第3話:警戒心と、心ほどける温かいスープ
コトリ、とサイドテーブルに木製のトレイが置かれた。
ふわりと湯気を立てているのは、たっぷりの野菜と厚切りのベーコンが入った琥珀色のスープと、ふっくらと焼き上がった黒パンだ。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。少し起き上がれるかしら?」
シズルが背中にクッションを当ててやると、ヴァルガは戸惑いながらも上体を起こした。
目の前にあるのは、どう見てもただの温かい食事だ。毒が入っているような気配もない。
だが、長年染み付いた傭兵の勘が、ヴァルガに警鐘を鳴らし続けていた。
(おかしい。ただの薬草で腕が繋がるわけがない。それに、どこの馬の骨とも知れない血まみれの男を、こんな無防備に介抱する女がいるか……?)
裏があるはずだ。莫大な治療費を請求されるのか、それとも何か厄介な依頼を押し付けられるのか。
ヴァルガはトレイには手を伸ばさず、探るような鋭い視線をシズルに向けた。
「……あんた、目的は何だ?」
「目的?」
「俺は金で動く傭兵だ。命を助けてもらった義理はあるが、あんたのその高度な治癒魔法に見合うような金は持ってないぞ。何をさせようって腹だ」
低い、ドスを効かせた声。並の人間なら怯えて後ずさるような凄みがあった。
しかし、シズルは呆れたように小さく溜息をついただけで、まるで言うことを聞かない子供を見るような目をヴァルガに向けた。
「あのね。治癒魔法なんて高尚なものは使えないわ。ただの庭の草よ。それに……あなた、顔色が酷いわよ。目の下には酷いクマができてるし、頬もコケてる。何日まともに寝てないの?」
「な……」
予想外の言葉に、ヴァルガは毒気を抜かれたように口を開けた。
「そういう『休むことを忘れたような顔』の人を見ると、昔の自分を思い出して放っておけないのよ。……ただの自己満足だから、見返りなんて求めてないわ」
シズルは少しだけ遠い目をして、それから「ほら、冷めるわよ」とスープの器を促した。
(休むことを忘れたような顔、か……)
言われてみれば、ここ数ヶ月、依頼から依頼への連続で、まともにブーツを脱いで眠った記憶すらない。
ヴァルガは観念したように息を吐くと、スプーンを手に取り、スープを一口口に運んだ。
「……っ」
驚いた。
特別に高級な食材が使われているわけではない。ただの塩とハーブの素朴な味付けだ。だが、野菜の甘みと肉の旨味が溶け込んだその温かな液体は、信じられないほど美味しかった。
じんわりと胃の腑に染み渡るような滋味が、強張っていた筋肉を内側から優しく解きほぐしていく。
無言のまま、二口、三口と休むことなく匙を動かしてしまう。
硬い黒パンをスープに浸して頬張ると、噛むほどに小麦の甘みが広がった。美味い。本当に美味い。戦場での冷え切った干し肉ばかりの生活では、決して味わえない温かさだった。
ふと視線を上げると、シズルが頬杖をつきながら、優しげな目を細めてヴァルガの食べっぷりを見守っていた。
窓からの光を受けた艶やかな黒髪と、穏やかな微笑み。
その姿は、荒みきったヴァルガの心に、ゆっくりと、しかし確実に染み込んでいく。
「あ、ゆっくりでいいのよ? お鍋にはまだたくさんあるから、おかわりもする?」
「……頼む」
空になった器を差し出すと、シズルは「ふふっ」と嬉しそうに笑って立ち上がった。
部屋の隅には自分の剣が立てかけられていたが、それを手元に引き寄せようという警戒心は、いつの間にかヴァルガの中から綺麗に消え去っていた。




