第4話:戻ってきた声と、自分のためのハミング
さらに数日が過ぎた、ある夕暮れ時のこと。
「ふう……。今日もよく働いたわ」
シズルがエプロンを外し、新設された広々としたウッドデッキのチェアに腰を下ろした。
夕焼けが魔の森の木々を茜色に染め、ひぐらしに似た虫の音が心地よく響いている。
フェリアも、シズルに勧められるまま隣のチェアに座り、温かいハーブティーの入ったマグカップを両手で包み込んでいた。
「フェリアさんも、お疲れ様。最近、薬草の扱いがすっごく上手になったって、ティセちゃんが褒めてたわよ」
「……(フルフル、と照れたように首を横に振る)」
「ふふっ。そんなに謙遜しなくていいのよ。あなた、すごく真面目で丁寧だから、私も助かってるの」
シズルはそう言って、フェリアの頭をポンポンと優しく撫でた。
その温かい手に触れられるたび、フェリアは心が満たされていくのを感じる。
(……そろそろ、伝えなきゃいけないのかな)
フェリアは、マグカップを見つめながら内心で葛藤していた。
実は昨日から、喉の奥のつっかえが完全に取れ、声が出そうな感覚があったのだ。
物理的な治療はとうに終わっている。あとは自分が声を発する勇気を持つだけ。
だが、怖いのだ。
もし「声が出るようになりました」と伝えれば、シズルたちは「良かったわね、じゃあ王都に帰ってまた歌えるわね」と言うのではないか。
この温かい、特別扱いされない幸せな日常が終わってしまうのではないか。
そう思うと、どうしても声の出し方を忘れたふりをして、ずっとこの場所で『可哀想な患者のフェリア』として甘えていたかった。
そんなフェリアの内心を見透かしたように、シズルがぽつりと呟いた。
「フェリアさん。……喉、もうすっかり痛くないでしょう?」
ビクンッ、とフェリアの肩が跳ねた。
マグカップを持つ手が震え、波立つ水面に茜色の空が映る。
(バレて、いる……? 嘘をついていたこと、怒られる……っ!)
フェリアが慌てて顔を上げ、弁解のジェスチャーをしようとしたその時。
「無理に声を出さなくていいって言ったのは、本当よ。……でもね」
シズルは、茜色に染まる空を見上げたまま、どこまでも穏やかな声で続けた。
「声が出たからって、必ずしも『誰かのため』に言葉を紡いだり、歌ったりしなきゃいけないわけじゃないの。……嫌な奴には愛想笑いもしなくていいし、歌いたくない時は、一生黙ってたっていいのよ」
「……え?」
思わず、フェリアの口から掠れた小さな声が漏れた。
シズルは振り返り、フェリアの目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは今まで、ずっと『誰かの期待』や『お金』のために声を使ってきたんでしょう? だから、声を出すのが怖くなっちゃったのよ。……でもね、声っていうのは本来、自分のためにあるものなの」
シズルの手が、フェリアの頬を優しく包む。
「美味しいものを食べた時に『美味しい』って言うため。
綺麗な夕焼けを見た時に『綺麗』って呟くため。
……あなたが自分のために声を出すことを、誰も奪ったり、強制したりなんてできないのよ」
自分のために、声を出す。
その言葉が、フェリアの胸の奥深くにストンと落ちた。
王都の劇場で、満員の観客を前に歌っていた時。彼女は常に「間違えてはいけない」「もっと美しく響かせなければ」というプレッシャーに押し潰されていた。
歌うことは苦行であり、自分の価値を証明するためのただの手段だった。
だが、本当は?
孤児院で、まだ何も持っていなかった小さな頃。
見よう見まねで覚えた子守唄を口ずさんだ時、ただそれだけで、心がぽかぽかと温かくなったあの感覚。
歌うことは本来、もっと自由で、もっと楽しいものだったはずだ。
「……ぁ……」
フェリアの唇が、震えながら開いた。
喉の奥の、固く閉ざされていた鍵が、シズルの無条件の肯定によってカチャリと音を立てて外れる。
「……あ、りが、とう……」
それは、かすれ声ではない。
まだ少し弱々しいが、彼女本来の、透き通るような美しいソプラノの響きを持った『本当の声』だった。
「……シズル、さん……。わたし……」
「ふふ、綺麗な声ね。……でも、無理して喋らなくていいのよ。ほら、夕焼けがとっても綺麗でしょう?」
シズルはそれ以上何も聞かず、ただ一緒に並んで、沈みゆく夕日を見つめた。
フェリアも、マグカップを置き、シズルの隣で茜色の空を見上げた。
言葉にする必要はない。
誰かに届ける必要もない。
ただ、この胸の奥にある温かい感情と、この世界の美しさを、自分自身で確かめるために。
フェリアは、小さく口ずさんだ。
それは、王都の劇場で歌わされていたような、技巧を凝らした難解なオペラではない。
遠い昔、孤児院の片隅で、一人ぼっちの夜に自分を慰めるために歌っていた、名もなき素朴な子守唄。
『ふ、ふふ、ふーん……ふふふ、ふーん……♪』
小さな、小さなハミングだった。
だが、その音色は、まさに神に祝福された本物の『歌姫』のそれだった。
風に乗り、森の木々を震わせるような、圧倒的な透明感と深い感情を伴った響き。
悲しみも、絶望も、そしてこの場所で見つけた温かな希望も、すべてがその旋律に溶け込んでいた。
「……っ!」
夕食の準備で庭に出てきたティセが、そのハミングを聞いて立ち止まり、ポロポロと涙を流した。
遠くで作業をしていたガストンも、鉋を持った手を止め、静かに目を閉じて聞き入った。
誰一人として、拍手はしない。歓声も上げない。
ただ、彼女が自分のためだけに紡ぐ小さな歌声を、森の静寂とともに優しく見守っていた。
フェリアの目から、ひとすじの涙が頬を伝い落ちた。
だが、彼女の顔には、これまでの人生で最も美しく、晴れやかな笑顔が咲いていた。
自分の声が、また自分のもとに帰ってきた。
そして、この世界には、自分の歌声を「商品」としてではなく、ただの「フェリアのハミング」として聞いてくれる人たちがいる。
声枯れの歌姫は、この辺境の山小屋のウッドデッキで、ついに本当の『歌う喜び』を取り戻したのだった。




