第3話:痛みのない朝と、大工の魂を震わせる「休憩」
翌朝。ガストンは、山小屋の脇に張らせてもらった仮設テントの中で目を覚ました。
「……ん」
ゆっくりと瞼を開け、寝袋の中で身体を動かす。
その瞬間、ガストンは自分の身体に起きている『奇跡』を再確認し、息を呑んだ。
「……痛くねえ」
三十年間、彼にとっての『朝』とは、絶望と恐怖の時間だった。
固まりきった背骨。寝返りを打つだけで走る鋭い痛み。起き上がるためには、悲鳴を上げる腰椎をなだめすかしながら、数十分かけて少しずつ身体を動かさなければならなかった。
だが、今朝はどうだ。
スッと上体を起こしても、腰には何の違和感もない。それどころか、背筋がピンと伸び、身体の奥底から若い頃のような活力が湧き上がってくる。昨夜、あの『エメラルドグリーンの特製薬湯』に浸かった効果は、一晩寝て完全に身体に定着していた。
「はっ、はははっ! すげぇ……本当に、まったく痛くねえ! 俺の腰が、完全に治ってやがる!!」
ガストンはテントを飛び出し、朝露に濡れた山の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、大きな声で笑った。
三十年ぶりの、痛みのない朝。
腕を回し、深く屈伸をしても、関節は滑らかに動き、筋肉はしなやかに躍動する。十代の丁稚奉公時代に戻ったかのような、完璧な万能感だった。
「おっ、親方。ずいぶんと元気そうじゃねえか」
「おう! 傭兵の旦那! 早起きだな!」
薪割りをしていたヴァルガに、ガストンは満面の笑みで手を挙げた。
「今日の俺は絶好調だ! 身体が羽のように軽いぜ。……よし! 早速、昨日の図面の通りに木材の切り出しから始めるぞ! お前さんにも手伝ってもらうからな!」
「へへっ、人使いの荒い親方だ。まぁいい、力仕事なら任せておけ」
ガストンの職人魂は、これまでにないほど激しく燃え上がっていた。
自分の腰を治してくれた恩人であるシズルのために、世界で一番住み心地の良い家を建てる。その強烈なモチベーションと、痛みから解放された完璧な肉体が合わさった今の彼は、まさに無敵の大工だった。
◆
「おおおおおっ! 腕が鳴るぜぇぇぇっ!!」
ガストンは、ローウェンが街から急遽手配して運び込ませた最高級の木材――香りの良い『香柏の木』――を前に、凄まじい勢いでノコギリを引いていた。
ズバァッ、ズバァッ、という小気味良い音が響く。
痛みを庇う必要がないため、体重移動が完璧だ。狙った線を一ミリの狂いもなく切り出し、鉋をかければ、透き通るような美しい木屑が舞い散る。
ヴァルガが重い丸太を軽々と運び、ガストンがそれを神業のような精度で加工し、組み上げていく。
増築の第一歩は、手狭だったキッチンの拡張と、ティセのための新しい個室の増設。そして、あの素晴らしい『露天風呂』の周囲を囲む、広々としたウッドデッキの構築だった。
「親方、次の木材はここに置くぜ」
「おう、そこに置いとけ! 次はホゾ穴を刻むからな!」
一心不乱に木と向き合うガストン。
彼の顔は、真剣そのものだった。街の現場では、いつも痛みに耐えながら、あるいは弟子のミスに怒鳴り散らしながらしか仕事ができなかった。だが今は違う。純粋に『物を作る喜び』に満ち溢れている。
(木を削るのが、こんなに楽しいなんて……いつ以来だ?)
そんな風に、ガストンが自分の仕事に没頭していた、その時だった。
「ガストンさーん、ヴァルガさーん! 休憩にしましょう! お茶が入りましたよー!」
山小屋の縁側から、シズルの柔らかい声が響いた。
見れば、縁側には冷たい飲み物と、お盆に乗せられた軽食が用意されている。
「おっ、休憩か。親方、少し手を休めようぜ」
「あ? ああ、そうだな」
ガストンは鉋を置き、額の汗を拭いながら縁側へと歩み寄った。
「お疲れ様です。二人とも、すっごく作業が早くてびっくりしちゃいました。……はい、冷たいお茶と、塩を少し強めに効かせたおにぎりよ」
「あ、ありがとうございます」
シズルから渡されたのは、よく冷えた麦茶のような香ばしいお茶と、海苔が巻かれた塩おにぎりだった。
ガストンはそれを受け取り、一口かぶりつく。
「……っ!!」
身体に、電撃が走った。
汗をかいて失われた塩分とミネラルが、おにぎりの絶妙な塩加減と、米の甘みによって急速に補給されていく。そして、冷たいお茶が火照った身体を内側から冷まし、喉の渇きを完璧に癒やしてくれた。
だが、ガストンを最も震わせたのは、味そのものではない。
「汗、すごいわね。無理しないでくださいね。はい、冷たいおしぼり」
シズルが、氷水で冷やした清潔な布を、ガストンのゴツゴツとした手にそっと乗せてくれたのだ。
さらに、彼女はガストンが座る場所に、サッと日除けのすだれを下ろし、風通しを良くしてくれる。
(……なんて、温かいんだ)
ガストンは、おにぎりを噛み締めながら、目頭が熱くなるのを感じた。
街の現場で、大工の親方として働く日々。
依頼主である貴族や大商人は、ガストンたち職人を『金で雇った便利な道具』としてしか見ていなかった。
「早く仕上げろ」「もっと安くしろ」「音がうるさい」。そんな文句ばかりを投げつけられ、休憩時間にお茶一杯出されることすら稀だった。汗まみれで働く彼らを、汚いものを見るような目で遠巻きにされるのが常だった。
だが、この山小屋の女将は違う。
泥と木屑にまみれたガストンを全く嫌がらず、むしろ「大変な仕事をしてくれてありがとう」という心からの敬意と、家族に対するような深い慈愛を持って接してくれる。
ただのおにぎりと、お茶。そして冷たいおしぼり。
それだけのことが、過酷な世界で心をすり減らしてきた老練な職人の魂を、根こそぎ救い上げていくような、究極の『癒やし』だったのだ。
「……シズル様。このおにぎり、最高に美味いぜ」
「ふふ、良かった。いっぱい食べてね。足りなかったらまだあるから」
ガストンは、職人としてこれまで生きてきた中で、今が一番幸せだと心から確信していた。
この人のために、自分の持てる技術のすべてを注ぎ込もう。改めてそう誓い、おにぎりを頬張った。




