第2話:沈黙の朝と、無価値な自分への許し
小鳥のさえずりと、窓から差し込む陽光の温かさで、フェリアはゆっくりと目を覚ました。
「……」
見慣れない木の天井。ふかふかのシーツ。
そして、首の周りに巻かれた、ほんのりと温かい柔らかな布の感触。
フェリアはぼんやりとした頭で、昨夜の出来事を思い返していた。
王都から逃げ出し、絶望の中で森を彷徨い、行き倒れたこと。
美しく穏やかな黒髪の女性に助けられ、甘くて温かい『特製の蜂蜜大根シロップ』を飲ませてもらったこと。
そして、「息をしているだけでいい」という言葉に、これまで張り詰めていた心の糸が完全に切れ、子供のように泣きじゃくってしまったこと。
「あ……」
声を出そうとして、フェリアはハッとして自分の口元を手で覆った。
(……痛くない)
昨日まで、ただ呼吸をするだけでヤスリで削られているようだった喉の奥。それが、今は嘘のように滑らかだった。
恐る恐る唾を飲み込んでみても、血の味も、火を噴くような痛みも全くない。シズルが飲ませてくれたあの黄金色のシロップが、たった一晩で、限界まで傷ついていた声帯の炎症を完全に治してしまったのだ。
だが。
痛みが消えたからといって、すぐに声が出るわけではなかった。
声帯という「楽器」の物理的な損傷は修復されても、フェリアの心に深く刻み込まれた『歌うことへの恐怖』と『舞台のトラウマ』が、喉の奥を固く閉ざしていたのだ。
(……私は、どうすればいいんだろう)
フェリアはベッドの上で身を縮め、膝を抱えた。
声が出ない。歌えない。
平民の孤児だった彼女にとって、歌声だけが自分の存在価値だった。その唯一の価値を失った今、自分がこの温かいベッドで寝かされている理由がわからなかった。
(早く起きて、何か手伝わなきゃ……。何の役にも立たないのに、タダでご飯を食べさせてもらうなんて、そんなこと許されるわけがない……っ)
王都の劇場で、興行主から毎日のように浴びせられていた罵声が脳裏に蘇る。
『お前は歌うための道具だ』『役に立たないなら飯を食う資格はない』。
その呪いの言葉に突き動かされるように、フェリアは慌ててベッドから這い出した。
シズルに借りたゆったりとしたワンピースの裾を引きずりながら、フラフラとした足取りでリビングへと向かう。
◆
リビングからは、食欲をそそる温かいスープの匂いと、楽しげな話し声が聞こえてきた。
「お姉さん! お野菜のカット、全部終わりました!」
「ありがとうティセちゃん。じゃあ、次はお鍋のお水が沸騰するまで見張っててくれる?」
「はいっ!」
キッチンでは、シズルと、紫色の右目を持つ少女・ティセが、朝食の準備をしていた。
陽だまりのように温かい、家族の風景。
フェリアはその光景の眩しさに一瞬目を細めたが、すぐに我に返り、慌ててシズルの傍へと駆け寄った。
「あ、フェリアさん。おはよう。よく眠れた?」
シズルが振り返り、ふわりと微笑みかける。
フェリアはコクコクと何度も頷き、そして、キッチンの布巾を指差し、身振り手振りで必死に伝えようとした。
『私に、掃除をやらせてください。お皿洗いでも、なんでもします。だから、ここに置いてください』と。
声が出ない分、その必死なジェスチャーは、まるで捨てられるのを恐れる小動物のように痛々しかった。
しかし、シズルは布巾を取ろうとするフェリアの手を、そっと優しく包み込んだ。
「駄目よ」
シズルの声は、柔らかいが、絶対に反論を許さない大人の威厳があった。
「あなたは今、絶対に安静にしなきゃいけない『患者さん』なの。患者さんが無理して働こうとするなんて、私が許しません」
「……っ!」
フェリアは首を横に振った。
働かなければ、自分には価値がない。捨てられてしまう。
その強迫観念で涙目になるフェリアの心を、シズルは完全に見透かしていた。
「あのね、フェリアさん。この家には『役に立たなきゃいけない』なんていうルールはないの。あなたはただの『お客さん』なんだから、お客様らしく、大人しくソファーに座って、私が作る美味しい朝ご飯を待っていればいいのよ」
「あ……」
「もしどうしても暇で落ち着かないなら……そうね。あっちのウッドデッキに座って、森の空気を吸いながら、ぼーっとしてきなさい。それが今日のあなたの『お仕事』よ」
シズルはフェリアの背中を押し、半ば強引にリビングから新設されたウッドデッキ(大工のガストン渾身の作)へと追いやった。
そこには、座り心地の良い木製のリクライニングチェアが置かれていた。
(ぼーっとするのが、お仕事……?)
フェリアは戸惑いながらも、シズルに言われるがままチェアに腰を下ろした。
王都の過密なスケジュールの中で「何もしない時間」など、ここ数年、一秒たりとも与えられたことはなかった。
常に次の公演の台本を暗記し、喉のケアをし、貴族への挨拶回りの手順を頭に叩き込む。頭の中は常にパンク寸前で、心休まる暇はなかった。
だから、こうして森の静寂の中で、ただ風に吹かれて座っているだけの状況が、フェリアにはひどく落ち着かなく、そして……恐ろしくもあった。
(静かだ……。誰も、私を呼んでくれない。拍手も、歓声もない……)
それは、彼女が「誰からも必要とされなくなった」ことを意味しているようで、孤独感が胸を締め付けた。
――その時だった。
「おーい! 嬢ちゃん、ティセの嬢ちゃん! 街から物資をたっぷり運んできたぜ!」
「ガッハッハ! 俺も丸々と太った野鳥を仕留めてきたぞ! 今日の朝飯はこいつの丸焼きで決まりだな!」
「シズル殿! 今日は非番だから、朝から手伝いに来たぞ!」
ドカドカッ! と、静寂の森を引き裂くような騒々しい足音と大声が響き渡った。
フェリアがビクッとして振り返ると、山小屋の庭先に、三人の異様な人物が現れていた。
一人は、荷馬車いっぱいの木箱を引いた、眼鏡をかけた若き大商会長。
一人は、巨大な野鳥を肩に担いだ、凶悪な面構えの凄腕傭兵。
もう一人は、白銀の鎧をチャキリと鳴らす、生真面目そうな女騎士。
(な、なに……!? なんでこんな辺境の山小屋に、あんな身なりの人たちが……?)
フェリアは恐怖で身体を縮こまらせた。
王都での経験上、権力を持った商人や騎士というのは、平民を虫ケラのように扱い、搾取する存在だったからだ。
「みんな、おはよう。朝から元気ねぇ」
だが、シズルはエプロン姿のまま縁側に出てくると、そんな物騒な三人を前にしても、全く動じることなくのほほんと微笑んだ。
「ローウェンさん、いつも買い出しありがとうね。ヴァルガさんもお肉助かるわ。エリノーラちゃんは非番なら、中でゆっくりお茶でも飲んでて」
「ははっ! シズル様の仰せのままに!」
「おう! 鳥の羽根むしりは俺がやっとくから、嬢ちゃんは座っててくれ!」
「シ、シズル殿に淹れてもらうお茶……至福の極みだ……!」
フェリアの目は点になった。
この国でそれなりの地位と力を持っているであろう三人の実力者が、ただの若い女性であるシズルの前で、まるで尻尾を振る犬のようにデレデレになり、自ら進んで雑用をこなそうとしているのだ。
(どういうこと……? このシズルって人は、もしかして王族の隠し子か何かなの……?)
混乱するフェリア。
その時、荷物を運び込もうとしていた商人のローウェンが、ウッドデッキの端で小さくなっているフェリアの存在に気がついた。
「ん? シズル様、そちらのお客様は……?」
「あぁ、昨日森で行き倒れてたのよ。喉を痛めてて声が出ないみたいだから、今は絶対安静の患者さんね」
ローウェンは眼鏡の位置をくいっと直し、フェリアの顔をじっと見つめた。
そして、次の瞬間、商人としての記憶の糸が繋がり、バチッと目を大きく見開いた。
「なっ……!? あ、あなたは……王都の劇場の、最高位の歌姫『フェリア』殿ではありませんか!?」
ローウェンの大声に、フェリアはビクンッ! と肩を跳ねさせ、顔を青ざめさせた。
(バレた……! 逃げ出したこと、怒られる。また、あの劇場に連れ戻されて、声が出ないのに舞台に立たされる……っ!)
恐怖でガタガタと震え出すフェリア。
一方のローウェンは、商人としての本能が爆発し、興奮気味に捲し立て始めた。
「なんと! なぜ王都の至宝がこんな辺境に!? ……いや、これは千載一遇のチャンスだ! もし彼女の喉をシズル様のお薬で治し、我がローウェン商会が専属契約を結べば、莫大な利益が……っ! シズル様! 彼女に特別製の薬湯を――」
――ペチンッ。
ローウェンの言葉は、彼のおでこにクリーンヒットしたシズルの中指によって、物理的に遮られた。
「いったぁっ!?」
「ローウェンさん。あなた、また悪い商人のお顔になってるわよ」
ローウェンが見上げると、そこには、完璧な笑顔のまま、しかし目だけは全く笑っていないシズルが立っていた。
背後に、般若か夜叉のような凄まじいオーラ(※前世でブラック上司を物理的に黙らせてきた社畜の覇気)が渦巻いている。
「あ、あの、シズル様……?」
「この子は今、絶対に休養が必要な患者さんなの。私の家で、私の患者さんに、薄汚い金儲けの話を持ちかける気? ……もしこの子に少しでも無理をさせようとしたら、明日からあなたのご飯、一生抜きにするわよ」
「ひぃっ!! 申し訳ございません!! 出来心でした!! どうか、どうかシズル様特製のスープだけはお許しを!!」
若き大商会長は、その場に土下座をして平謝りした。
その光景を見て、フェリアは再び呆然とした。
王都では、商会や興行主の命令は絶対だった。彼らの意に沿わなければ、どんなに人気のある歌姫でも容赦なく切り捨てられた。
しかし、この山小屋では、その力関係が完全に逆転している。
いや、逆転しているのではない。シズルという女性の放つ『絶対的な無償の優しさと、それを守るための強さ』の前に、どんな権力も金も、全く意味を成さないのだ。
「ごめんなさいね、フェリアさん。この人、根はいい人なんだけど、すぐ利益の計算しちゃう悪い癖があるのよ」
ローウェンを土下座させたまま、シズルはフェリアの傍に戻り、ふわりと微笑んだ。
「でも、安心して。ここは私の家だから。誰もあなたに無理やり歌わせたりしないし、誰かに売り飛ばしたりもしない。……あなたが、自分の意思で『歌いたい』って思える日が来るまで、ずっとここで休んでいればいいの」
その言葉は、フェリアの心に何重にも巻かれていた呪いの鎖を、いとも簡単に断ち切ってしまった。
(あぁ……。私、本当に……歌わなくても、ここにいていいんだ)
王都での華やかな生活。数万人の歓声。降り注ぐ花束。
それらすべてを失った今。
目の前にあるのは、土下座する商人、鳥の羽根をむしる傭兵、お茶をすする女騎士、そして、自分を無条件で肯定してくれる美しい女性。
なんて馬鹿馬鹿しくて、騒がしくて、温かい場所だろう。
フェリアの目から、再びポロリと涙がこぼれ落ちた。
だが、それは昨夜の絶望の涙とは違う。張り詰めていた心が完全に溶け出し、重圧から解放された、心からの安堵の涙だった。
「さ、朝ご飯ができたわよ。今日はみんなで、ウッドデッキで食べましょうか」
シズルの声に、フェリアは初めて、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、小さく、けれど確かな笑顔を浮かべて頷いた。
森の静寂は、もう恐ろしくなかった。
それはフェリアにとって、自分




