第1章:凄腕の傭兵は、黒髪の魔女の膝で微睡む第1話:死に損ないの傭兵と、森の奥の甘い匂い
生臭い血の匂いが、鼻腔にへばりついて離れない。
「……っ、はぁ、はぁ……」
魔の森と呼ばれる鬱蒼とした樹海の中を、傭兵のヴァルガは泥を這うようにして進んでいた。
歴戦の傭兵として名を馳せた彼だが、今の姿にその面影はない。右腕は肩口から深々と抉られ、辛うじて皮一枚で繋がっているような状態だった。
討伐依頼のターゲットだった『赤斑の暴猿』は想定以上に手強く、相打ち覚悟の一撃でなんとか仕留めたものの、代償はあまりにも大きかった。
(……ここまで、か)
薄れゆく意識の中で、ヴァルガは自嘲気味に笑った。
来る日も来る日も、金のために剣を振り回し、泥水と血をすするような毎日。
ただ依頼をこなし、すり減っていくだけの人生だった。
誰かに看取られることもなく、こんな名もなき森の奥で野垂れ死ぬ。それが傭兵という稼業の、ひどくありふれた末路だ。
膝が折れ、冷たい腐葉土の上に倒れ込む。
傷口から流れ出る血の温かさすら感じなくなり、視界の端から徐々に黒く塗りつぶされていく。
最期の瞬間に思い出すのが、安い酒の味と血の匂いだけだなんて、我ながらどうしようもない人生だったな。
そうやって静かに目を閉じようとした、その時だった。
――ふわりと、風が甘い匂いを運んできた。
「……?」
それは、この物騒な森には絶対に似合わない匂いだった。
日向で干したような清潔な布の匂いと、鼻の奥をくすぐる温かいスープ、そして心を落ち着かせるハーブの香り。
ヴァルガは最後の力を振り絞り、這いずるようにして匂いのする方角へ顔を向けた。
木々の隙間から、ぽつんと小さな灯りが漏れているのが見えた。
山奥には不釣り合いな、こぢんまりとした木造の一軒家。
煙突からは細く煙が立ち上り、窓からは暖色のランプの光がこぼれている。
(幻覚か……? それとも、死神のお迎えかよ)
どうせ死ぬなら、せめてあの暖かな光のそばで死にたい。
そんなすがりつくような思いで、ヴァルガは地面を這い、ようやくその家のドアへと辿り着いた。
ガンッ、と血塗れの左手でドアを叩く。
「……たの、む……」
声はほとんど出ていなかった。
力尽きたヴァルガの巨体が、崩れ落ちるようにドアにもたれかかる。
もう限界だった。指先一つ動かせない。今度こそ、本当に意識が闇に沈んでいく。
ギィィ……と、古い蝶番が軋む音と共に、ゆっくりとドアが開いた。
「あら」
鼓膜を撫でるような、ひどく落ち着いた女の声が聞こえた。
薄れる視界の中で、ヴァルガは見上げた。
そこに立っていたのは、幻かと思うほどの美女だった。
夜の闇を溶かしたような、艶やかな黒髪と黒い瞳。
ゆったりとした麻のワンピースを着ているのに、その下に隠された豊かな起伏――男の目を惹きつけてやまない抜群のプロポーションがはっきりとわかる。
血まみれの屈強な男が倒れているというのに、彼女は悲鳴を上げることも、怯えることもなかった。
ただ、少しだけ困ったように細い眉を下げている。
「ずいぶんと派手にやられたわね。……痛かったでしょう」
女がしゃがみ込み、ヴァルガの泥と血にまみれた頬に、そっと手を添えた。
ひんやりとして、とても柔らかい手だった。
同時に、あの心を溶かすような甘く優しい匂いが、ふわりとヴァルガを包み込む。
(あぁ……なんだか、すごく……)
ひどく、安心する。
張り詰めていた人生の糸が、ふっと緩んでいくのがわかった。
「もう大丈夫よ。ゆっくり眠りなさい」
子守唄のようなその声を最後に、ヴァルガの意識は、冷たい死の淵から温かい微睡みの中へと引き上げられるようにして暗転した。




