出てる……っ!」
「ふふ、おはようフェリアさん。とっても素敵な声ね」
シズルは驚くこともなく、いつものようにふわりと微笑んだ。
その笑顔を見て、フェリアの胸に温かいものが込み上げる。
「はい。……あの、私、お手伝いします。お皿、並べますね」
「ありがとう。じゃあ、そこの棚から三人分の器を出してくれるかしら」
なんということもない、ただの日常の会話。
だが、フェリアにとっては、それが奇跡のように嬉しかった。
『おはよう』と言えること。『手伝います』と言えること。
自分の声が、誰かを喜ばせるための道具としてではなく、ただのコミュニケーションの手段として存在している。その当たり前の事実が、彼女の心をどこまでも軽くしてくれた。
◆
「いやぁ、王都は今、大騒ぎですよ」
その日の午後。
街から定期的な物資の搬入(という名の癒やしの摂取)にやってきた大商会長のローウェンは、縁側でお茶を啜りながら、呆れたように肩をすくめた。
「最高位の歌姫『フェリア』が、公演直前に突如として失踪。所属していた劇場はチケットの払い戻しで大赤字、パトロンの貴族たちは激怒して捜索隊を出しているとか。……まぁ、彼女を過労で使い潰した興行主の自業自得ですがね」
「へぇ。大変ねぇ、王都の人たちは」
「まったくです。しかし、あの美声がもう二度と聞けないとなると、この国の芸術界にとっても大きな損失――」
そこまで言いかけて、ローウェンはハッと口を閉ざした。
彼の視線の先、庭の隅にある畑で、ティセと一緒に野菜の収穫を手伝っている金髪の女性。
彼女が、楽しそうに笑いながらティセに話しかけている声が聞こえてきたのだ。
「ティセちゃん、この赤い実はもう採ってもいいの?」
「はいっ! フェリアさん、それすごく甘くて美味しいんですよ!」
ローウェンの商人としての脳髄に、雷が落ちた。
「フェ、フェリア殿!? 声が……っ、声が戻っていらっしゃる!!?」
ローウェンは持っていた湯呑みを放り出し(寸前でシズルがキャッチした)、弾かれたように縁側から飛び降りた。
「素晴らしい……! 奇跡だ! いや、シズル様の特製薬湯の力か! なんということだ、王都の至宝がここで完全復活を遂げていたとは!」
興奮で目を血走らせるローウェンを見て、フェリアはビクッとしてティセの後ろに隠れた。
そんなフェリアの恐怖などお構いなしに、ローウェンはズイズイと歩み寄り、捲し立てた。
「フェリア殿! 今すぐ王都へ戻りましょう! 我がローウェン商会が全面的にバックアップし、あなたの復帰公演をプロデュースいたします! あの腐りきった興行主どもを札束でひっぱたき、あなたが全ての利益を享受できる完璧な契約を――」
――ゴツンッ。
「いっっっだぁっ!!?」
ローウェンの後頭部に、空の木桶がクリーンヒットした。
投げたのは、腕組みをして背後に立っていた大柄な傭兵、ヴァルガである。
「うるせえぞ商人。休養中の嬢ちゃんを怯えさせてんじゃねえ」
「な、何をす……あ」
ローウェンが抗議しようと振り返ると、ヴァルガの隣には、木桶よりも遥かに恐ろしい『笑顔の魔王』が立っていた。
シズルだ。彼女は完璧な笑顔を顔に貼り付けたまま、しかしその背後には、絶対零度の吹雪が吹き荒れている幻覚が見えた。
「ロー・ウェン・さん?」
「ひぃっ! も、申し訳ございません! つい商人の血が騒いでしまい……っ!!」
すぐさま土下座の体勢に入るローウェン。
シズルはふうと溜息をつき、フェリアを庇うように前に立った。
「この子は私の大切なお客さんよ。王都の面倒ごとに巻き込むのは絶対に許さないわ。……ねえ、フェリアさん」
シズルが優しく振り返る。
フェリアは、シズルの背中を見つめ、そして――ゆっくりと、横に首を振った。
「ううん、シズルさん。大丈夫です」
フェリアは、シズルの後ろから一歩前に出た。
彼女の目はもう、怯えてはいなかった。王都の貴族や商人に搾取されていた、あの弱々しい操り人形の瞳ではない。
自分の意思を持った、一人の大人の女性の瞳だった。
「ローウェンさん、と言いましたね」
「は、はい……」
「お気遣いは感謝します。でも、私はもう、王都の舞台には戻りません」
きっぱりとした、しかし鈴のように澄んだ声だった。
「私は、誰かの期待を満たすためや、お金を稼ぐための『道具』になるのはもう嫌なんです。……歌うことは好きです。でも、これからは、私が歌いたい時に、私が歌いたい人のためにだけ、声を紡ぎたい」
フェリアはそう言って、シズルと、ティセと、そして山小屋の常連たちを見渡した。
「だから、私は『歌姫フェリア』を引退します」
その堂々たる引退宣言に、庭には静かな風が吹き抜けた。
圧倒的な才能を持ちながら、それを名誉や金のために使うことを完全に放棄した。それは、凡人からすれば勿体ないと思える決断かもしれない。
だが、ローウェンは土下座から顔を上げ、眼鏡の奥で深く、感服したように目を細めた。
(……この山には、本当に。どうしてこう、権力や金に見向きもしない、美しく気高い魂ばかりが集まるのだろうか)
孤児から這い上がり、金と利益の亡者だった自分が、今やこの山小屋の平穏を守るためだけに全てを捧げているように。
目の前の歌姫もまた、この『圧倒的な癒やしの聖域』に触れ、本当の自分を取り戻したのだ。
ローウェンはパンッ、と膝を叩いて立ち上がると、うやうやしくフェリアに頭を下げた。
「……承知いたしました。一人の商人として、いや、この『シズル様防衛軍』の末席を汚す者として、あなたのその気高い決断に敬意を表します」
「ローウェン、さん……?」
「王都の腐った興行主との専属契約の解除、および理不尽な違約金の請求などは、すべて我がローウェン商会の法務部が叩き潰してご覧に入れましょう。彼らの裏の悪事の証拠は、いくらでも捏造……いえ、発掘できますからね」
黒い笑顔を浮かべるローウェンに、フェリアは唖然とした。
「そ、そんなことまでしてくれるんですか? 私、お金なんて一銭も持っていないのに……」
「金など不要です! これは、我らがシズル様の家族を守るための聖戦! ……それに」
ローウェンはコホンと咳払いをした。
「あなたがここで時折、その素晴らしい歌声を、我々の身内だけの宴の席で披露してくださるなら……それだけで、金貨何万枚にも値する報酬となりますからね」
「……っ」
フェリアの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
自分の歌声を、利益を生む道具としてではなく、「ただ聴きたいから」と言ってくれる人たち。
「あ、ありがとうございます……っ! 私、歌います! みんなのために、喜んで歌います……!」
「ガッハッハ! そいつはいい! 今夜は極上のイノシシ肉があるぜ! 嬢ちゃんの快気祝いと、引退記念の宴だ!」
ヴァルガが豪快に笑い、奥で木材を削っていたガストンも「おう! 祝いなら俺がとっておきの酒をたるごと開けてやるぜ!」と声を上げた。
シズルは、賑やかになった庭を見渡し、くすくすと上品に笑った。
「ふふ、じゃあ今日は、ちょっと腕を振るってご馳走を作らなきゃね。ティセちゃん、手伝って」
「はいっ! お姉さん!」
◆
その日の夜。
山小屋の庭に新設された広々としたウッドデッキには、ランタンの温かい光が灯り、大きなテーブルにはシズル特製の料理が所狭しと並べられていた。
香草で丸焼きにされた野鳥、大根と豚肉のトロトロ煮込み、新鮮な野菜のサラダ、そしてガストンが持ち込んだ極上のエール酒。
シズル、ティセ、ヴァルガ、エリノーラ、ローウェン、ガストン。
そして、その輪の中心には、頬をほんのりと赤く染め、心からの笑顔を浮かべるフェリアの姿があった。
「さあさあフェリア殿! 私のお酌を受けてくだされ!」
「こらローウェン! 嬢ちゃんは喉が治ったばかりだ、強い酒は駄目だぞ! ほれ、こっちの果実水を飲みな」
「ちょっとヴァルガさん、ガストンさん! お肉ばかり食べないで野菜も食べてください!」
喧騒と、絶えない笑い声。
王都の華やかな貴族の夜会とは比べ物にならない、泥臭くて、騒がしくて、けれど世界中のどこよりも温かい食卓。
食事が一段落した頃。
フェリアはそっと立ち上がり、ウッドデッキの手すりに寄りかかった。
夜の森は静まり返り、見上げれば、こぼれ落ちそうなほどの満天の星空が広がっていた。
「……みなさん」
フェリアが声をかけると、騒がしかった常連たちはピタリと動きを止め、彼女に静かな視線を向けた。
フェリアは、自分の命を救い、心にかけられていた呪いを解いてくれた、大好きな人たちの顔を一人一人見つめた。
「私、ずっと……歌うことが怖かったです。自分の声が、自分を苦しめる鎖だと思っていました」
彼女は胸元で両手を組み、ふわりと、花が咲くように微笑んだ。
「でも、シズルさんが教えてくれました。声は、自分のためにあるんだって。……だから、今夜は、私の一番大切な人たちのために、私の意思で歌います」
フェリアは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして、紡ぎ出されたのは、王都の劇場で歌っていたような、誰かを圧倒するための技巧に満ちた歌ではない。
この世界の美しさと、出会えた人々への感謝、そして、明日を生きる希望を綴った、温かく優しい民謡だった。
『ルル、ララ……夜の森に星が降りて、優しいあなたの声がする……♪』
透き通るようなソプラノの歌声が、夜空に溶けていく。
それは、魔法よりも深く、薬よりも確かに、人々の心を癒やす奇跡の響きだった。
ティセがうっとりと目を閉じ、ヴァルガが静かに酒杯を傾ける。
エリノーラは涙ぐみ、ローウェンはハンカチで目頭を押さえ、ガストンは腕を組んで天を仰ぐ。
シズルは、椅子に深く腰掛け、満ち足りた笑顔でフェリアの歌声に身を委ねていた。
(……ああ。私、生きていて良かった)
歌いながら、フェリアは心からそう思った。
もう、何万人の歓声はいらない。
この小さな山小屋で、私の歌を笑顔で聴いてくれるこの人たちがいるだけで、私の人生は完璧なのだから。
こうして、王都から失踪した『至宝の歌姫』は、魔の森の山小屋の『秘密の歌姫』へと見事な転身を遂げた。
彼女はその後、ランズベリーの街の小さな酒場や孤児院で、身分を隠して素朴な歌を披露しながら生活費を稼ぎ、週末になれば真っ先にこの山小屋へ帰ってくる『常連(家族)』の一人として、穏やかなスローライフの輪に加わることとなったのである。




