第2話:欠損した腕と、ただの擦り傷
「ん……」
重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
最初に感じたのは、背中をすっぽりと包み込むような、ふかふかの感触だった。いつも寝床にしている硬い土の地面や、安宿のカビ臭い藁布団とはまるで違う。
次に鼻をくすぐったのは、コトコトと何かを煮込むような、食欲をそそる温かい匂いだった。
(……俺は、生きてるのか?)
ぼんやりとした頭で周囲を見渡す。
そこは、こぢんまりとした丸太小屋の中だった。陽の光が差し込む窓辺。暖炉では薪がパチパチと心地よい音を立てて燃えている。
そして記憶が蘇った。手強い魔物。引き裂かれた右腕。薄暗い森の奥。甘い匂い。
「腕っ……!」
弾かれたように上体を起こし、慌てて自分の右肩を見る。
あの時、確かに肉はえぐれ、骨が見えるほどに裂けていたはずだ。痛みで気を失うほどの重傷だった。
だが――。
「あれ……?」
右腕は、しっかりとそこにあった。
真新しい清潔な布が巻かれているが、痛みは全くない。恐る恐る指先を動かしてみるが、以前と何一つ変わらず、あまりにもスムーズに動く。
布の隙間から、若草色の軟膏のようなものが塗られているのが見えた。すこしだけスーッとする、清涼感のあるハーブの匂いがする。
「あ、起きたのね。急に起き上がっちゃ駄目よ、まだ貧血気味なんだから」
ふいに声がして、部屋の奥から一人の女性が歩いてきた。
昨夜、薄れゆく意識の中で見たあの黒髪の美女だった。ゆったりとした麻のワンピースの上に、シンプルなエプロンを着けている。
その手には、湯気の立つ木製のマグカップが握られていた。
「あんたが、俺を……? いや、この腕はどうなってる。確かに千切れかけていたはずだ……」
混乱するヴァルガに、女性――シズルはきょとんとした顔をした。
「千切れかけ? やだなぁ、大げさね。ただの酷い擦り傷だったわよ」
「擦り傷……!?」
「ええ。とりあえず裏庭で育ててる薬草をすり潰して塗っておいたから、もう塞がってると思うけど。それより血をたくさん流してたから、そっちの方が心配だったのよ」
シズルはベッドのそばに丸椅子を引き寄せ、コトリと座った。
間近で見ると、その肌は陶器のように白く、黒曜石のような瞳はどこまでも穏やかだった。酸いも甘いも噛み分けてきた凄腕の傭兵が、思わず気圧されてドギマギしてしまうほどの、大人の余裕と色香がある。
(ただの薬草を塗っただけで、欠損しかけた腕が治るわけがない……! この女、一体何者だ?)
ヴァルガは傭兵としての警戒心を跳ね上げようとした。
相手は魔の森の奥に一人で住む女。もしかしたら恐ろしい魔女で、幻術でも見せられているのかもしれない。
だが、シズルから発せられる空気はあまりにも無防備で、そして限りなく温かかった。
「ほら、お水。少し飲める?」
差し出されたマグカップを、ヴァルガは治ったばかりの右手で受け取る。
一口飲むと、ほんのりと甘みがつけられた白湯だった。血を失って乾ききった喉と胃の腑に、じんわりと温かさが染み渡っていく。
それは、戦場という地獄でずっと張り詰めていたヴァルガの警戒心を、根こそぎ溶かしてしまうような優しさだった。
「……美味い」
ポツリと漏らしたヴァルガに、シズルはふわりと微笑んだ。
「よかった。お腹、空いてるでしょう? もう少ししたらスープが煮えるから、ゆっくり休んでてね」
前世で、心がすり減るまでブラック企業で働かされた経験を持つシズル。
彼女にとって、ボロボロになって倒れるほど「無理をしてしまった」人間を見るのは、前世の自分を見ているようで、どうしても放っておけないことだったのだ。
当のヴァルガは、完治した腕の異常性よりも、目の前の女性が放つひだまりのような居心地の良さに、ただただ呑まれるしかなかった。
グゥゥゥゥ……。
静かな部屋に、ヴァルガの腹の虫が盛大に鳴り響いた。
「ふふっ」
「……っ、すまん」
顔を赤くして視線を逸らす屈強な男を見て、シズルはくすくすと上品に笑うのだった。




