第6章:声枯れの歌姫は、蜂蜜大根のシロップで甘やかされる 第1話:失われた声と、静寂の森
ヒュー、と。
木枯らしめいた冷たい山風が吹き抜けるたび、喉の奥をヤスリで削り取られるような鋭い痛みが走った。
「……っ、う……、く……っ」
王都から遠く離れた辺境の街ランズベリー。さらにその奥地にある『魔の森』の獣道を、ひとりの女性がふらふらとした足取りで歩いていた。
年齢は二十代半ばほど。身に纏っているのは、かつては上等な絹であっただろうボロボロのドレスと、顔を隠すための薄汚れた灰色の外套だけだった。
彼女の名前は、フェリア。
ほんの数週間前まで、この国の王都でその名を知らぬ者はいないと謳われた、絶大な人気を誇る『歌姫』であった。
神から与えられたと称賛された、透き通るようなソプラノの歌声。
彼女が舞台に立ち、一度歌い始めれば、どんなに荒くれ者の傭兵も涙を流し、気位の高い貴族たちでさえも熱狂の渦に巻き込まれた。
貧しい平民の出であったフェリアは、その『声』というたった一つの才能だけで、煌びやかな王都の頂点へと駆け上がったのだ。
だが、それは同時に、彼女にとって逃げ場のない地獄の始まりでもあった。
『フェリア、次の公演は三日後だ。その次は隣国の王族の生誕祭、絶対に失敗は許されないぞ』
『休みたい? 馬鹿なことを言うな。お前の代わりなどいくらでもいるんだ。このチケットの売り上げが見えないのか? お前はただ、舞台の上で声を出していればいいんだよ』
『あんな貧民街出身の小娘が調子に乗って。……いつか必ず引き摺り下ろしてやるわ』
パトロンである貴族たちからの理不尽な要求。
利益しか頭にない興行主からの過密なスケジュール。
そして、彼女の座を虎視眈々と狙う他の歌い手たちからの、陰湿な嫉妬と嫌がらせ。
フェリアは、休むことを許されなかった。
少しでも風邪を引けば、強い薬を無理やり飲まされて舞台に立たされた。声帯が悲鳴を上げ、喉から血の味がしても、「笑顔で歌え」と鞭打たれ続けた。
彼女の心はとっくに限界を迎えていたが、それでも歌うしかなかった。なぜなら、フェリアから『歌声』を奪ってしまえば、ただの無価値な平民の小娘に戻ってしまうからだ。
「自分には、歌しかない」「歌えなくなれば、誰からも必要とされなくなる」。
その強迫観念だけが、彼女を無理やり舞台に立たせ続けていた。
しかし、人間の肉体は、精神の気合だけで無限に動く魔法の道具ではない。
ある日、王立劇場の最も重要な公演の最中。
フェリアの喉から、突然、プツリと音が切れた。
『……っ、あ……?』
声が、出なかった。
どれだけ腹に力を入れ、息を吐き出しても、喉の奥から空気が漏れるような掠れた音しか出ない。
客席を埋め尽くした貴族たちの、期待に満ちた笑顔が、一瞬にして冷ややかな失望と嘲笑へと変わっていくのを、フェリアは舞台の上で絶望とともに見つめていた。
『声が出ない歌姫なんて、ただのゴミだ』
興行主からそう吐き捨てられ、劇場の裏口から放り出された夜。
フェリアは、これまで自分が稼いだはずの金も、華やかな衣装も、すべてを奪われた。残されたのは、血を吐くような痛みを発する壊れた喉と、完全に燃え尽きた空っぽの心だけだった。
(……私には、もう何の価値もない。生きている意味なんて、どこにもない)
裏社会の借金取りや、彼女を慰み者にしようとする悪徳貴族の手から逃れるようにして、フェリアは荷馬車に隠れ、王都から最も遠いこの辺境の地まで逃げてきた。
そして、死に場所を求めるように、魔物が棲むというこの森へと足を踏み入れたのだ。
「……あ、ぁ……っ」
掠れた、風の音のような声しか出ない。
喉の奥は、常に火を噴いているように熱く、そして痛かった。唾を飲み込むことすら激痛を伴う。
(痛い……。苦しい……。もう、嫌だ……)
倒木に足を取られ、フェリアは冷たい腐葉土の上に派手に転び込んだ。
立ち上がる気力もない。ドレスの裾が泥に塗れ、顔を覆っていた外套のフードが外れて、手入れもされずパサパサになった金色の髪が散らばる。
冷たい土の匂いを嗅ぎながら、フェリアはゆっくりと目を閉じた。
このまま森の魔物に食われてしまえばいい。誰からも必要とされないポンコツの道具は、誰にも見つからない場所で静かに消えてなくなるべきなのだから。
そうして、自らの命を手放そうとした、その時だった。
「お姉さん! あそこ、誰か倒れてます!」
鈴を転がすような、幼く可愛らしい少女の声が、静寂の森に響いた。
(……幻聴……?)
フェリアが薄く目を開けると、木々の向こうから、紫色の不思議な右目を持った少女と、籠を抱えた大人の女性が駆け寄ってくるのが見えた。
「本当ね。……あなた、大丈夫!? 怪我はない?」
しゃがみ込み、フェリアの身体をそっと抱き起こしたのは、艶やかな黒髪を持った、驚くほど美しい女性だった。
彼女からは、高級な香水などではない、陽だまりで干したリネンのような、温かく清潔な匂いがした。
(あぁ……綺麗な人……)
フェリアはぼんやりとした頭でそう思った。
シズルの黒曜石のような深い瞳には、行き倒れの汚い女に対する嫌悪感など微塵もなく、ただ純粋な心配と慈愛だけが浮かんでいた。
「ひどい熱。それに、顔色が真っ青よ。ティセちゃん、ヴァルガさんが置いていってくれた毛布を取ってきて」
「はいっ!」
シズルはフェリアの冷え切った手を握り、優しくさすった。
(やめて……優しくしないで……っ)
フェリアは、首を横に振ろうとした。
自分はもう、歌えないのだ。歌えない自分には、誰かに優しくしてもらう価値なんて一滴も残っていない。期待に応えられないのだから、助けられても迷惑をかけるだけだ。
「あ……、が……っ、ごめ……っ」
『ごめんなさい、私を置いていって』。
そう言おうとして口を開いた瞬間、フェリアの喉の奥で、再びバチリと神経がショートするような激痛が走った。
「ヒュッ……! ゲホッ、ゴホッ!!」
無理に声帯を震わせたせいで、フェリアは激しく咳き込み、口の端からツツーッと一筋の赤い血を流した。
声帯の炎症が極限に達し、ついには出血を引き起こしてしまったのだ。
痛みに顔を歪め、喉を押さえてうずくまるフェリア。
(あぁ、まただ。声を出そうとするたびに、こんな無様な……っ)
フェリアの目から、絶望と屈辱の涙がボロボロと溢れ出した。
声が出ない。謝ることもできない。自分の惨めな状況を説明することもできない。
ただ泣いて咳き込むだけの、本当に何の役にも立たない壊れた道具。
きっとこの美しい女性も、こんな血を吐くような気味の悪い女を見たら、見捨てて立ち去るに違いない。
フェリアはギュッと目を閉じ、身体を丸めた。
だが。
「……無理して声を出さなくていいのよ」
シズルの声は、フェリアの予想に反して、どこまでも静かで、そして限りなく優しかった。
「今は何も言わなくていい。謝らなくてもいい。……あなたはただ、息をしているだけでいいのよ」
そっと。
シズルのひんやりとした柔らかな手が、フェリアの涙に濡れた頬を包み込んだ。
その手から伝わってくる、圧倒的な大人の包容力。
『何かをしなければ価値がない』という、フェリアを縛り付け、殺しかけていた呪いの鎖を、その一言があっさりと解きほぐしていく。
(息をしているだけで、いい……?)
そんなこと、生まれてから一度も言われたことがなかった。
歌えなければ生きる価値がないと、自分自身にすら言い聞かせてきたのに。
目の前のこの人は、ただ倒れているだけの無価値な自分を、無条件で受け入れようとしてくれている。
「ティセちゃん、ありがとう。……さあ、少しだけ我慢してね。私の家はすぐそこだから」
シズルは、ティセが持ってきた毛布でフェリアをしっかりと包み込むと、小柄なフェリアの身体を、背中に背負い上げた。
華奢に見えるシズルだが、毎日の畑仕事や、時折訪れる脳筋の護衛たち(ヴァルガやエリノーラ)との生活で鍛えられているのか、その足取りはしっかりとしていた。
シズルの背中から伝わってくる、確かな体温。
耳元で聞こえる、一定のリズムを刻む心音。
それは、フェリアがずっと求めていた、何よりも安心できる「居場所」の音だった。
「……っ、う、あぁぁ……っ」
フェリアは、声にならない嗚咽を漏らしながら、シズルの背中に顔を埋めた。
痛む喉から絞り出されるのは、美しい歌声ではなく、ただの不格好な泣き声だけ。
だが、シズルはそれを嫌がるそぶりも見せず、「大丈夫よ、もう怖くないからね」と、まるで小さな子供をあやすように、優しく声をかけ続けた。
◆
山小屋のリビング。
暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てる中、フェリアはふかふかのソファに横たえられていた。
泥だらけだったドレスは着替えさせてもらい、シズルのゆったりとしたワンピースを借りている。全身を毛布で包まれ、冷え切っていた身体の芯が、少しずつ解凍されていくのを感じていた。
(温かい……。ここは、天国なのかな)
王都の冷たい石造りの劇場とは違う。木の温もりと、生活の匂い、そして先ほどからキッチンの方から漂ってくる、甘く優しい香りが空間を満たしている。
「お姉さん、この白くて太いお野菜、細かく刻めばいいですか?」
「ええ、ありがとうティセちゃん。なるべく小さめの角切りにしてくれる? その方が、蜂蜜の成分がしっかり浸透して、エキスがいっぱい抽出できるから」
「はいっ! まかせてください!」
キッチンでは、シズルとティセが何やら調理をしていた。
ティセがまな板の上でリズミカルに刻んでいるのは、この山の畑で採れたという、太く瑞々しい大根(ファンタジー世界における、大根によく似た根菜)だ。
「フェリアさんって言ったかしら。少し起き上がれる?」
シズルが、木組みのトレイを持ってフェリアの傍らにやってきた。
トレイの上には、湯気を立てる丸いマグカップが乗っている。
フェリアが身体を起こすと、シズルはふうふうと息を吹きかけてから、そのマグカップをフェリアの手に持たせた。
「これはね、さっきティセちゃんに刻んでもらったお野菜を、たっぷりの蜂蜜に漬け込んで抽出した『特製のシロップ』をお湯で割ったものよ。……喉の痛みや炎症に、すっごくよく効くの。熱いから、少しずつ飲んでみて」
フェリアは、マグカップの中を覗き込んだ。
少し白濁した、とろみのある黄金色の液体。
そこから立ち上る湯気を吸い込んだだけで、ヤスリで削られていたような喉の痛みが、スゥーッと和らぐような気がした。
(お薬……。でも、王都の医者が無理やり飲ませてきた、あの泥みたいに苦くて痛いポーションとは違う。とても甘くて、優しい匂い……)
フェリアは恐る恐る、マグカップに口をつけた。
とろりとした温かい液体が、舌の上を滑り、傷ついた喉の奥へと流れ込んでいく。
「……っ!!」
その瞬間、フェリアは目を大きく見開いた。
ただの蜂蜜の甘さではない。大根の成分が持つ、ピリッとした微かな刺激と圧倒的な清涼感が、炎症を起こして熱を持っていた声帯を、優しく、けれど力強く包み込んでいく。
蜂蜜の濃厚なとろみが、血を流してささくれ立っていた喉の粘膜をコーティングし、痛みを瞬時に消し去っていく。
(痛くない……! 唾を飲み込んでも、息をしても、あんなに火を噴くように痛かった喉が……嘘みたいに楽になっている……!)
フェリアは夢中で、コクリ、コクリと、その温かい黄金のシロップを飲み進めた。
一口飲むごとに、喉の奥の痛みが消え去るだけでなく、酷使し続けてカチカチに硬直していた首周りの筋肉や、絶望に支配されていた胸の奥の重苦しさまでが、内側からじんわりと温められ、溶かされていく。
前世の現代日本でも、喉の痛みに効く民間療法として親しまれている『はちみつ大根』。
だが、シズルが育てたチート級の生命力を誇る薬効野菜と、ローウェンが持ってきた最高級の蜂蜜を掛け合わせたそれは、民間療法という枠を完全に逸脱した、まさに『神代の魔女の秘薬』に他ならなかった。
「ふふ、美味しい? ゆっくりでいいから、全部飲んでね」
シズルが、フェリアの頭をポンポンと優しく撫でる。
マグカップを空にしたフェリアは、コクリと頷き、そして――ポロリと、大粒の涙をこぼした。
「あ……ぅ……」
「大丈夫、大丈夫よ。声帯が治っても、すぐに声を出そうとしなくていいわ。傷ついた心と身体は、ゆっくり時間をかけてお休みしないとね」
シズルはフェリアの頭を胸に抱き寄せ、その背中をトントンと一定のリズムで叩いた。
「あなたは今日から、ここで、ただの『女の子』としてゆっくり休めばいいのよ。誰かのために歌わなくても、誰かの期待に応えなくても……あなたは、ここにいていいの」
その圧倒的な甘やかしの言葉に、フェリアはついに声を上げて泣き崩れた。
歌えなくてもいい。ただの無価値な自分でも、ここにいていい。
ずっと、ずっと欲しかったその許しを与えられ、声枯れの歌姫は、シズルの温かい胸の中で、これまでの人生のすべての重圧を涙に変えて流し尽くしたのだった。




